井本喬作品集

泳ぐヒト

 およぐひとのからだはななめにのびる

 二本の手はながくそろへてひきのばされる

 およぐひとの心臓(こころ)くらげのやうにすきとほる

 およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ

 およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

              (萩原朔太郎「およぐひと」)

「あなた、泳げますか」

 面接者がそう言ったのを、私は思い出した。ただし、ここには水はない。よくありそうな駅前広場の噴水さえない。ロータリーに停まっていたワゴン車の白い車体に書かれた「碧水荘」の黒い文字が面接者の言葉を意識に上らせたのだ。車はリフト車のようだ。私を迎えに来た車らしい。碧水荘なんて旅館のような名だ。老人ホームの名では青山荘というのがあるが、まさかそれをひねって洒落たわけでもあるまい。

 車の傍に若い男が立っていた。彼はブルーのトレーナーを着ていた。ただでさえ乗降の少なそうなこの駅に、しかも十時近くの時間に降りたのは数人で、目指す相手が私であるということはすぐ分かったようだった。男は白井と名乗った。背はそれほど高くないが、なかなかハンサムな男だ。いや、かなりハンサムだ。話しかけてきたときは涼しげな目を細め真っすぐな口の端をわずかに上げて、ちょっと困った相談事を打ち明けるかのような、親しげでかつ恥じらうような表情を見せた。施設職員にしておくのはもったいない気がする。といっても、彼にふさわしい職業がどんなものかは見当がつかないが。白井は私を助手席に乗せて車を発進させた。車は駅前のわずかな家並みを抜けて田畑の中を右手の低い山の方に向かって走る。

「十分ぐらいかかります。バスは通っていませんから、通勤用のマイクロバスを出しています。車で通う人もいます。駅前の駐車場を借りて、車を駅との往復に使う人もいますね」

 白井はそう言ったきり黙ってしまったので、私はまた面接のときの記憶に戻った。面接者の問いかけに私は「は?」と聞き返した。面接者は年齢がよく分からないがスポーツマンのようにいかつく、いかにもやり手という雰囲気の男だった。きちんと背広を着こなし、手にした書類に目をやることなく、私を見続けている。威圧的というほどではないが、相手をくつろがす必要性など感じていないようだ。

「プールでのリハビリをしてもらうことになるので、水を怖がる人はちょっとね」

「一応、泳げます」

「一応というのは、どれくらい」

「プールで千メートルぐらいなら」

「ほう、それはなかなかだな」

 泳ぐことの質問はそれだけだった。もっと詳しい説明を求めることを私はしなかった。必要ならば教えるだろうし、そうでなければ聞いても答えてはくれまい。詮索好きの人間は嫌われるだろうと、警戒したのだ。職探しにいいかげん疲れてしまって、臆病になっていた。

「応募されたのは、経験があるからですか」

「他の仕事も探してみたのですが、やはり、経験を生かした仕事の方がいいと思いまして」

 前の仕事を辞めた理由は履歴書には適当に書いてある。詳しく問われたときにはどう答えるかはこの場になってもまだ決めかねていた。隠しても問い合わされればすぐに分かってしまう。かといって馬鹿正直に話せば採用はしてくれまい。面接の段階まで来れたのは、採用担当者が調査に手間をかけないのか、前歴にあまりこだわらないからなのか。

 しばらく間を置いて面接者は言った。

「待遇面で何かご希望はありますか」

「仕事の内容は普通の施設と同じと考えていいのでしょうか。給与がかなり高めになっていましたが」

「もちろん優秀な人を採用したいからですが、もう一つ理由があります。この施設の取り組みは先進的なので、技術的な情報など機密保持が必要なのです。採用させて頂いた方には秘守義務が課せられます。それは退職後も継続され、違反した場合には罪に問われることになります。そのことはご承知置きいただきたい」

 一企業が罰則を科すことなどできるのだろうかと疑問に思ったが、やはり黙っていた。面接者は普通の福祉事業の管理運営者とはだいぶ違っているように思えた。普通の施設なら給与の高さに敏感な人間の気を引こうとは思わないだろう。この組織が社会福祉法人ではなく株式会社だから、実利的と言ったらいいのかもしれないが、それとも少し違うような感じである。求職者に求めることを彼らはあからさまにしようとはしないが、ある基準があることは確かなようだ。そういう隠された基準にマッチしているのかどうか、私には分からない。

 面接の場所はホテルが会議や研修用に貸している部屋である。折りたたみの机に白布をかけ、やはり折りたたみの椅子を配置しただけの殺風景な室内である。面接の案内には日時と場所と、建物の中のこの部屋の位置が書かれてあって、受付も案内もなく扉に貼られた面接会場と記された紙を頼りに入っていくと、男が一人きりで、いきなり面接が始まったのだ。

 勤務をする場所で面接をしてくれれば、通勤の経路や、建物設備などの具体的な環境や、さらには職場の雰囲気なども幾分なりとも知ることができるのだが、そういう考慮はなされていない。施設が辺鄙な場所にあるので応募者の利便を考えてという理由かららしいのだが、単にそれだけではなさそうだ。勘ぐれば、採用されなかった者に施設を見せることを避けたかったのではないか。

 この求人に応じたのがどれ位の人数なのかは分からなかった。その中で何が決め手になって私が(私だけが?)採用されたのかも分からない。福祉施設勤務の経験は有利だったろう。しかし、それは私だけのことではないはずだ。何か変わったところのある施設であることは間違いない。

 車は山の端にかかって少し登った後、ゆるやかな斜面を削って開いた空き地の広がる一画に入った。平らにならされた地面には雑草が生い茂っている。

「バブルの頃、工業団地を予定したらしいのですが、誘致できた企業が全くなくて。あるのはうちの施設だけです」

 金網のフェンスに囲まれた広い敷地の三分の一ほどの面積を建物が占めていて、残りは芝生と庭園になっている。何かが植えられた畑のようなものもある。フェンスの際には桜らしい木が植えられているが、まだ若木で細く弱々しい。

「広いんですね」

「浄水装置と浄化槽が地下にありましてね。この下に農地があるので、排水がシビアーなんですよ。ここの排水は飲もうと思えば飲めるほどきれいになっています」

 フェンスの門は開いていた。コの字型をしているらしい二階建ての棟と、その奥に体育館のような棟がある。手前の棟の外壁は白く、形ばかりの赤い屋根がついていて、建物をしゃれたものに見せようとしていた。駐車場はその棟の傍にあり、十数台の車が停まっている。白井はそれへ並べて車を停めた。

 白井が先に立って建物の中に入ろうとしたとき、自動扉が開いて男が出てきた。男は私たちの顔をにらみつけ、侮蔑の言葉らしいつぶやきを低く漏らしながら通り過ぎて行った。ジャンパーを着た中年の男で、この施設の関係者ではなさそうだ。男の後からもう一人男が出てきた。白井は、「施設長」と呼びかけたが、彼はちょっと目を向けただけで返事をせず、離れていく男の方へ顔を戻した。白井と私も立ち止まって男の行動を見守った。男は門に向かって歩いて行った。車がないとすれば、駅まで歩くつもりだろうか、と私は思った。その困難を男も悟ったのだろう、門までの距離をだいぶ残して立ち止まり、振り向いて叫んだ。

「タクシーを呼べ」

 白井に施設長と呼ばれた男(あとで近藤と名乗った)は、声を大きくして、だが穏やかに言った。

「タクシーを呼ぶには時間がかかりますよ。よかったらお送りしますが」

 近藤は男の返事を待たずに白井に指示した。

「送ってさしあげて」

 白井は「はっ」と声を出して、乗ってきた車へ走って戻った。男は黙ってこっちを見ていたが、白井が車を近づけると、助手席のドアを開けて乗り込んだ。近藤と私は、車が門を出て行くまで見送った後、顔を見合わせた。近藤は六十前後に見えた。中肉中背、特徴のない体つき。髪は後退しつつあるが白髪はない。まぶたでせばめられた目つきと、とがり気味に結ばれた口元は、あまり笑うことのない人生を過ごしてきたのではないかと思わせる。

「どうぞ」

 近藤はそう言って先に建物の中に入った。私は後に続いた。玄関には段差がなかったが、内部はカーペット敷きになっていたので私はためらった。

「履き替えなくてもいいのですか」

「あ、そのままで。職員は通勤用と仕事用で履き替えているが。下足箱の位置は決まっているはずだから、後で聞いてください」

 入ったところはホールになっていて、左手に下部が不透明なガラスで仕切られた事務所らしき区画があった。中に机が五つあり、三人の女性と二人の男性がすわっていた。受付カウンターから近藤は中に声をかけた。

「古谷君、ちょっと」

 近藤は事務所の隣の部屋に入った。私が続き、後から事務所にいた男(古谷だろう)が入ってきてドアを閉めた。近藤はデスクの前の応接セットを示した。私は二人と向かい合って座った。机の上に残っていた二つの茶碗を古谷が端の方へ片付けた。

「今日からよろしく。私は施設長の近藤、こちらは事務長の古谷君」

 古谷と私は名乗り合って挨拶した。近藤は古谷の方を向いて言った。

「白井君に用事を頼んでしまったので予定が狂ったかな」

「あの男、まだ何か言っているのですか」

「なかなか納得してくれなくて、困ったよ」

 近藤は古谷が取り上げようとしたその話題を打ち切るように、私に向かって言った。

「あの人のお母さんをうちで預かっていたんだが、亡くなられてね。息子さんはうちの責任を言われるのだが、うちも精一杯のことはしているので、応えようがなくてね。白井君はすぐ帰ってくるだろうが、それまで古谷君にお相手を頼もう」

「白井君に頼んだのは迎えだけで。最初は辞令交付と施設長の訓話ですから、このままやってしまいましょう」

「そうだったか。そうするか」

 ノックの音がして、「失礼します」と言って中年の女性が茶碗をのせた盆を持って入って来た。彼女は机に残っていた茶碗を片付け、布巾で机をふき、持ってきた三つの茶碗をそれぞれの前に置いた。私たちはその動作が済むまで待った。彼女が部屋を出ようとするとき、近藤が声をかけた。

「島谷さんの息子さんは、うちのマイクロバスに乗って来られたのか」

「そうです。お断りできなかったらしくて」

「それはかまわないが。だからあんなに早かったんだな」

 近藤はそこで言葉を切り、「ありがとう」と言って女性に退室を促した。古谷も出て行って、近藤と私の二人きりになった。彼はまるで準備不足のスピーチでもするように落ち着かない口調で話し始めた。島谷という男のことが気になっているのかもしれないと私は思った。

「あなたは施設勤務の経験があるのでしたね。そういう職員の補充を要望していたので心強い。ここは最初は素人ばかりで運営されていて、福祉施設とは呼べないような状態だった。いまはだいぶ改善したが、介護技術面などはまだまだ十分とはいえない」

 私はあきれて問いかけた。

「施設勤務の経験者は私だけですか」

「いや、君だけというわけではない。君以前にも何人かは採用している」

 近藤は新規採用者に対して悲観的なことを言い過ぎたことに気がついたのか、本来のものらしいなめらかな話し振りに変えた。

「採用の際に説明を受けているとは思うが、うちの施設は高齢者介護の先進的な実践を行っている」

 そこで近藤はいったん口を閉じた。私は自分の理解の程度を示さねばならないのだろうと思って言った。

「水中リハビリのことですか」

「それもあるが、それだけではない。うちでの取り組みはある革新的な考えのもとに行われているので、まだ社会的な認知を受けるまでには至っていない。特に一部の福祉関係者からは誤解や反発を受けることさえ予想される。彼等の視野は狭いから理解するのが難しいのだ。自分たちの今までやってきたことに疑問を持つことはないし、馬鹿げた誇りさえ抱えている。余計な波風を立てたくはないので、そういう人間の採用は今までできるだけ避けてきた」

 私はどう答えていいのか分からなかったので黙っていた。近藤は続けた。

「君ならよく分かっているはずだが、福祉事業というのは福祉従事者個々の献身によって支えきれるようなものではない。その困難はシステム上の問題なのだ。問題の解決はシステムの次元でなされねばならない。ところがそのことを分からん連中が多すぎる。うちの実践の革新性を社会に理解してもらうには時間がかかる。世間というものは皮相的な感情に流されがちだから、よく理解せぬままに新規な試みを知ったら必ず反発する。だから、この実践の成果を明確に示すことができるようになるまで、詳しい内容の公開は差し控えている。君にもそのことは守ってもらいたい。ここでやっていることを許可なく口外しないように。これは一般的な守秘義務に該当することだ。我々のやっていることのノウハウを守ることでもあるのだから」

 何か質問はあるかと問われたが、何をどう聞けばいいか分からないので、特にないと答えた。細かいことは事務長に聞いてくれと私は古谷に引き渡された。施設長の部屋から出て、面会室のような小さな部屋へ案内され、丸いテーブルに古谷と向かい合わせにすわった。彼は就業規則や運営規定などに基づいて勤務上の細かいことを説明した。私は退屈なその時間を古谷の性格を見極めることに使った。やり手のようであるが、軽い感じがする。お調子者なのかもしれない。

「ああ、もう昼ですね。今日の食事は準備させておきました。今後も、希望するならば、厨房で作った食事を食べることができます。近所に食べに行くようなところはありませんからね。食費は食数分が給与から差し引かれます。もちろん、弁当を持参するなりして、必要がないならば、それでもいいのですが」

「お願いしておきます」

「栄養士に連絡しておきましょう。昼からは、主任の小倉が説明します。食事のときに紹介できるでしょう」

 職員食堂に案内されると、既に三十人ほどの席はほぼ埋まっていた。隅のテーブルに近藤がいた。一緒にいる三人の女性は事務所にいた職員のようだ。食堂と厨房の仕切りのカウンターから食器の載ったトレーを受け取り、古谷に従って近藤のテーブルの空いている席にすわる。焼き魚、サラダ、ごはん、みそ汁、といった内容だった。メニューは利用者と同じだと古谷が言った。

「どうです、味は」

 近藤が話しかけてきた。

「おいしいですね」

「最近は、施設の食事はおいしいのが当たり前になっている。ただし、高齢者向きの味付けだから、君らには物足りないかもしれないな。健康にはいいが」

 メニューが一つのせいか、持参したらしい弁当を食べている者が結構いた。

「小倉さんに君のことを引き継いでおこうか。小倉さんはまだかな」

 古谷はそういいながら首を回して厨房の中や食堂の入口を見た。

「まだみたいだな」

 その後、ほとんど会話はなく、静かに素早く食事は終わった。食べ終わった職員は食堂を出てどこかへ消えていく。古谷と私も立ち上がり、空になった食器を載せたトレーを厨房のカウンターに返した。

「休憩しましょう。コーヒーでも飲みましょうか。とは言っても、自販機で買うんですが」

 私たちが食堂を出ようとしたとき、一人の女性が入ってくるのに出会った。古谷が声をかけた。

「ああ、小倉さん、ちょうどよかった」

 小倉は主任という職にあって、介護面での責任者だということだった。歳は四十前後だろうか、容貌には自信を持っているようだ。彼女もトレーナー姿なのだが、着こなしがあかぬけていて、まるで自身のために選んだ服のように見せている。誰にでも好意的な顔つきを見せていて、如才なく接することができるのは確からしい。

 午後一番に、小倉は施設の中を案内してくれた。利用者の居室はみな個室で、それぞれの入口が中央のホールに面しているというユニットケア方式になっている。そのユニットが一階と二階にそれぞれ二つずつある。二つのユニットの境に介護者用の区画があった。カウンターで仕切ってあるだけで、両方のホールが見通せるようになっていた。区画の中にはデスクと簡単な調理の設備があった。一階の介護者区画では職員が一人パソコンのモニターを見ていた。ホールでは二人の職員が動き回っていた。食事をすませたらしい利用者たちがテーブルに座っている。大型のテレビがつけられているが、見入っているようでもない。居室のベッドに横になっている人もいた。車椅子を使っている人も何人かいた。小倉は利用者個々に私を紹介した。歓迎の意を表そうとする人もいたが、ほとんどは興味なさそうに聞き流しているようだった。こういう情景を見る限りでは、どこの老人ホームとも同じようであり、特に変わったところはなさそうだった。建物や家具は新しいが、画一的でそっけない印象を与え、それを使う人間には何の無関も持っていないかのような感じも共通だった。

 一通り回ってから私は小倉に質問した。

「定員は何人ですか」

「定員というのはないのよ」

「ここは法律上の施設ではないんですか」

「法律上は有料老人ホームになっている。でも、補助金や介護保険給付は一切受けていないので、規制はほとんどないものと思っていていいわ」

「現員は何人ですか」

「いまちょうど三十人ね」

「職員配置はどうなっているのですか」

「特養に準じている。くわしくは後で説明するわ」

「勤務は三交代ですか」

「基本的にはね。後で勤務表をお見せするわ」

 小倉は渡り廊下のようなところを通って、別棟へ案内した。扉を開けて入ると、がらんとした空間にかなり大きなプールがあった。プールを満たしているのは温水のようだった。天井はあまり高くないが、壁のかなりの部分がガラスになっていて明るかった。

「ここがこの施設の特徴ね」

「水中で機能回復訓練をするんですね」

「ええ、そう。もうすぐ午後のプログラムがあるから見てちょうだい」

 私たちはそこで待ったが、訓練はなかなか始まらなかった。私は思いついて言った。

「仕事は今日からですか。準備はしてきましたけど」

「明日からでいいわ。あなたは経験があるから、介護に関する研修は必要ないと思うけど、しばらくは白井君と一緒に動いてもらうことにしたわ。白井君とはもう会ったわね」

「ええ、迎えにきてもらいました」

「日課についてはマニュアルを見てちょうだい。記録は全てコンピューターだから、その操作も教えておくわ。何か、他にご質問は」

 私は小倉の顔をぼんやりと見た。何だか突き放されているようだった。何が気に入らないのだろう。彼女は愛想よくにこやかに私の顔を見返している。小倉は、質問を思いつかないでいる私に満足したのか、助け船を出した。

「実際働いてみないと、よく分からないでしょうね」

「そうですね」

 そのとき扉が開き、Tシャツとショートパンツ姿の職員に付き添われて数人の利用者たちが入ってきた。利用者たちは裾の短い白い手術着のようなものを着、浮輪かライフジャケットらしきものを首から肩につけていた。一人で達者に歩く者もいれば、職員に手や体を支えてもらう者もおり、一人は車いすに乗って押されてきた。この雑然とした集団は、手すりのついたスロープからプールの中へ入っていった。みななれているらしく、無言のまま順番にゆっくりと水に体を沈めていく。ためらう様子がないのがかえって奇妙だった。

 プールの深さは職員の胸ほどだったが、背の低い利用者は首だけを出していた。職員の誘導に従って水の中で移動しているので足は底に届いているようだ。水中の人々は輪になって時計と逆方向にゆっくりと回っている。体を動かすのが困難な人も、浮きに支えられ、職員に引かれて動かされている。小倉は何の説明もしないので、私たちは黙って眺めていた。

 突然、輪の中の一人の女性の利用者が激しく動いた。後で分かったのだが、人々の動きで起こった波のせいで水を飲んでしまい、パニックになったのだ。職員があわてて傍に近づき、プールから出そうと体をつかもうとするのだが、手をばたつかせるのでなかなかうまくいかない。人の輪は停まり、崩れた。

 みながその騒ぎに注目しているときに、一つの頭が漂い離れていくのに私は気がついた。見ていると頭は消えて浮きだけが残った。この騒ぎではプールの中の職員の注意を向けさすのは難しいと私はとっさに判断した。私は急いで上着と靴を脱ぎ、深さの検討がつかないので足からプールへ飛び込んだ。

 温水ではあるのだろうけれど暖かくは感じない。服の抵抗はあるが体をけり上げ二かき三かきして見当をつけた辺りまで泳ぐ。すぐに沈んだ体を見つけ水面に引き上げる。意識がないようだ。両手で頭を支えて水面上に出し、後ろ向きなって足だけで水をかき、プールサイドに運んだ。

 説明なしに行動したため唖然としていた人々も、ようやく溺れた人間がいたことに気づいたようだ。運んだ体を小倉に手伝ってもらって引き上げ、私は叫んだ。

「心肺蘇生を」

 小倉は落ち着いていて、小柄な老人(女性だった)の体を仰向けに横たえ、肩を軽くゆすった。

「佐伯さんね。分かりますか」

 反応を確認しつつ、小倉は傍に寄って来た職員たちに怒鳴った。

「ドクターを呼んで。それと、他の人をプールからあげて。人数をちゃんと確認してよ」

 職員たちの動きが鈍いので、私は小倉に言った。

「手伝います」

 私は小倉に代わって老人の傍にかがみこんだ。老人の首を動かして気道を確保してから、様子を見る。呼吸はしていないようだ。私は息を吹き込んだ。二回目に老人は弱い咳をして水を出した。私は職員たちに指示している小倉に声をかけた。

「蘇生しましたよ」

 すぐに寄ってきた小倉は私のそばにひっつくようにして老人の状態をうかがった。

「よかった」

 ドクターらしき白衣の男が看護婦とともに来て、心音を確認したのちストレッチャーに老人を乗せて連れ去った。私は小倉に問うた。

「救急車を呼ばなくていいんですか」

「ここには診療所があるからだいじょうぶ。ありがとう、助かったわ。びしょ濡れね。何とかしなくちゃ」

 プールからあがる利用者を誘導するので職員は手一杯なのか、騒然とした雰囲気の中で私を気遣ってくれるのは小倉一人だった。小倉が私を乾かす段取りを職員に命じていると、近藤施設長が現れた。彼は小倉のところに早足で近づき、低い声で吐き出すように言った。

「またか」

「申し訳ありません。職員の人数は増やしていたのですが」

「他に見逃してはいないだろうな。プールの中は調べたのか」

「今やっています」

 近藤は私が濡れたまま立っているのに気づき、驚いて(私が濡れていることにか、そこにいたことになのか、どちらか分からなかったが)小倉に問いかけた。

「どうしたんだ。プールに落ちたのか」

「この人が助けてくれたんですわ。服のまま飛び込んで」

「そうか。それはすまなかったな。よくやってくれた。早く着替えたまえ。何か着替えを見つけてやらんか」

「はい、すぐに」

 そのとき、プールの中を見まわっていた職員があがってきて、溺れた女性がつけていたらしい浮きを近藤と小倉に見せた。

「浮きを縛るひもをほどいてしまったようです」

 近藤はひったくるようにして浮きを点検した。

「留め具を考えねばならんな」

 小倉は私を促してプールに付属した浴室へ連れて行った。常時使っているのではないらしく、狭い更衣スペースとカーテンで仕切られた小さな浴槽があった。

「シャワーを浴びなさい。その間に何か着るものを見つけるわ」

 私は小倉が出ていくのを待ったが、彼女の方は私が脱ぐのを待っているようだった。

「服を洗濯しておくから渡して」

 私はシャツとズボンを脱いで小倉に渡した。

「下着も。私のことなら気にしないで。裸を見るのは馴れている」

「こっちは見られることには馴れていませんよ」

「馴れるのね。ぐずぐずしないで、さあ」

 仕方なく私は壁を向いて裸になり、下着を後ろ手で渡した。

「シャワーの操作は分かる?」

「さあ、何とかなるでしょう」

「タオルは棚にあるから」

 小倉は服を持って浴室から出ていった。シャワーを浴びてタオルで体を拭いていると、小倉が下着とトレーナーを持ってきた。

「トレーナーは施設で支給するあなた用のものよ。下着は利用者用のものしかなかったわ。サイズは合うはずよ。下着はあげるから、使うなり棄てるなり、適当にして。あなたの服は洗濯しておくわ。上着はここ、靴は外に置いてある」

 テキパキとした口調でそう言うと、続けて、「まだ少し早いけど、あなたはもう帰った方がいいわね。施設長に聞いてくるから、服を着ておいて」と出て行った。

 私はトレーナーの上に上着をかぶるという奇妙な格好になり、これで帰るのは厄介だなと思った。洗濯を早く済ませて、アイロンで乾かせば何とかなりそうなものだが。

 すぐに小倉が引き返して来て言った。

「施設長に許可をもらったわ。私が送って行きましょう」

 彼女が着替えるのを応接室で待つ間、近藤施設長や古谷事務長が顔を出して改めて私をねぎらった。ちょっとしたスターだ。初日から上々の滑り出し、といいうところか。

 小倉の車は中型のセダンだった。色は赤。私は助手席に乗った。私の新しい住まいは施設が手配してくれた高層アパートで、駅で三つ離れたところにある。私は小倉にわざわざ送ってくれる礼を言うと、彼女は当然のことよと言った。

 小倉の愛想のよさは変わらないが、より暖かみのあるものになったようだった。利用者一人を助けたことが私の評価を変えたのだ。勇者が謙遜して言うセリフではなく、本当に、当り前のことをしただけなのだが。

 車中で私は会話の種を探したが、こんなに短い付き合いでは仕事のことしか見つからない。

「あなたはこのプロジェクトの最初から関わっていたんですか」

「施設が建てられるときに、チームに加わるよう要請されたの。立ち上がってからずっとこの仕事よ」

「大変そうですね」

 言ってしまってから小倉が私の言葉を揶揄ととってしまうのではないかと気がついた。しかし、彼女は平気で答えた。

「皮肉でなく、そう言ってくれるのはありがたいわ。仕事の内容が難しいうえに、有能なスタッフが不足しているの。あなたが来てくれたのは心丈夫だわ」

「あまり買いかぶってもらうと、面映ゆいのですが」

「とにかく、あなたが来てくれて心強いわ。これまで何人か新規採用された連中がいたのだけれど、みな使い物にならなかったの。採用の係にさんざん文句を言った甲斐があったわ。このプロジェクトがうまくいくように、一緒に頑張りましょう」

 翌日から、白井に付いて業務を始めた。勤務は日勤の他に早出と遅出と夜勤があったが、私は当分日勤に当たることになった。土日に関係なく週二日の休みが適当に配される。やる仕事はどこの高齢者介護施設でもやっているのと同じ内容だった。食事介助、排泄介助、入浴介助の合間にレクリエーション・プログラム。ここの施設の特徴であるプールを使った訓練は、二つのグループに分かれていた。毎日午前午後にそれぞれ一時間ほど実施されている初心者グループと、もっと長く水の中で過ごすベテラングループである。利用者はすその短い着物のようなものに着替えさせられ、スロープで温水の中に入る。みな馴れているようで、従順に職員の指示にしたがって、胸の下ほどの深さのところを誘導されてぐるぐる回る。その程度のことでは劇的な効果は期待できそうになかった。だが、私はケチをつけないようにした。よく分かっていない新人の段階で批判的な態度を取るのは早急すぎるだろう。

 この施設の利用者は、身体状況は様々だが、ほとんどが認知症だった。ここでの実験的プログラムが専ら認知症を対象としているとは聞いていなかったし、認知症専門の施設とはどこにも表明されていない。私は白井に聞いてみた。

「ここは認知症の人だけを入れているのですか」

「そういうわけでもないですが、認知症の人が多いですね。ここが受け入れているのは経済的な事情がある人や、身寄りのない人で、一般の施設では受け入れにくい人たちですから、自然とそうなってしまったのでしょう」

 白井は親切だった。私がいきなりヒーローになってしまったことについて、誰もが好意を持ってくれたわけではないらしい。あんな派手なやり方をしなくとも、救命の時間は十分にあったのだから、職員にまかせるべきだったと言っている者もいることを、白井は教えてくれた。だが、白井は私が職場に参加することになったのを歓迎した。福祉施設勤務に関してはベテランである私は頼りになるから期待していると言った。

 施設は暗く沈んだ調子が主題となって動いていた。それは職員にも影響し、私語や笑い声はめったに聞かれない。利用者たちの中には奇矯な行動をする人もいて、ときどき騒ぎが起こるのだが、泥沼に石がのみこまれるようにすぐに収まってしまう。まるで施設の静けさを強調するためにわざと立てられる騒音のように。

 利用者たちの意識活動が正常に保たれていないにもかかわらず、彼らは自分たちの状況を正しく把握しているように見えた。それは希望を保持させるようなものではなく、絶望までには至らないとしても、憂鬱にならざるをえないものだった。事実、彼らは諦念から悲嘆まで、明るさと暗さのグラディーションのどこかに自分の位置を見つけていた。施設は彼らを元気づけようとはしていなかった。鬱に対して励ましは厳禁であるが、冷淡さもまた適切な対応ではないはずである。しかし、施設は利用者を慰めようともしていなかった。雰囲気を明るいものにしようとする努力もしていなかった。ただ静かに彼らの鬱を受け入れていた。

 利用者の個人データを見て分かったのだが、彼らのほとんどには近い親族がいない。兄弟姉妹や甥姪がいるケースもあるが、交流は途絶えていた。それゆえ、訪問者はいなかった。最初に来た日に出くわした、島谷という息子のケースは特別のようだった。

 四日目の朝、私は古谷に呼ばれた。事務所に入ると古谷の机の傍に白井が立っていた。すわったまま白井と話していた古谷が私に声をかけた。

「今日は白井君と同行して、入所者の迎えに行ってくれたまえ」

 白井が机の上の書類を持って行きかけると、古谷が言った。

「しつこいようだが、くれぐれも気をつけてくれよ」

 白井はそれには返事せずに事務所を出た。私は彼に従った。白井は私がついてくるのを確認して駐車場へ行き、ワゴン車のドアを解錠した。

「乗って下さい。少し遠いですよ」

 白井と二人きりになるのは、最初の日に彼が迎えに来たとき以来だった。一緒に仕事をしているとはいえ、二人でゆっくり話をするひまはなかった。車が走り出してしばらくして、私は会話のきっかけとして言った。

「事務長は何を言っていたんです」

「身元について、もう一度よく確認してから引き受けろって、くどいんですよ」

「何でですか」

「島谷って、あなたも会ったでしょう、死んだ利用者の息子、あいつの件以来、神経質になって。うちで引き受けているのは原則として身寄りのない人なんですが、彼の母親の場合は息子がいたけど音信不通だし、居所も分からないというので、入れてしまったんです」

「何でそれだけ神経質になるでしょう」

「うちでやってることを理解してもらうのはなかなか難しいんですよ。新しい試みには危険がつきものですから」

「事故のことですか」

「事故はどこの施設でもあるでしょうけどね」

 素っ気なさそうに白井が言うので、私は会話を変えた。

「事務長は施設の経験があるのですか」

「さあ。前にどういうところにいたのか知りません」

「施設長は経験は長いようですね」

「そうみたいですね。よくは知りませんけど」

 白井の口振りに私はおやと思った。白井は上司に忠実であるように私には見えていた。それは表面上だけで、本当はあまり信頼していないのだろうか。人間関係の話は避けた方がよさそうなので、業務を話題にすることにした。

「水中訓練の効果はどの程度あるのでしょう」

「水の中なら自由に動き回れるというだけですよ。認知症の治療効果は疑問ですね」

 彼がこのプロジェクトにも疑問を抱いているらしいのはさらに意外だった。私は自分の意見を言ってみた。

「そうですか。どちらかと言うと、あの訓練方法は、認知症の人よりも、身体に障害のある高齢者の方に適しているように思えますね」

 白井は何とも答えなかった。そこで会話は途切れた。しばらく沈黙が続いたので、私はまた話題を変えてみた。

「食堂で見かける職員の中に、食堂以外では会わない人がいますね?あの人たちは何をしているのですか」

「ああ、研究棟の職員ですね。水中訓練の時間を長くする研究をしているのです」

「長くって、どのくらいですか」

「常にプールで過ごすようにするのが最終目標なんです。そうすれば、介護の手間が大幅に省けますからね。トイレ介助と入浴介助が不用になるし、寝たきりの褥創も防げる」

 私はあきれて返答のしようがなかった。白井が本気で言っているのか、それともプロジェクトを揶揄しているのか分からなかった。私は疑問をぶつけるようなことは控え、白井もそれ以上のことは言わなかった。

 途中食事をして、午後一時に目的の高齢者入所施設に着いた。事務所で入所者に関する書類の引き継ぎを受け、諸書類を受け取った。入所者は、段ボール箱などに入れた所持品とともに居室で待っていた。気むずかしい顔をした女性だった。その施設の女性職員が彼女を車まで誘導した。女性が車に乗り込むと職員は声をかけた。

「いよいよお別れですね。お元気で」

 女性はきつい声で答えた。

「うちへ帰るのか」

 職員は返事に窮した。そうですよ、と言っておけば面倒なく引き渡しが済む。しかし、たとえ認知症の人であっても、利用者に嘘をつくことは職員の倫理規定に反し、特に他の施設の人間という第三者のいる前でそれはできなかった。職員はやむなく答えた。

「おうちへは帰りません。この前もご説明したように、別の施設に移るんです。今度の施設はいいところですから」

 職員の危惧に反して、女性は逆らったりせず、あきらめたようにつぶやいた。

「うちへは帰れないのか」

 職員はそれ以上何も言わなかった。何人かの職員が出てきて見送った。笑顔で手を振りながら声をかけてくる彼らを、女性は車の中から黙って見ていた。白井と私は彼らに頭を下げ、車を出した。

 帰りの車の中では、私は後部座席で女性に付き添ったので、白井とは必要以外の会話はしなかった。途中休憩で車の外に出たとき、白井は私の耳に口を近づけ小さな声で言った。

「あの人は自己負担金を払えなくなって施設から出されたんです。身寄りがいませんから、生活保護とか、成年後見とかの手続きはケアマネジャーか施設がやらねばならないのですが、面倒ですから。うちに頼めば、簡単に引き取ります。こんな風にして人を集めているんです」

 私はどう反応すべきか迷い、ただ黙って聞いていた。白井がなぜ施設の実態を私に漏らしたのか、意図がよく分からなかった。

 一緒に働く職員とはすぐに顔なじみになったが、食堂でしか会うことのない人間も何人かいた。白井の言っていた研究棟の人間たちだ。彼等は昼食の時間になると食堂に現れ、食事を済ますとまたどこかへ消えてしまう。他の職員からは孤立しているようで、彼らと席を一緒にして話すのは小倉か古谷ぐらいだった。たまに近藤施設長が声をかけるが、短いやり取りでしかない。

 その中に若い娘が一人いた。彼女の名は中島といった。最初に見かけとき、彼女は皆より遅く食堂に来た。突然という表現がぴったりな勢いで彼女は現れ、トレイを取り踊るような足取りでカウンター窓口に行き、食べ物の入った食器を受け取り、小倉のいたテーブルに着いた。食べることがいかにも楽しそうな様子で、着実に口に運び、残さずに何もかも食べてしまう。好き嫌いなどなさそうだ。横の小倉とときに言葉を交わす。

 彼女は格別美しいというわけではなかった。背は低めで、ポロシャツの胸は平べったく、ほっそりとした手ははたして役に立つのかとさえ思えてしまう。目が細く、頬が張って、顎がとがっている小さな顔。短い髪は乱れていた。彼女には濡れたようなところはなく、むしろ乾燥した風にさらされていたかのような様子だったのに、なぜか私は潮の香りのようなものを感じた。

 中島の勤務形態は不規則なようだった。通勤のときに会ったことはない。彼女に接することができるのは昼食時の食堂でだけだった。きっかけがなければ話すことはできないし、きっかけはなかった。私は中島の顔を見るだけで満足しなければならなかった。

 ある日の勤務終了後、中島の姿を見かけた。彼女はプール棟への廊下を歩いていた。私はしばらく迷ったが、プールに行ってみることにした。

 中島はプールの中にいた。プールの中で泳いでいた。私はそれが仕事の一環なのかと思い、一区切りつくまで待つことにした。どうせ急いで帰る用事はない。しかし、彼女は泳ぎ続け、あがってくる様子はなかった。彼女は単に泳いでいるのだということがようやく私に分かった。ゆっくりとしたクロールで、プールの幅を行き来している。私がいることに気づいているはずなのに、無視していた。私は彼女がターンする場所に行き、彼女が近づいてきたときに、中島さん、と声をかけた。彼女は泳ぐのをやめ、水から首だけをだして私を見た。帽子はかぶっておらず、短い髪から水がしたたっている。

「ここで泳いでもいいのですか」

「小倉さんに許可は取ってあるわ」

 それだけ言うと、中島は再び泳ぎ出した。今度は平泳ぎになり、途中で水中に潜った。私はしばらく見ていた。小柄で細い彼女の体は、水を切るとか水に乗るという風ではなく、優美にゆるやかに水となじんでいた。鍛錬というより、泳ぐのが好きらしい。

 中島は泳ぎ続けていた。もちろん、私が居続けていることは分かっていただろうが、話しかけてくるでもなし、嫌がる様子を示すでもなし、無関心だった。あるいは、無関心を装っていた。私もただ立って見ているだけだった。それもおかしな態度ではあった。相手がどう出るにせよ、一応の挨拶はすべきだった。もっと気軽に、普通のこととして、素直に接すればいいものを、と自分でも思ったのだが、そういう風にしようとすればぎこちなくなり、相手を戸惑わせてしまうことは分かっていた。何かが起こるのを待ち受けるのだが、積極的に出ることはできないのだ。これが性格なのだろう。

 中島はプールから上がってプールサイドに立った。細い体は子供のように見える。女らしさは感じない。彼女が私の方を見たので、私は頭を下げた。彼女はそれを無視してプール棟を出て行った。

 翌日、小倉にプールにいた中島のことを聞いてみた。

「仕事にも関連することだし、かまわないと思って、許可しているのよ」

「彼女だけにですか」

「いえ、彼女だけというわけじゃなくて、希望者があれば誰でもいいのよ。でも、今のところ彼女しかいないわね」

「勤務外なら、私も泳いでいいのですか」

 小倉はじっと私を見つめた。

「ええ、いいけど」

 私は弁解気味に言った。

「ちょうどよかったのです。何か運動したかったのですが、近くにスポーツ施設がないので」

 小倉は微笑んで、繰り返した。

「ええ、いいわよ」

 小倉に下心を見抜かれてしまったようだが、体を鍛えるような何かをしようと思っていたのは事実なのだ。

 私はアパートで一人いると、特に夜は、得体の知れぬ不安に捕らわれることがある。耐えられなくなると、狭い部屋の中を歩き回ったり、意味の不明な独り言を繰り返しつぶやいたりしている自分に気づくのだ。

 前の仕事をやめてから、他人から敵意以外のものは期待できなくなった。私が何者かを知ると、彼等はみな警戒する。親しかった者とも疎遠になり、新しく知り合っても親しくなる者はいなかった。職安の担当者も、表面は親切そうに振る舞うが、希望する職を得られないのを当然視しているのは明らかだった。見つかるのは臨時雇いの単純肉体労働、それを受け入れざる得なくなって、孤独は深まるばかり。ようやく得たいまの仕事も、不安定な日々が続いて委縮しきった心ゆえに、いつ失ってしまうかという怯えがあって落ち着かせてくれない。

 無心に泳ぐことが心を落ち着かせてくれるのではないかと考えたのだ。ただ、プールで泳ぐのには中島に近づきたいという思いもあったので、無心というのではないかもしれないが。

 業務後、私は水着に着替えて、プールへ行った。プールには誰もいなかった。私はプールに入り、静かに泳ぎ出した。泳ぐのは嫌いではなかった。泳いでる間は泳ぐことに専念できた。ときどきプールサイドで休憩した。結局、最後まで一人だった。

 その後も、中島はプールに現れなかった。私がプールで泳ぐようになったことを知って、避けているのかもしれない。そうだとするならば、中島は全く私に関心がないということだろう。あるいは、それ以上に、迷惑に思っていることをそれとなく伝えているのかもしれない。

 中島がプールに来ることが期待できなくても、私はその日課をやめなかった。

 沢田という男の利用者がいた。白井によると、鬱状態だったのを認知症と診断され、ここへ来てその誤りが分かったのだという。沢田は脳梗塞の後遺症で左片麻痺になっていた。発症直後はリハビリには熱心だったようだが、拘縮が一向に緩和せず、とうとう投げ出してしまった。そのときに鬱になったようだ。歩行は困難で車椅子で生活している。

 白井は言った。

「沢田さんには注意していて下さいね」

 私は先回りして答えた。

「自殺のおそれがあるんですね。ファイルの記録にありました、前の施設で未遂をしたって」

 沢田が私に関心を示したことがある。左片麻痺の彼は、器具を使えば歩けるようになると思われるのに、その意欲はなく、ベッドを離れるときは車椅子で、それも自発的ではなく半ば強いられて移るのだった。水中リハビリにも参加していたが、ただ水に浮かぶだけで体を動かそうとはしなかった。話しかけても短い返答をするだけで、ときには無反応のこともある。反抗的というのでもなく、外界の認識が困難というのでもない。無関心というのが彼の態度の適切な表現だろう。彼の目には狂気ではなく理性が感じられた。何か大きな力が彼をくじき、いまなお抑えつけているのかもしれない。そういう彼が、私にだけはなぜか短いながらも会話をしてくれる。

 私は施設勤務の経験があるということで、他の職員から一目置かれるというか、ある意味敬遠されるところがあって、彼らが日ごろしている業務について習おうと思っても、職員の方はやり方を批判されるのではないかと恐れるのか教えるのに消極的である。私の自由にまかされても、状況の分からぬ中で従来のやり方を変えるのはまずいのでためらいがある。そういう微妙な食い違いから生じるさざなみのようなものが利用者にも伝わるようで、意識のしっかりしている沢田が興味を持ったようなのだ。

 ベッドから離すことが処遇方針の一つだったので、動けない利用者を車椅子に乗せて施設の前庭を散歩させることが日課となっていた。その日は私が沢田の車椅子を押した。私は沢田に話しかけた。

「ここでは退屈ではありませんか」

 彼はテレビや新聞・雑誌などを見ることもなく、本を読むこともないので、気になっていたのだ。

「退屈といえば、人生そのものがそうじゃないか」

 わたしの詮索心をそらしたその言葉にどう答えていいか迷ったが、正直な気持ちを表現することにした。

「そうでしょうか」

 沢田はまた黙ってしまった。私は疑問形にした応答でしくじったのかと思った。カウンセリングの初歩は、まず相手を肯定することだ。しかし、そうでしょうねというオウム返しの肯定形(推奨されてはいるが)ではおかしな問答になってしまう。そう思われますかとでも言えばよかったのか。私は沢田の沈黙を尊重して、それ以上話しかけずに車椅子を押し続けた。しばらくして沢田が言った。

「私は、自分を信じて、誰の力も借りずに、やってきた。だが、今は自分の体を動かすのにも人の助けが必要だ。食べることはもちろん、下の世話まで頼まねばならない。こんな状態で生きねばならないのは、退屈どころではないがね」

 私は今度は誤らなかった。

「そうかもしれませんね」

 沢田はまた長い間を置いてから言った。

「君がここへ来て、どのくらいだ」

「三週間を過ぎましたね」

「前は何をしていた」

「同じような仕事です」

「結婚はしているのか」

「いえ」

「結婚したいかね」

「できれば」

「結婚に何を期待している」

「難しい質問ですね。具体的なことが思いつかないので、どんなものか知りたいということでしょうか」

「知ってしまって、後悔することになったら、どうする」

 私は答えに窮した。沢田の経歴のおおよそは彼の記録ファイルを見て知っている。彼は離婚していて、妻や子とは関係が切れている。こういう場合、結婚生活についてどう評価した話をすればいいのだろう。私はやはり自分の気持ちを正直に言うしかないと決めた。

「やり直そうとしますね」

「そうするには遅すぎたら?」

「何事にも遅すぎるということはないと思います」

 沢田はたぶん笑ったのだろう。後ろから車椅子を押しているので彼の顔は見えなかったし、声も聞こえなかったので、よく分からないが。私の楽観論への嘲笑か、未経験への憫笑か。君は若いとか、若いことはいいねとかいう言葉が返ってくるかと思ったが、沢田は何も言わなかった。

 むしろ、私の言葉は彼を傷つけてしまったのだろうか。彼は病気であり、過去にいかに知識や経験を積んでいても、今はかよわい存在なのだ。気楽な会話を楽しめる状態ではないのだ。私はどうフォローしようかと戸惑ったが、結局何もしない方がいいだろうと判断して言った。

「もう、引き上げましょうか」

「いや、まだいい。ここで止めてくれ」

 私は車椅子を止めてブレーキをかけた。車椅子から手を離し、横に立った。そこは広い敷地を輪のようにめぐる通路の道路側の端だった。コンクリートの崖で道路から一段高く、金網を通して草におおわれ荒れはてた工業団地が見渡せた。団地の下方はるか遠くわずかに人家が見えるだけで、人の気配はどこにもない。二人は黙って何の興趣も湧かないその景色を眺めた。やがて沢田が口を切った。

「君は若いから、人生に後悔したことはまだないだろうね」

「そんなことはありません」

「そうかね。あのときああすればよかった、そうすれば人生は違ったものになったのに、などと思うことはあるかね」

「しょっちゅうです」

 私との会話が意外に気晴らしになったようで、それが沢田に次のようなことを言わせたのかもしれない。

「小倉さんから新しい療法を勧められている。君は知っているかね、水の中に入る時間を長くするらしいが」

「詳しくは知りません」

「実験的な手法らしいが、危険性はあるのかね。それならかえって受けてみてもいいかと思っている。もうここらで終りにすべき時期かもしれない」

「危険なことはないと思いますが」

「死んだ人間がいるだろう。隠してはいるようだが、何となく分かるものさ」

「こんなことは言うべきではないでしょうが、どこの施設でも事故はあります。たとえば誤嚥で亡くなったり」

「死因はそうなのか」

「いいえ、私は知らないのです」

「そうか。帰ろうか」

 私は沢田を部屋まで連れて帰った。

 新しい療法とは、白井の言っていた長時間水中に入っているというものだろうか。そういう試みがもうなされているのなら、どこかで見かけるはずだが、そんな気配はなかった。小倉に聞いてみようとかとも思ったが、なぜか触れてはいけない話題のような気がしてためらっているうちに、沢田の姿が施設から消えてしまった。小倉によれば別の施設に移ったのだという。

 施設は私に住居を斡旋してくれた。近くに空き室が多くて簡単に入居できる公営住宅があったのだ。比較的新しい建物らしく、高層で部屋数は多かった。工業団地の繁栄を当て込んだのかもしれない。期待されたようには入居者が集まらなかったせいか、早くも荒廃の気配がある。ほこりっぽいエントランスからエレベーターに乗ると、壁に「小便をしないで下さい」と書いた紙が貼ってある。そんなことをするのは子供かもしれないが、一体どんな人間が住んでいるのだろう。私の部屋は六階で、エレベーターを下りてまっすぐな廊下を左に行った二番目の扉だ。

 仕事から帰って食事前のビールを飲んでいると、インターホンが鳴った。私を訪ねて来る人など心当たりはなく、セールスにしては時間が遅すぎる。住宅の住人の誰かが、私のしでかしたミスを指摘しにでも来たのだろうか。

 ドアまで行って「はい」と答えると、くぐもった男の声がした。

「ちょっと会って話がしたいんだが」

「どなたですか」

「島谷だ」

 それだけでは誰だか分からない。隣の住民の名前さえ確認していないのだから。

「どちらさまでしたっけ」

「島谷弘子の息子だ」

 ようやく分かった。死んだ利用者の息子で、施設にいいがかりをつけに来た男だ。私は警戒した。

「何のご用です」

「こんなとこでは話せない。中へ入れてくれ」

「私がお話を聞いても仕方がないと思いますが。施設の方へ来ていただけませんか」

「施設じゃ話せないから、来たんじゃないか」

 こういう人間に常識が通用しないのは、私の体験からも分かっていた。いわゆる「自己中」(自己中心的)で、自分の要求が通らないのは人のせいだと信じて譲らない連中なのだ。一方的に言い募り、ひるめばしつこく食い下がり、逆らえば大声を出して恫喝する。経験でそれが効果的だと知っているのだ。そういう経験になれない一般人には手に負えない。

 それにしてもその男が何で私に会おうというのか。

 ここで押し問答していてもらちが明かないのは予想できた。私は局面を変えることにした。チェーンはつけたまま鍵をはずし、少し開けたドアから外をのぞいた。男はこびるような笑いを浮かべている。状況によっては阿諛追従もできるのだ。一貫性も、信義もなく、その都度状況に合わせて都合のよい態度を取れるのが彼らの強みなのだ。

「いま人が来ていますので、この部屋でお話を伺うわけにはいかないのですが。駅前に喫茶店があります。ハーベストという店です。すぐ分かります。そこで待っていてくれませんか。すぐに行きますから」

 男の表情から笑みが消えたが、「ハーベストだな」と念を押してからエレベーターの方へ歩いて行った。私は外出の用意をし、しばらく時間をあけ、様子をうかがってから外へ出た。

 喫茶店は古びるにまかせたわびしい店だった。客は島谷の他には誰もいなかった。彼は隅の席にすわりコーヒーらしきものを飲んでいた。

「お待たせしました」

 私は島谷の前の席にすわり、店主らしい中年の女にコーヒーを頼んだ。島谷は黙ったままだったので、私から切り出した。

「お話って、何でしょうか」

「あんたに頼みたいことがある」

「私にですか。あまりお力になれそうもないですが」

「あんたでなきゃできないことだ。でなければ、こんなところまで頼みに来やしない」

「そうですか。で、何でしょうか」

「そうせかせるな。いま話す」

 これは長くなりそうだなと嫌な気持ちになった。早く切り上げてしまいたいのだが、そういう態度を見せると相手は怒り出すだろう。腰を落ち着ける覚悟を決めた方がよさそうだ。コーヒーが運ばれてきたので、その間は沈黙が続いた。私はコーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜた。島谷が黙ったままなので(どう切り出そうか迷っているのか)、私はさっきから疑問に思っていたことを口に出した。

「どうして私の住んでいるところをお知りになりました」

「施設に聞いた」

 それは嘘だった。施設が職員の住所を利用者やその家族に教えることはない。たぶん、私をつけたのだろう。ようやく島谷が話し出した。

「お前のとこの施設で母ちゃんが死んだのは知っているな」

「ええ、うかがっています」

「あいつらは責任を認めよらん。何べんかけあっても、らちがあかん」

「お母様がお亡くなりになったことについては施設には過失がなかったと聞いていますが」

「あいつらが本当のことを言うはずがない。うまいこともみ消したんだ」

「お母様の死因は心不全でしたね」

「そうだ。あいつらが母ちゃんを水の中へ放り込んだから、心臓が止まってしまったんだ」

「水中リハビリは事前に医者のチェックもしていて、無理はしていませんが。それに、本人の意思も確認しているし」

「本人の意思って何だ。母ちゃんは痴呆だったんだ。何も分かっていない人間に、意思の確認もへったくれもあるか。医者だってあそこの職員だろ。グルに決まってる」

「お母様が施設に入っておられたことはご存知でしたか」

「全然知らなかった。隠してやがったんだ。死んでから初めて分かった」

「誰が隠していたんです」

「みんなだよ。施設の奴も、福祉の奴も」

「何か理由があったのですか」

「理由。理由なんかない。俺に意地悪していたんだ」

 こういう奴らは、母親が生きていた間は無責任に放置して他人の世話に任せていたに違いないのに、死んでからはいかにも母親思いの振りをするのだ。それにしても島谷の意図が分からなかった。施設側の人間である私、それも単なる下っ端に過ぎない私にこんなことを話してみたところでしょうがないではないか。同情が欲しいとも思われない。

「そうですか。すると、お母様が施設でどう過ごされていたかも、よくはご存じないわけですね」

「知らんよ。だが、あそこは怪しい。絶対に都合の悪いことを隠している」

「そのことで何か情報を得ておられるのですか」

「いいや。あそこの詳しいことは誰も知らない」

 いつまでもこんな会話を繰り返してもしかたがないので、私は突き放してみた。

「どうしても納得がいかないとおっしゃるのなら、警察とか弁護士に相談なされてはどうですか」

「法律に詳しい奴に聞いてみたら、たぶん相手にされないと言われた」

「それでは、どうしようもないですね」

 これで怒り出したら逃げ出してしまおうと思っていたが、島谷は不思議に冷静だった。

「あんたは何も知らないのか。それともやはり隠しているのか」

「隠すことなどないですよ」

「あんたは新しいからな。ところで相談なんだが、あんたに助けてもらいたいんだ」

「私に何かできることがありますか」

「母ちゃんがなぜ死んだかを調べてもらいたいんだ」

「それは無理ですね」

「あんたから情報をもらえれば、連中にかけあって、カネを出させることができる。そのカネを分けてもいい。オレはカネが欲しいんじゃない。母ちゃんがなぜ死んだかを知りたいだけだ。オレたちを馬鹿にしている連中をとっちめてやりたいんだ。だから、協力してくれないか」

 私をそういうことの相手として選んだことの理由は何だろうか。私が新入りだからだろうか。もしかすると島谷は私の過去を知っているのかもしれない。

「馬鹿なことをいわないで下さいよ。確かにあの施設では水中リハビリという特殊なことをしていますけど、それは秘密でも何でもありません。そんな脅されるようなことではありませんよ」

「あんたが知らないだけかもしれん」

「そうは思いませんけどね。まあ、どちらにしろ、私はそんなことには関わりたくありません。はっきり言っておきます」

 島谷は黙って私の顔をにらんだ。そういうのも彼らのやり方なのだ。相手が沈黙に耐えきれず何かヘタなことを言い出すのを待つのだ。私は黙ってにらみ返した。二人きりなら、彼は暴力をふるったかもしれない。だが、ひ弱そうな存在であれ、第三者がいたことが彼を抑制させたようだ。彼が勢いよく立ち上がったので、私は思わず手で顔をかばいそうになるのを何とかこらえて頭上の彼の視線を耐えていると、彼はそのまま出て行ってしまった。私はほっとした。これくらいのことで済ませられたのだから、彼のコーヒー代を持たされるぐらいは安いものだ。

 島谷の目的がカネであることは分かっていた。しかし、彼が信用できない男だとしても、彼の疑惑まで否定してしまのは早計かもしれない、と私は思った。確かに、いまの施設には私の知らないことがある。島谷の言い分を単なる言いがかりと決めつけてしまうわけにはいかないかもしれない。

 とりあえず、島谷とのことは近藤施設長と古谷事務長に報告した。二人の反応は意外に落ち着いたものだった。近藤は「困った男だ」と言ってから、私にこう付け加えただけだった。

「君には迷惑をかけたな。これからも何か言ってくるかもしれないが、無視してくれたまえ」

 近藤の部屋を出ると、古谷は私に小声で話しかけてきた。

「ああいう男はある程度のカネをやって追っ払ってしまえばいいんですよ。施設長はそんなことをすれば施設の落ち度を認めたことになってしまうと言い張っているんですが、島谷にしてみればカネになりさえすればそんなことどうでもいいはずですから」

「でも、一度カネを渡せば、そのあともずっと要求され続けますよ」

「そうかな。それほど度胸のある男には見えないが」

「警察とかに相談しないのですか」

「あいつの母親がここで死んだのは事実だから、こちらに過失がなくても責任は感じるので、事を荒立てたくないというのが、施設長の考えでね」

「島谷は他の職員にも何か言ってきているのでしょうか」

「うん、まあね。他にそういうことも聞いている」

 その後島谷からの私への接触はなかった。

 このことが影響したのかどうか分からないが、それからしばらくして私の身分について決定がなされたらしい。近藤が彼の部屋に私を呼んだ。ソファに向かい合って座ってから、近藤が言った。

「ごくろうさん。どうだね、もうなれたかね」

「はい、どうにか」

「君の評判はなかなかいいよ。選んだかいがあったというものだ」

「ありがとうございます」

「ところで、君に一つ聞いておきたいことがある」

「はあ」

 来たな、と私は思った。今まで私の前歴に触れようとした者はいなかった。知られていないはずはないのに誰も何も言おうとしないのは、止められていたからだろう。なぜだか分からなかったが、その理由が明かされるのだろう。

「君が前の施設をやめた理由だがね。何かトラブルがあったということだが」

「そうです」

「何があったんだね。話したくないなら、それでもいいが」

「大体のことは分かっておられると思いますが、一応説明はしておきます。ある利用者の家族とトラブルになってしまったのです。モンスター家族とでもいうか、施設のやり方にことごとく文句をつけてくるのです。カネを払っているのだから、注文をつけるのは当然だというのが彼らの常套句でした。施設側としても丁寧に対応するよう心がけていたのですが、それが彼らをいっそう上長させてしまいました。あるとき私は我慢の緒が切れて彼らと論争を始めてしまったのです。その場は、他の職員の取りなしで収まったのですが、家族の一人がSNSで職員の暴言だと取り上げ、問題が大きくなってしまいました。私が、寝たきりで役に立たない人間は生きて行く価値はないと言ったことになってしまったのです。そうは露骨には言いませんでしたが、そんなようなことを勢いに任せて言ってしまったのかもしれません。それは、多くの職員や家族が密かに抱いている思いなのです。ただ、公に口に出すことははばかられるので、黙っているのです。それがつい出てしまって」

「個人的な意見を抱くのは自由だが、問題は、それを表明する場の配慮だろうな」

「確かに配慮に欠けていたかもしれません。マスコミや行政がからんできて、施設内だけで解決できる問題ではなくなってしまいました。職員や家族の中には個人的には私に同情してくれる者もいたのですが、誰も私を弁護してくれませんでした」

「それで解雇されたのかね」

「依願退職ということになりました。事実上やめさせられたのですが、私もやめる気でした。自分は不適格だと思いました。感情をコントロールできなかったこともありますが、いかに激したとはいえ、社会的にタブーなことに触れるのは、福祉にたずさわる者として失格ですから」

「それが、なぜまた施設に勤める気になったのだね」

「他にやりたい仕事が見つかりませんでしたから。もう一度やってみようと思ったのです」

「でも、自分は不適格と思ったのだろう?」

「そうですね。私は自分のことを思いやりがある人間だと思って、自惚れていました。けれど、私には全面的に他人を受容するころが出来ないようです。これは性格だから仕方のないことかもしれません。ただ、最近は少し考えが変ってきました。自分が助けられる方になったらどんな感じがするだろうかと、その辺りの理解が少しは得られたように思います。だから、もう一度勤めてみる気になったのです。それでも不適格と評価されるなら、仕方ありませんが」

「君は物事がきちんとなっていなければ気が済まない性格なのだろうな。だから、自分に厳しいが、人にもその厳しさを求めようとする。世の中にはそういう人間も必要だ。そういう人間ばかりだと息苦しいかもしれないがね。私にもそういう傾向があるから、君の気持ちはよく分かる。君や私のような人間は福祉には向かない、という人もいるだろうね。だが、私たちのような人間が福祉分野に必要とされているのがいまの時代ではないだろうか」

 近藤が何を言いたいのかよく分からなかったが、少なくとも、私が採用されるにおいて、私の前歴が障害とはならなかったばかりでなく、かえってそのことが選ばれる大きな要因になったことは察せられた。彼等は私に何を期待しているのだろう。

「ところで、君には研究棟に移ってもらうことになった」

「研究棟ですか」

「説明していなかったかな。」

「少し聞いていますが、詳しいことは」

「研究棟は一般には公開していない。いわば企業秘密だ。研究には特定の人間しか関わっていない。情報が外部に漏れるのを防がねばならないからね」

 私の顔つきが不安を示す何かの兆候を現したのだろう、近藤は口調を変えた。

「採用の際に大雑把に説明しておいたが、うちの施設は高齢者介護の先進的な実践を行っている。その実践はある革新的な考えのもとに行われているので、まだ社会的な認知を受けるまでには至っていない。だから株式会社という形態をとっていて、医療保険や介護保険の給付は受けていない。これは重要な研究なのだ。大げさに言えば、日本の未来がかかっている」

 私はあいまいにうなずいた。

「つまりだ。君の意識を変えてほしいのだ。従来の介護とはやり方がまるで違うが、この方が、介護する方もされる方もずっと楽になり、幸せになれる。具体的に説明しないと理解しにくいだろうが、見てみれば分かる。しかし、このやり方に抵抗がある人間もいる。人間の尊厳だとか何だとか言ってね。新しい技術には反対する者がきっといる。臓器移植しかり、遺伝子治療しかり。しかし、その恩恵はいまや明白だ。科学の進歩というのは止められない。人間がそれを望むからだ。もっとよい生活、もっとよい人生を望むからだ。その結果、科学が従来の人間観を壊してしまうように思えるかもしれない。もしそうなら、人間観は変わらざるを得ないだろう」

 私はどう反応していいのか分からなかったので、黙っていた。

「どうかね、君はどう思う」

 これがテストだということにそのとき私は気づいた。

「そうですね、介護に携わる者としては、過重な労働が軽減されるのは大歓迎ですね。介護者が楽になるのは、利用者にとっても心の負担が軽くなることになりますし。また、それで介護の労働力不足が解消されるなら、言うことなしです。介護と言うのは、人間の生物的側面が露わになりますから、そこの難点をクリアーすることが人間の尊厳を守ることになると思います」

「そうかね、そう思うかね。この素晴らしい技術の開発にたずさわることができるというのは、とても幸運なことであり、やりがいのあることだ」

 近藤は調べるような視線で私を見ていたが、私の表情に彼が気にするようなものは何も見い出せないはずだった。

「一つだけ、絶対に守ってほしいことがある。詳しいことは追々分かってくるだろうが、この実践の革新性を社会に理解してもらうには時間がかかる。世間というものは皮相的な感情に流されがちだから、よく理解せぬままに新規な試みを知ったら必ず反発する。だから、この実践の成果を明確に示すことができるようになる前に、内容が外に漏れることは絶対に避けなければならない。そのことはぜひ承知しておいてほしい。君がこの仕事の上で知り得たことについては、外部の誰にも話してはならない。ここで行われていることはいっさい口外せぬように。友人、知人はもとより、親兄弟、妻子にもだ。君は結婚していないそうだが、恋人がいるなら、もちろん恋人にもだ。この守秘義務は、この事業を公にするまで課される。ひょっとして君が退職するかしてこの施設を離れてもだ。もし、この守秘義務に違反したときには、損害賠償などの法律的な手段に訴えてでもその責任を追求するつもりだから、肝に銘じていてほしい。心配しないでもらいたいが、われわれのやっていることは犯罪のようなものではない。あくまで企業秘密を守りたいのだ。この事業には多額の投資がなされている。事業の成功にはわれわれのアイデアが知られないことが第一なのだ。どうだね。約束できるかね。君ができそうもないなら、この話はなかったことにするが」

「分かりました。やらせて下さい」

「それじゃあ、今日から研究棟に入ってもらうわ」

 小倉はそう言うと、持っていたタブレットらしきものを私に差し出した。

「右手を置いて」

 私がタブレットの上に手を置くと、モニターに手の輪郭といろいろな色の線が現れた。

「OKよ」

 小倉は私を従えて事務所を出た。廊下の奥の部屋に入るとエレベーターがあった。これは今まで知らなかった。小倉は扉の横のパネルに右手を当てた。箱は一階にあったらしく、すぐ扉が開いた。乗る前に小倉は私に言った。

「あなたも認証して。そうしないとこのエレベーターは動かないの」

 私たちが乗ると扉が閉まり箱はゆっくりと下へ動き出した。二人とも黙ったままだった。こういうときは階数表示を見ておくのが無難である。私はそうしたが、表示は1とBだけだった。すぐに箱は止まり、扉が開いた。

 降りたところは小さな部屋になっていた。正面に扉が三つあった。

「あなたはここへ入って。中にロッカーがあるから、服と靴はそこに置いて、裸になって。次の扉の向こうはミストが出る。そこに一分ほどいて。その次の乾燥室を抜けると、新しい服と靴が置いてある」

 小倉はそれだけ言うと別の扉の中へ入っていった。私は彼女の言った手順をたどった。ロッカールームには十個ほどのロッカーが並び、その一つに私の名前がついていた。鍵はなかった。他には誰もいなかった。裸になって次の部屋へ行くと、部屋の上と両側のパイプから霧が吹き付けられた。病院でかぐような匂いがする。六十まで数えて乾燥室へ入り、温風で乾かす。つぎの部屋には棚があって、透明な袋に入った下着と手術着のような上下が積んであった。私はMサイズを選んで着た。

 小倉が入ってきて、来いというように手を振った。彼女も同じような服を着ていた。私は彼女の後に続いた扉の向こうへ出た。廊下のようなところを通りながら小倉が言った。

「まず見てもらうわ。説明はそれからよ。でも、一言だけいっておくわ。見たらあなたは驚くわ。驚くだけではなく、様々な感情が起こって錯乱してしまうかもしれない。もし見たことに耐えられないなら、この仕事は無理ね」

「脅かしますね」

「こういうやり方が一番いいのが分かったの。いくら事前に説明しても、ショックを乗り越えられない人がいるのよ。それなら、最初に衝撃を与えて様子を見た方が早いのよ」

 次の扉の外は広い空間だった。大きな四角い構造物がある。透明な壁の水槽だ。高さは四、五メートルほどだろうか。中に誰かがいるのが見える。白い着物のようなものを着て、まるで幽霊のように漂っている。

「あれは利用者ですか」

「そうよ」

「潜水させているのですか」

「よく見てごらんなさい」

 私はアクリルらしい壁に近づいた。一人がこっちに近づいてきた。男の高齢者だ。彼は潜水装置のようなものは何もつけていなかった。私はぞっとした。これは死体ではないか。私は振り返って小倉を見た。彼女は私を見返し、それから視線を水槽の中へ動かした。私はもう一度中の男を見た。彼はゆっくりと口を動かしていた。彼は水の中で呼吸しているのだ。

「驚いた。鰓呼吸ですか」

「違うわ」

「でも、水の中で呼吸するには、鰓が必要でしょう」

「普通に呼吸しているのよ」

「何か仕掛けがあるのですね」

「そんなものはないわ」

「それじゃ、どうして」

 小倉はそれに答えず水槽を支えている枠に取り付けた階段を登った。私もついて行った。水槽の上部を取り巻くキャットウォークに登る。水槽一杯の水の表面はなめらかだ。中に人間が沈んでいるのが見える。五人いるようだ。

「手を入れてごらんなさい」

 私は厚い水槽の縁から手を水の中に入れた。冷たくも熱くもない。左右に動かしてみる。抵抗感が少ない。手を水から出すと、水滴が滑り落ちて残らない。

「何です、この水は」

「これは水ではないの。特殊な液体。空気と同じように酸素を含んでいるので呼吸ができる。ただし、空気よりは重いから、ゆっくり呼吸しなければならない。呼吸というのは重労働なのよ。それと、水より比重が軽いから、人間は沈んでしまうけど、体重は軽くなる。詳しい説明は、専門家にしてもらうわ」

 私たちは建物の床に下りた。

「研究主任の野間さんに紹介するわ」

 野間は白衣をだらしなく着た、いかにも研究者らしい外観の、まだ若そうな男だった。背が高くやせていて、平凡な顔つき。研究者というのは偏屈であってもお喋りが多い。自己顕示欲が強くて相手を選ばないから、表面的には人付き合いがよさそうに見える。彼もそうだった。私を引き合わせて小倉が行ってしまうと、親しそうに話しかけてきた。

「驚いただろう。彼女のやり方は乱暴だからね。彼女に言わせれば、予備知識なしに見せることで、このプロジェクトを受け入れられる人間かどうかテストできるということだ。いくら頭で理解しても、心底から受容出来ない人間には、この仕事は無理で、それなら早い段階で見極めをつける方が、お互いに手間が省けるというんだよ。どうだかね。私の見るところ、最初に度肝を抜いておいて、手なずけてしまおうというんだろう。それに、ああいうやり方を楽しんでいるようだね」

 私は黙ってうなずいていた。野間は私に喋らそうと一息入れた。

「さて、どうだ。感想を聞かせてくれ」

「まだ信じられません。ここでこんなことをやっているとみなが知ったら、一大センセーションでしょうね」

 野間は得意そうな笑いを浮かべて、この不思議な液体についての説明を始めた。

「この水槽に入っているのは水ではない。水よりも比重が軽く、水にも溶けないが、油ではない。全く新しく化合された物質なのだ。発明されたのはかなり以前なのだが、こういう用途があるのを発見されたのは最近のことだ。液体の中でなぜ呼吸が出来るのか、不思議に思うだろう。そのメカニズムについてちょっと説明しておこう。

「呼吸というのは、酸素を血液に取り込み、炭酸ガスを放出することだ。人間はそれを肺を使って空気中で行っている。鰓を使う生物は水中で呼吸する。どちらもガス交換をしているのは同じことだ。もともと人類の遠い祖先も鰓を使って呼吸していた。母親のお腹の中の赤ん坊にはその痕跡が現れる。

「空気中での呼吸が水中に比べて有利な点はいくつかある。空気中に酸素は二〇・九パーセントもあるのに、水中の溶残酸素はわずか〇・七パーセントしかない。空気の比重は水の千分の一であるし、粘性は百分の一である。だから、肺にとって、水は空気の代わりにはならない。ところが、この液体は気体に近い性質を持っている。ガス交換はガス濃度の自然勾配で起こっているのだから、酸素さえ混ざっていれば何でもいいのだ。もちろん、気体に近いといっても空気に比べれば効率は悪いが、幸い酸素の濃度を高くすることができる。しかも活性酸素を抑えることができる(高濃度の酸素の毒性は活性酸素にあるから)。

「ガス交換を行っているのは肺胞という小さな袋で、これが肺には三億個ぐらいある。息を吸うのは、横隔膜や肋間筋が胸腔を広げ、肺を引っ張って膨らますのだが、吐くときは肺胞の弾性収縮力によって肺自身が縮む。ところが、肺胞には血液が通っているから、縮むと水の表面張力でひっついてしまって、膨れなくなってしまう。それを防いでいるのが二型肺胞上皮細胞が出しているサーファクタントという活性物質なんだ。これには親水部分と疎水部分があって、水と空気の間に膜を作って、水の表面張力の邪魔をして、肺胞がつぶれないようにしている。

「未熟児は肺が未成熟でサーファクタントが作れないから、未熟児呼吸促迫症候群になり、人工のサーファクタントがないころは致死率が高かった。大人にも、サーファクタントの活性を失わせる急性呼吸促迫症候群という病気がある。サーファクタントには他にもいろいろ作用があるので、呼吸の研究には欠かせない。この液体を使って呼吸する場合にもやはりサーファクタントの作用が必要であるが、うまいぐあいに疎水部分となじんでくれるので、空気と同じように呼吸ができるというわけだ」

 私は野間の言っていることがよく理解できなかったが、彼はそんなことはどうでもいいようだった。

「すてきな液体だろ。もちろん、PCBやフロンのように、思いもかけない弊害を引き起こすことのないように、確かめてはいる。もちろん用心のために外には排出しないようにしている。君もここを出るときは必ず薬品シャワーを浴びてもらわなければならない」

 野間はまだ喋り続けた。よっぽどこの水に入れ上げているようだ。

「介護の技術革新というのは、極端に考えてみれば、その到達点は、ベッドに寝ていながら排泄も入浴も栄養補給も運動さえもできるという、ロボットスーツみたいな完全ベッドだろう。それはこの水の中に入っているのと同じ事なんだ。個々に独立させるか、広い場所で一緒に過ごすかの違いにすぎない。どちらが効率的で効果的かは明白だろ。ちょっと先走りすぎているようだけど、要するに高齢者だけでなくて、全ての人間向きの安静室になるのさ。遠い将来には全人類がこの水の中に入るようになるかもしれない。そういう可能性を秘めた水なのさ。すごいだろ。もちろんそんなことはまだ夢物語だ。現状でも解決すべき問題はいっぱいある。でも、技術の進歩は止まることはないからね。ひとつひとつ克服していくさ。何度もいうけど、全くすごい発明だよ、これは」

 私は研究棟で働き始めた。水槽の中で高齢者たちの世話をする職員は中島と私の二人だけだった。機密を守るため関わる人数をできるだけ少なくしているようだ。他には少数の技術者がいる。私は当分中島の補助をする。いずれは彼女と同じ仕事をすることになるが、まずは見習いということだろう。

 私たちもこの液体中で呼吸ができるので、何の装具もなしに入ることはできる。しかし、空気と液体が入れ替わるときに肺に負担がかかるため、職員が水槽の中に入る際は、空気ボンベとホースでつながったマスクの着用が義務づけられていた。

 水槽の中には、女性三人、男性二人、計五人の高齢者がいた。彼らは着物のような服を着て、BC(バランシングベスト)のようなものを付けていた。じっとしていると沈んで底に横たわってしまうので、BCで浮力をつけて水中を漂うようにしている。その中の一人が沢田だったので私は驚いた。彼はここに移されていたのだ。アクリル板を通してのせいか、沢田は私に気づかなかった。それとも私のことなど忘れたか興味を失ってしまったのか。総じて水の中の彼等の反応は鈍かった。

 水中生活の一番の特徴は、排泄がいつでもどこでも出来ることだろう。いわば、垂れ流しなのだ。水は常に循環しているから、汚物は浄化される。ただし、清潔を保つためには早く処理することにこしたことはないので、泳ぐ掃除ロボットか常に動き回っている。

 ここの高齢者は下着をつけていない。その方が排泄をしやすいからだ。管理された温度の水が彼らを守ってくれているので、彼らが着ている服は、裸を隠すだけの機能しか持たされていない。水槽内では服など邪魔になるだけだから、必要ないのかもしれない。服というものは寒さを防ぐために発明されたのであり、身を守るとか、隠すとか、飾るとかいうのは後から付け加わった機能だろう。それでも、そういう文化的な伝統をただちに廃止するというわけにはいくまい。

 水はゆっくりと循環し、穏やかな流れを作っている。それが居住者の皮膚をマッサージしているので、汚れは洗われる。常に入浴状態にあるようなものだろう。皮膚への影響はほとんどないのでむくみをもたらすようなことはない。発汗作用や、保湿作用などへの影響もないらしい。

 もちろん、食事や水分摂取は必要であるが、それも水中で行われている。この液体が消化器官に入っても、ただ通り過ぎるだけなので、食物や水分とともに飲み込まれてもかまわない。ただし、多少下痢気味になるようだ。もともと、歯の状態などから細かくされた食材が主なので、食べやすいようにペースト状にされたものが多い。そのままでは誤嚥の危険性があるので、特殊な膜で覆って固体状にしている。水分も同様だ。そういう対策によって、喉頭は空気中と同じように機能しているとのことである。

 水中生活で一番の問題は、声を出せないことだった。この魔法の液体も、声帯の機能を生かすことは無理だった。手話が使えればいいのだが、認知症の高齢者に手話を教えることは難しかった。職員は業務に白板と特殊ペンを使っていた。簡単な手振り身振りで用が済まない場合は、職員が白板に文字や絵を表示することにしている。ここでの動きは全体にゆっくりしたものなので、今のところはそれで特に支障はなかった。

 高齢者の健康状態は常にチェックされていた。異常があればすぐに水槽から出されるが、簡単な検査や処置が水中でできる検査筒と呼ばれる装置があった。まさに上から差しこまれた筒になっていて、ここに高齢者を毎日一回入れるのも私たちの仕事だった。高齢者の生理的な状態が分析され、そのデータはどこかへ送られているらしい。

 重力の桎梏から解放されたからといって、高齢者の動きが活発には見えなかった。高齢者たちは、BCに首をつられたような姿で水中に浮かんでいる。ときどき自由になる手足を動かし、それの起こす水流でわずかに移動する。彼らはいつも眠っているように見える。せいぜいよく見て、黙想している。

 水中での生活を以前の陸上の生活になるべく近づけようと、いろいろな設備があった。壁にはテレビがあり、特性のヘッドホーンをつければ音も聞ける。水中用に開発された運動用具もいくつかあり、ゲームも工夫されていた。私たちは高齢者にできるだけ刺激を与えるように指示されていた。精神や身体の機能の衰えを可能な限り阻止するためである。とはいえ、高齢者たちの興味を引くことは難しく、いちいち指示して半ば強制的に彼らを動かすしかなかった。それは陸上での認知症高齢者施設と変わりはなかった。

 水中にいる高齢者の中で、沢田は他とは違っているのではないかという疑問が私にはあった。彼の症状は、進行した認知症とみなすよりも、うつ的傾向によるものではないかと、以前から思っていたからだ。しかし、沢田が他とは違った特別な行動をするわけではなく、私のことも憶えていないようだった。

 一度だけ、私を見る沢田の表情が変化したことがあった。私を認知したかのようだった。私は白板で会話を試みた。「どうですか?」という私の問いかけに、沢田は頷いた。それは不快ではなく、不満もないということのようだった。もし、「助けて」というようなことを沢田が表現したら、私はどうするつもりだったのだろう。あるいは、そういうことも期待していたのかもしれない。私はさらに突っ込んだ質問をした。

「ここを出たいですか?」

 沢田はゆっくりと手を左右に動かした。沢田との会話はそれきりだった。沢田はまた元のように私に関心を示さなくなってしまった。

 一緒に仕事をするようになってからも、私に対する中島の態度は変わらなかった。以前のように全く無視するのではないが、必要以上に会話はしない。世間話とか身の上話とかはもちろん、無駄口とか冗談さえ口にしないし、私の方からもさせない。仕事は中島の指図に従った。私の態度は従順だった。中島は私がどういう種類の人間かを見定めようとしていたのだろう。

 あるとき、中島は水槽の画像モニターのスイッチを切って水中へ入った。私はそれが何かの手順だと思って彼女に続いた。ところが中島は水中でマスクを外したのである。彼女は大きな泡を出し、しばらくフラフラと漂っていたが、私が近づいた時には呼吸をしていた。私があっけにとられているのをあざ笑うかのように、水槽の中を泳ぎ始めた。チューブつきのマスクをしている私には追い付けない。

 私はロープを伝って水槽の外へ出た。本来ならこのことを誰かに知らせなければならない。しかし、私は中島から事情を聞くまで待つことにした。水槽の中の管理では彼女はベテランであるし、新参の私には彼女の態度の妥当性を判断しづらかったこともある。私に知らされてはいない何かがあるかもしれないからだ。私はキャットウォークから降り、アクリル板を通して水槽の中の中島の動きを見ていた。薄手のウェットスーツは動き回る彼女の体の線をそのまま示している。私はやましい感じは持ちつつも、彼女の優雅ともいえる動きに魅せられた。やがて彼女は水槽から出た。キャットウォークで手をついて激しくせき込んだが、しばらくして私のところへ降りて来た。

 画像モニターのスイッチを入れた中島に、私は言った。

「こんなことは禁じられているはずだろ。それとも、君だけには許されているの」

「かまわないのよ」

「かまわないって、どういうこと」

「あの連中に無害なら、私にも無害のはずでしょう?だからかまわないのよ」

「でも規則違反だろ。報告しなければならないよ」

「報告?どうぞご勝手に。誰があなたの言うことを信じるかしら。ここでは私がベテランで、あなたは新人なのよ。変に騒ぎ立てると、あなたのためにはならないわ」

 どうやら中島は私を簡単に手なずけることができる奴だと見くびったらしい。

「目をつぶれというのかい」

「別にどうってことないでしょ。仕事はちゃんとしているし、プロジェクトには何の影響もない」

「しかし‥‥」

「さあ、仕事を続けましょう」

「モニターがきれたことはどう説明するの」

「よくあることよ。誰も見てやしないんだから、問題にはならないわ」

 私も波風は立てたくなかった。唯一の同僚である彼女とトラブルを起こせば、私の評価にひびくだろう。中島が以前からそうしているのであれば、私がそれをとやかく言う必要があろうか。誰にも知られていないのだし、あるいは、知られているとしても黙認されているのかもしれない。

 私は中島の行動を制止しなかった。それは共犯関係であることを認めてしまったことになる。一度そういうことをしてしまうと、もう後へは引き返せなくなる。中島は好き勝手に振る舞いだした。中島は水中の高齢者を扱う独特な方法を編み出していた。たぶん以前からやっていたのだろうが、巧みに体をひねって水槽の中を泳ぎ回り、高齢者と戯れ、向きを変えたり、移動させる。時には体を押したり、足を引っ掛けたりして転倒させる。むろん水の中だから傷つけることはない。彼女はそれを面白がり、楽しんでいた。彼女のお気に入りは、思わぬ方角から高齢者の体に触って驚かして、彼等が何が起こったか分からないで辺りを見回すのを見ることだ。それはまるで、起こったことに理解できないできょとんとしている飼い犬を見て喜んでいるようだった。

 中島のルール違反は問題だが、それ以上に高齢者の扱いは介護の原則を外していた。彼女の行動を実際に見ているのは私だけだから、彼女に注意するとすれば私しかいない。しかし、中島に言ってみても、聞く耳を持たないであろうことは確かだ。それをあえてすれば、二人の仲を破綻させるだけだろう。

 相談すべきは小倉であったけれど、告げ口をするのは中島への誹謗と取られる可能性があった。小倉は中島をかっていたし、中島は小倉になついていた。小倉が私の言い分をきちんと聞いてくれるか確信はなかった。

10

 地下で働くようになって、私の交際範囲は縮まった。それまででも特に親しくなった人というのはいなかったが、一緒に働いている関係上多くの人間と接し、自然と気心が知れるようにはなっていた。研究棟で私が相手をするのは、相方の中島、監督者の小倉、そして野間しかいない。その他には野間の部下の研究者、機器のメインテナンス担当者などとときどき顔を合わすだけ、話をすることさえまれだった。

 食事のために上の食堂へ行くときには、以前接していた人間と会って話をすることができた。しかし、私が研究棟で働くようになってからは、みなが私を避けているような感じがする。研究棟の秘密性がそうさせているのか。研究棟のことは他の人間には話さないように私は指示されていたし、他の職員は研究棟のことを聞こうとしないように言われているのだろう。話をしても、私の仕事のことは避けざるを得ないし、プライベートなつながりはない。話すことがないのだ。また、私と話をして変に疑られるよりは避けた方が無難だということでもあるらしい。職員にしろ利用者にしろ、ほとんどは研究棟のことを詳しくは知らされていない。何か特別なことが行われているのは知っているが、それが具体的にどのようなことなのかは分かっていない。それが研究棟に対する不気味なイメージを生み出すことにもなっている(もっとも、研究棟の実体に比べれば、そのイメージもたわいのないものであるが)。

 従来通りに私が話をできるのは、一緒に仕事をしている小倉、中島を除けば、近藤施設長、古谷事務長と白井だけだった。近藤はもとから近づきがたい雰囲気をまとわせていて、食堂でも事務員たちとのぎこちないパーティを組んでいるので、席を共にすることは少なかった。古谷は近藤とくっついていることが多く、近藤がいないときは彼の権威を勝手に借用したように横柄になるので、対等な話し相手にはならない。白井は私を避けることなく、むしろ積極的に私の相手になった。白井は私がここで仕事を始めたときの指導者であったということで、気兼ねなく話せる相手だった。ときどき研究棟へ来る小倉は表の世界と研究棟をつなぐ唯一の通訳のような存在であった。彼女は水槽の中の利用者にも責任を負っていたので、状況を定期的に見に来た。新しい住人を選んで連れてくるのも彼女の役目だった。中島は小倉には心服しているようだった。

 小倉はときどき私と面接した。むろん話すことは仕事のことだが、小倉は私に気を遣ってくれているようだった。単に部下としての私を掌握しようとしているのかもしれないが、私は彼女との会話を喜んだ。私は仕事上の疑問を真剣に吐露した。

「高齢者は水槽の中の生活をどう思っているのでしょう。話ができないから、彼らの気持ちがよく分からなくて」

「結構、気に入っているのではないかしら。私たちは重力に逆らって生きている。ためしに、もっと重力の強い世界で生活することを想像してみて。私たちはこの重い頭を支えて立つことなどできはしないでしょう。体を支える機能を失った人たちにとって、地球はそういう世界なのよ。私たちは重力に耐えるために動いていなければならない。動かないでいれば、自分自身の重さで血管をふさいでしまうのだから。介助の問題も全てこの重力との戦いよ。体位交換、移乗、排便、入浴などの介助が必要なのは、被介助者が自分の体重に負けてしまっているからなのよ。水の中にいれば、ベッドや車椅子から解放され、自分で立ち、動くことができる。重力に押さえつけられて褥創ができてしまう心配はない。トイレや入浴を、他人の手をかりてせねばならない屈辱から逃れられる。介助される側が介助の労苦から解放されるの。介助する側の手間が省けるというのは派生的な事柄にすぎないわ」

「確かに、介護される方もつらいのでしょうね。もっとも、認知症になれば、そんなことも感じなくなってしまうのかな」

「あの人たちだっていろいろな思いがあるのかもしれないわよ。私たちには伝わらないけれど。実際に高齢者になってみないとその気持ちは分からないでしょうね。私たちが見て察するのとは全然違うのかもしれない」

「もし自分の老後を水槽で過ごすことになるとしたら、どう思います」

「ベッドの中で寝たきりでいるのと、水の中で自由に動き回れるのと、どっちがいいと問われたら、私は水の中でも動ける方がいいと思う。水の中にいるのがみじめだというなら、ベッドの中にいるのはどうかしら。水の中は動けないことに比べれば全然違う。水の中にずっといる状態で生きていることに何の意味があるのかという非難はあるでしょうね。でも、他にもいっぱいいるでしょう、食べて、寝ているだけの人は。生きることの意味というのはみんな同じでしょう。もし、誰かの生き方に多くの意味があり、ほかの誰かの生き方の意味がそれに劣るということだったら、意味の劣る人は生きる必要がないということになってしまう」

「どんな形でも、生きるというのは同じことだというのですか」

「そういう意味ではないの。よく生きるというのは、個人のレベルで状態が改善されることでしょう。移動も入浴も排泄も自力で出来るようになるのは改善でしょう。他人の援助を受けることが最小限になることは改善でしょう。生きるというのはそれだけではないかもしれないけど、そういうことに煩わされない方がいいに決まっているでしょう」

「以前、重度障害者の人の話を聞いたときに、出来ることは何でも自力でするという処遇方針を批判していました。その人はトイレを自分でするのにものすごく時間がかかるらしいのです。だから、トイレ介助をしてもらったほうが時間が短縮できるので、そうしてほしいと訴えてました。自分はトイレをするために生まれて来たのではない、と。自立にせよ介助にせよ、生理的な面で煩わされなくなるのはいいことだと思います。でも、それは何のためかというと、それ以外の活動の時間を確保するためじゃないでしょうか」

「それは人によるのじゃない?事実を見てごらんなさいよ。介護を必要としている高齢者がどんな活動ができるのか。人間の尊厳というタテマエではどうにもならなくなっているのよ。高齢化と少子化によって、援助の必要な高齢者をじゃんじゃん作ってしまって、無制限に抱え込めなくなってきている。誰かの世話にならなければ生きていけない人は、社会的なお荷物といえるわね。だけど、お荷物だからといって捨てるようなことはしないのが人間社会なわけ。そういうタテマエがいま悲鳴をあげているのよ。ある程度の制限が必要なのだけれど、医療の制限や安楽死などはタブーでしょ。援助の必要な高齢者を棄てることも抱え込むこともできないから、病院とか施設に追いやっているのだけど、それは便宜的であって根本的な解決になっていない。もっと思い切った生と死のパターンを確立すべきなのよ。このプロジェクトが根本的な解決だとは言わないけれど、私たちの生存のあり方と私たちの考え方(倫理感のようなもの)を一致させるための提案にはなっていると思う。もしかしたらこの方向に私たちの未来があるのかもしれない」

 水槽が姥捨て山の現代版になるとでも言いかねない彼女の意見に対して、私は納得するところもあった。ただ、全面的に賛成するのはためらわれた。ただし、そういう会話によって、小倉に対する信頼は増した。私は悩んだ末、とうとう中島の行動について小倉に相談した。小倉の反応は思いがけなかった。小倉にとっては私が指摘した中島の行動は意外ではなかったようだ。

「困った子ね。そういう話は前もあって、注意はしているのだけれど」

「そうなんですか」

「でもね、あの子はこのプロジェクトには最初から関わっていて、外すわけにはいかないの。だから、特に支障がないかぎり、大目に見ているわけ。わがままなところはあるけれど、水槽には慣れているし、貴重な存在なの。不適切なところがあったら、あなたが直してあげて。私からも言っておくから」

「私の言うことなど聞きませんよ」

「そうかしら。でも、努力してみて。あの子を受け入れてあげれば、あの子も心を開くようになるわ。悪い子じゃないから」

11

「あんたのせいで、小倉さんに怒られたわ」

 出勤するとすぐに中島が突っかかってきた。私はどう反応していいか迷ったが、受け流すことにした。

「報告しただけだよ」

「チクったのね」

「君は許可を得てると言ってたじゃないか」

「大げさにしなければいいと言ったのよ。細かいことを言い出せばきりがなくなるわ」

「でも、ルールがあるだろう。ルールには従わなければ」

「カッコいいこと言っちゃって。じゃあ、あんたは常にルールを守れると言うのね」

「そのつもりだ」

 中島は微笑した。嘲笑のようでもあり、何か魂胆でもあるかのような笑いだった。

「じゃあ、頑張って」

 嫌がらせでもするのかと思ったが、中島はおとなしく普段の仕事をし、二人で協力すべきところは協力した。小倉のお灸がきいたのかもしれなかった。私は今まで中島に遠慮しすぎていたと思い、これからはやりやすくなると安堵した。

 午後、水槽の中で高齢者たちに運動を促していたとき、中島が水槽を上がって出て行った。何か作業の都合でもあるのだろうと、私は気にせずに作業を続けた。背後で水に入る気配がしたので中島が戻ったのだろうと思ったが、私は振り返らなかった。すると突然背後から抱きつかれた。私は驚いて後ろを見ると、笑いかけた中島の顔があった。私は中島の体を振りほどいた。彼女は私から離れた。彼女は裸だった。その意味がとっさには分からなかった。私は何となく手を出して彼女を捕まえようとした。とがめようとしたのか、引き寄せようとしたのか、自分でも分からない。中島は私の手を逃れて、跳んだ。私は後を追いかけた。アクリル板まで追い詰めると、中島はこちらを向いた。手はだらりと下げ、足をわずかに拡げている。体のどこも隠そうとしていない。

 私は中島の意図を察しようとした。私を誘っているのか。彼女が私を好いているはずはないが、口止めのために体を提供するつもりなのか。次に思ったのは、罠ではないかということだった。私をセクハラで糾弾するつもりではないのか。

 私は警戒して中島から離れ、ロープを伝って水槽の外へ出た。キャットウォークから降りて調べてみると、モニターは切ってある。どうすべきだろうか。モニターを作動させるか、誰かを呼ぶか。私はアクリル板の前に立った。アクリル板の向こうには裸の中島がいて、こちらを見ていた。私がどうしていいか分からずに呆然としているのが分かっているようだった。中島は体をアクリル板に押し付けた。ひしゃげて平らになった体の部分を私に見せる。ウェットスーツなしではあまり浮力を得られないが、それでもアクロバット的な動きはできた。中島は片足を高く上げて、広げた両足をアクリル板に当てた。そしてゆっくりと股間を押し付けた。アクリル板に全ては密着はしないけれど、器官の詳細は見えた。こんな形でそれを見るのは初めてだった。いや、そもそもそれを詳細に見るのは初めてだった。

 私は目をそらすべきだった。そこから離れるべきだった。中島の魔力の圏外に逃れるべきだった。しかし、できなかった。私は動けなかった。中島がやめるまで目を離せない。

 中島がアクリル板から離れたので、ようやく私は自分が何をしているかに気づいた。私は中島が水槽から出てくるのを待った。彼女のやったことを、無視するか、叱りつけるか、理由を問うか、態度は決めかねた。私が彼女を眺め続けたことが、私の立場を弱くしていた。冗談ごとにしてしまうほどには私は器用ではなかった。

 中島はなかなか出てこない。アクリル板に近寄って見ると、水槽の中央に立ったままでいる。モニターを切ったままにしていては誰かに怪しまれる。私は水槽に戻った。彼女を連れ出そうと漠然と思ったのだ。私がロープを伝って底に下りていくと、中島はアクリル板に近づき、外を向いて両手を板に当て、足を広げ、尻を突き出した。そのまま動かない。私は中島の背後に近づいた。

 そのとき、私は狂った。私は中島の尻を両手でつかみ、拡げた。彼女は腰を振るわせた。私は急いでウェットスーツを脱ぎ、中島の腰に手を当て、体を寄せた。終わると、二人の股間から私の精液が漏れ出し、それをかぎつけた掃除ロボットが寄ってきて吸い込んだ。

 それから、私は中島の言いなりになった。彼女がモニターを切り、マスクを外し、裸になって水槽に入るのを黙認した。彼女が浮力をつけるために丸めたウェットスーツを抱えて泳ぎ回り、高齢者たちをからかうのを黙認した。ただただ彼女が足を拡げて私を迎え入れてくれるのを待って。

 そういう関係になったからか、彼女の言いなりになったせいか、中島は私に親しみを示すようになった。彼女は私との性交を単に義務なようなものとしていたわけではない。彼女自身も快感を得ていた。水の中の性交は彼女の快感を増幅させるようであった。彼女は水の中でしか性交をしなかった。水槽の外ではいくら私が懇願しても拒否した。

 私たちのことを知っているのは水槽の中の高齢者だけだった。彼らは私たちが何をしようが好きにさせてくれた。おかしなことに、彼らは全く無関心であるのではなかった。行為中の私たちに近づき、じっと見ているのだ。私は彼らを追い払おうとしたが、中島は気にしていなかった。むしろ面白がっていた。高齢者が興味を持つことは彼らの精神状態が改善されていることの証明になるとも言った。娯楽として見せてやればいい、と。中島はいかれているとは思ったが、いつの間にか私も気にしなくなった。彼らに見られていることが中島の興奮度を増すようでもあった。

 小倉に中島のことをいわば告げ口したのに、中島の言いなりになってしまったので、小倉との会話が苦痛になってきた。小倉から「その後どう」とか聞かれたなら、答えようがない。中島と私の関係を小倉がどの程度知っているのかは分からない。全然知らないはずはなかった。中島が何か言っているはずだが、彼女に聞いてもはぐらかすだけだった。

 小倉が私に中島の行動を矯正することを期待していたのなら、それを裏切ったことになる。しかし、あのときの小倉の言い方は煮え切らなかった。中島のわがままをある程度は容認するようなニュアンスを込めていた。小倉は私と中島がうまくやっていきさえすればそれでいいと思っているようでもある。

 私は小倉にはしらばくれることにした。小倉が何かを言ってくればそのときに適当に対応すればいい。こちらから全てをばらす必要はない。そんな風に私が思ったのは、小倉の影響下から離れようとする気持ちがあったからかもしれない。今までは小倉の庇護下にあるような状態を受け入れて来た。新しい職場で不安であったし、小倉が信頼できたからだ。それだけでなく、小倉が女性であったことも、私が好意をもったことの要因であったことは否めない。具体的にどうこうというわけではないのだけれど、小倉との間に異性間の交流を感じていたのだ。それは私の方の勝手な感情に過ぎなかったかもしれない。ただ、小倉は私のそういう感情に気づいていても、困惑するとか嫌がるとかいう素振りは見せず、彼女自身も楽しんでいた風がある。

 中島の与えてくれる刺激は、そういう私の淡い恋愛感情など吹き飛ばしてしまうものだった。いままで気がつかなかった小倉の容貌上の欠点が目に付くようになった。彼女の親切そうな態度もうっとうしく感じてしまう。

 そして、職場や仕事になれてきたこともあって、小倉の支配から逃れたい、自分自身の好きにしたいという思いも起きてきていた。

 小倉と距離を置こうとする私の気持ちは、彼女にも伝わったはずである。意図的な態度としては現れなくとも、私自身のこだわりが行動をぎこちなくさせ、ちぐはぐな対応になってしまう。私は自分の感情を隠して偽りの外見を保っておけるほど器用ではなかった。他人からは見やすい人間なのだ。

 小倉との面接は少なくなり、時間も短くなった。形式的と言ってもいいくらいに。その中で実のある会話といえば、わずかに次のようなものだった。

「あなたが落ち着いてくれてよかったわ。あなたがここの環境に馴染んでくれるか、最初は心配したのよ」

「ここのプロジェクトは特異ですから。受け入れにくい人もいるでしょう」

「あなたは受け入れてくれたのね」

「受け入れたというか、なれました」

「そうね。判断するのは難しいから、経過を見てもらうのが一番いいと思うわ」

「そうですね。とにかく、この仕事は続けたいと思います」

「中島さんともうまくいっているようね。彼女のこともよろしく頼むわ」

「ええ、何とか」

 そのとき見せた小倉の微笑みの意味はいかようにも取れるものだった。

12

「久しぶりにご一緒しませんか」

 帰り際に白井が声をかけてきた。ちょっと迷ったが、白井とのつながりは保っておくべきだと考え、誘いを受け入れた。彼の車で駅まで行き、そこから電車に乗って近くの小都市に出た。私はアパートと施設の往復の毎日であり、買い物は近くの郊外店で済ませ、休みにはぼんやり過ごすだけだったので、にぎやかな場所に来たのは久しぶりだった。もともと繁華街は私にとって何の魅力もないところなので、何の感慨もない。予約をしておいたというチェーン店の居酒屋に白井は案内した。全席個室になっていて、少人数用の部屋もある。戸を閉めてしまえば、他から切り離された空間になる。注文を済ませて二人きりになると、白井は言った。

「ここなら誰にも聞かれることはないでしょう。安心して話ができます」

「何かあるんですか」

「いや、別に大した話でもないのですが、注意しておきませんとね。私たちは常に監視されていますから」

「大げさですね」

 白井は私の無邪気さを憐れむように私の顔を見つめた。

「あなたは自分が監視されていることに気づきませんか。あなたの部屋は施設から提供されたものですよね」

「そうですが」

「帰ってよく調べてみて下さい。カメラとマイクがどこかに隠されているかもしれません。いや、それはまずいかな。疑っていることを彼らに気づかれてしまう」

「彼らって、誰です」

「このプロジェクトを推進している連中です。われわれが変なことをしないように見張っているのですよ」

「変なことって、どんなことです」

「このプロジェクトについての情報を洩らすことです」

 私は白井がどこまで知っているのか分からず、とにかくとぼけることにした。

「知られてもどうってことはないでしょう。水中リハビリをしているだけですから」

「それだけならねえ」

「どういうことですか」

「私に隠す必要はないですよ。私は知っているのです。地下の水槽のことも、その中にいる老人たちのことも」

 私はあまり驚ろかなかった。白井が何かを知っていそうなことは感じていた。

「あなたはプロジェクトの内容をご存知だったんですね」

「いっとき、関わったことがあります」

「じゃあ、私が今やっていることを、あなたもやっていたのですか」

「そういうことです」

「つまり、私の前任者はあなただったんですか」

「そうです」

 今度は私は驚いた。誰もそんなことは教えてくれなかった。白井は続けた。

「なぜあなたと交代になったかが知りたいでしょうね。私は耐えられなかったのですよ。あのプロジェクトの異様さに。だから、やめようと思ったのです。しかし、プロジェクトの秘密を守るために、一定期間この施設に居続けるように強要されたのです。彼らにしてみれば説得でしょうが、脅しと賄賂ですよ。まあ、他に当てもなかったから従いましたけれど」

 白井が施設の悪口めいたことを私に聞かせたのはそのせいだったのか。でも、なぜ私に。

「後任としてあなたが選ばれたときに忠告したかったんですがね。あなたにあからさまに告げると、あなたの口から彼らに伝わる恐れがあったので、はっきりしたことは言えなかったのです」

「じゃあ、なぜ今ごろ」

「いろいろ事情がありましてね。あなたはこのプロジェクトについてどの程度ご存知ですか」

「仕事上知らされていることだけですね」

「この水についてはいろいろな形で商品化することが検討されているようです。たとえば、スポーツとかレジャーなどの分野。溺れないプールというのは大ヒット間違いないでしょう。エアタンクなしでダイビングができます。身近なところでは、風呂に使えれば、入浴中の事故が防げます。高齢者や幼児の風呂での事故は結構多いのです。他にも考えればいろいろ用途はあるでしょう。巨大な投資の回収ということで高齢者介護という大きな市場を狙っているのかもしれないけど、市場というものは予期しないところに生まれるものですから。新技術というのはそれだけでは何の役にも立ちません。市場を見出すことが大事なのです。軍事的用途も考えられていて、それで機密に神経質になっているという噂もあるのですけれど」

「あなたはやけに詳しいですね」

「情報は探せば見つかるものです。やり方を心得ていさえすれば」

 白井は続けた。

「この水を商品化するのに、介護から始めるのは適切ではないという見解は当然あります。私もそう思うのです。この水の可能性の大きさを考えれば、用途は介護だけに限られるわけではないし、介護が主要でもないのは明らかなのですから。もちろん、データを得るためには、こういうやり方も仕方がないかもしれません。言い方は悪いけど、人体実験は必要ですから。長期的な影響についてよく検討しておかないと、健康被害のクレームは大問題になりかねません。その派生的効用として高齢者の生活の質が向上するなら、それはそれでいいことなんでしょう。でも、これを介護用の商品として売り出そうとするのは難しそうです。高齢者や障害者が水の中にいるのを見たら、誰だって恐れをなしてしまいます。世間はきっと虐待と見るでしょうから、理解を得るのは困難です。理解を得られるにしても相当時間がかかるでしょう。いかに画期的な技術でも、社会に受け入れられなければ何の価値もありません。そう思いませんか」

「確かにそうでしょうね。しかし、革新的な考えや方法というのは、最初は世間から相手にされないものではないでしょうか」

「あなたはあの水槽で行われていることを異常だとは思わないのですか」

「画期的なことは異常に思えるものです」

 白井は意外そうな顔つきをした。

「あなたも連中に篭絡されてしまったようですね」

「篭絡だなんて。私は自分で判断してプロジェクトに参加しています」

 白井はせせら笑うような表情をした。

「利用者を水中に長時間滞在させることが処遇の改善になりますか。人間というのは陸上の動物だ。そりゃあ、大昔の祖先は水の中にいたかもしれない。でも、進化して今の形態、今の生活様式を獲得した。それが人間の本質となっている。そういう生活が物理的に困難になったからといって、水の中に放り込むのはおかしいと思いませんか。重力に縛られているということは、それが人間の定めだから仕方のないことでしょう。人間は直立したから体に無理な負担をかけているからといって、その対策として四つんばいになることを勧めるでしょうか。私たちが人間であるということは、こういう生活、たとえの表現で言えば、地に足をつけた生活をしていることが保証してくれているのです。重力から逃れられるのなら何をしてもいいということではないはずです。もちろん、寝たきりになるということは人間であることを否定されてしまうことになるでしょう。だがそれは人間であろうとすることの挫折であり、人間以外のものになって楽になりたいということとは違います。それが人間の尊厳というものでしょう。介護というのは人間らしさを失わないためのものであり、単に効率性を目安にするべきではないと思います。」

 白井の熱弁に私は気おされた。ここの人間はどいつもこいつも理論家だ。私は白井に反論した。

「でも、現実問題として、介護する方もされる方も、どうしようもなくなっているんではないですか。私も前の施設で経験していますが、安い給与であんな仕事を続けるのは無理ですよ。理想的にはもっと人を増やすべきでしょうが、財政面に無理なのでしょうね」

 白井は静かな口調に戻って言った。

「あなたのことを見損なっていたようですね」

「どうしてですか」

「あなたについての情報をいろいろ聞いていましたから」

「どうも私は皆に誤解されているようです」

「そうですか」

 白井は少し間をあけてから、話題を変えた。

「ところで、このプロジェクトがいつまで続くか分かりませんよ。あなたもその覚悟はしておいた方がいいですよ」

「どういうことですか」

「この事業が行き詰まりかけているのは事実なんです。副作用がいくつか見つかっているし、その他にも克服すべき課題が多すぎます」

 私はふと疑問に思った。

「なぜ私にそのことを言うのですか」

「忠告です。忠告、先輩としての」

 白井はそう言ってから、卑しそうな笑いを浮かべた。

「中島のことが気になりませんか」

 また話題が変わって、私は戸惑った。

「どういうことですか」

「あいつの色仕掛けにあったでしょう」

「色仕掛けって何です」

「とぼけなくてもいいですよ。あいつの手ですから。水槽で好き勝手をするために、相方をたらしこもうとするのです」

 私はどう答えたらいいか分からず、黙っていた。

「あいつはそれでうまくやったと思っているようですが、あいつのやっていることはみなが承知しているのですよ。中島はモルモットにされているのです。高齢者だけではなく、若い人間のデータも欲しい。だから、中島のやることを黙認して、経過を観察しているのです」

 私の反応を楽しんでいるかのように続けた。

「中島の態度がおかしいと思いませんか。実は、あの水には麻薬のような依存性があるようなのです。中島は依存症になって、あの水から離れられなくなっているのです」

「それを承知で、放置しているのですか」

「データが必要ですからね」

「それはひどい。それなら、何とかしなければ」

 白井はじっと私を見た。

「個人では何ともできません。相手は強大な組織ですから。でも、どちらにせよ、このプロジェクトは先が見えています。巻き込まれないように気をつけるべきですよ」

13

 このプロジェクトの将来が危ういという白井の言葉は、私を動揺させた。このプロジェクトの意義については若干のいかがわしさを感じていたのだが、安定した職業と、中島との特殊な関係を与えてくれているので、それ自体の存続は受け入れていたのだ。

 もしプロジェクトが中止されることになれば、この施設自体の存続も望めない。法人自体もこのプロジェクトのために設立されたのだとしたら、解散するか、別の事業に転用されるだろう。私はまたお払い箱になってしまう。

 高齢者介護の方法としての水中生活についても、白井は疑問を植え付けた。これは人体実験なのだろうか。効率的な介護というのは名目で、人体にどのような影響があるかを、将来性のない高齢者を使って実験しているのだろうか。とりわけ、中島の行動を放置しているのが実験の一部であるという白井の指摘が衝撃だった。

 プロジェクトの成否は私たちにはどうすることもできない。できるのはプロジェクトの中止に備えることだ。

 私は考え抜いて、次のような見通しを立てた。いずれにせよ、この施設は辞めることになる。その後のことを考えると、ここでの経験を何とか生かす方法を見つけなければならない。ポイントとなるのは情報だ。情報を洩らすことは、法的、道義的に問題はある。しかし、このプロジェクト自体が、法的、道義的に問題があるのだから、情報漏洩に正当性は見いだせるかもしれない。この水の技術的情報を持ち出すことができれば、売り込み先はあるはずだ。技術者ではない私には、それをどのように探し出せばいいのかすら分からない。一番簡単なのは、水自体を持ち出すことだ。それは禁止され、厳重に監視されている。何か方法を考え出す必要がある。

 そして、中島を説得しなければならない。この施設から逃げ出すとしても、一人でそうするつもりはなかった。

 その日の水槽での仕事を切り上げて、ウェットスーツから制服に着替えた後、私と中島は水槽の壁を背にして並んで座り込んだ。私たちの仕事は昼間だけで、夜間はモニター役の職員に引き継ぐ。それまでのわずかな時間をぼんやりとして過ごすのである。

 私は中島の肩をかかえ、体を引き寄せた。

「将来のことは考えているのかい」

「将来って」

「いつまでもこの仕事を続けるわけじゃないだろう。その後はどうするの」

「そんなこと、分からないわ。ここでやれる限り、やるつもりよ」

 私は少しためらった後、思い切って言った。

「一緒にここから出ていかないか」

 中島は不審そうに私を見た。私はもう一度、今度ははっきりとした声で言った。

「ここを出て、一緒に暮らさないか。もちろん結婚してもいい」

「あんたと結婚するの?そんなこと考えたこともないわ」

「じゃあ、考えてくれ」

「考えられないわ。そんな気は全然ないから」

「だって、こういう仲だろう。結婚してもおかしくはないよ」

 中島は私の腕を外して立ち上がった。

「わたしとあれをしたからって、あんたのものになったなんて思わないでね。あんなことは誰とでもできるのよ。あんたが特別だなんては思っていないわ」

 私は中島のことを全然理解していなかったのだ。彼女にとって私は同僚以上の何者でもなく、男と女の関係についても一緒に食事したほどの意味しかないようなのだ。しかし、私はまだあきらめきれなかった。

「君はずっとここにいるつもりかもしれないが、この施設は近々閉鎖されるんだ。君のいるところがなくなるんだよ」

「いい加減なこと言わないで。そんなこと聞いたことない」

「君が知らないこともあるんだ。確かな情報だ。そうなったらどうする気だ」

「間違いよ。確かめてみる」

「誰も君に本当のことは言わない。秘密にされているんだ。誰にも言わない方がいい。情報をくれた人に迷惑がかかる」

「誰よ、それ」

「それは言えない」

「いい加減」

 私はさらに説得を続けた。

「あの水には副作用があるんだ。だから、実用にはならない。もうここでの実験は切り上げられてしまう」

「副作用って何よ。何もおかしなことはないわ」

「君が自覚していないだけだ。君は水の中でハイになっているだろう。水の中に入ることが気持ちよくてやめられなくなっている。麻薬と同じだ。君はここの水に毒されている。ここにいたら君は心も体もダメになってしまう」

「異常なんかない。ちゃんと診断を受けている。」

「あいつらは君を実験台にしているんだ。高齢者だけでなく、若い人間のデータが欲しいから。君の体が異常になっても、黙っているんだ」

 中島は考え込んだ。彼女が自身の心身の変調を自覚していれば、私の言葉を信用するはずだと、私は期待した。

「それで、ここから離れるべきだというのね。あんたが助けてくれるというのね」

「そう。君のためなんだ」

「笑わせないでよ。あんたは私の体が欲しいだけだろう。私を独占したいんだろう。前にもそういう男がいた」

 私はひるんだ。私にそういう気持ちあるのは否定できない。だが、それだけじゃない。そのことを分かってもらうには、どう言えばいいのか。

「ここにいてはだめなんだよ。君と結婚できないならそれでもいい。君と一緒に暮らせないならそれでもいい。君のことを思っていっているんだ。あの老人たちを見たまえ。彼らは死んだも同然じゃないか。水の中にい続けると君もあんな風になってしまうんだよ。ここでやっていることは介護なんかじゃない。人間を廃人にしているだけだ」

 中島は「もういい」と言って、出口の方へ歩いて行った。ドアを開ける前に彼女は振り返った。

「あんたは前の施設でトラブルを起こしたそうね。ここでも同じことをしようというの。そんなことはさせないから。ここを出ていきたいなら勝手に出ていきなさい。でも、このプロジェクトの邪魔をするようなら、ゆるさないわよ」

 一人になって私は呆然とした。何で中島が自分の言うことを聞くなんて甘い考えを持ってしまったのだろう。いつもそうだ。自分の都合のいいようにしかまわりを見られないのだ。それでずっと失敗してきたというのに。

 ふと、白井の言っていたことについて疑問が浮かんだ。このプロジェクトは本当に行き詰っているのだろうか。

14

 次の日、出勤するとすぐ所長に呼ばれた。所長室には古谷と小倉もいた。応接セットのソファに所長と古谷が並んで座り、私は彼らに向かい合ったソファに小倉と一緒に座った。何かまずいことになるのは彼らの顔つきを見るまでもなく分かった。所長が切り出した。

「結論から言おう。君にはここを辞めてもらう」

 私は黙っていた。私の返事がないので、所長は付け加えた。

「君には期待していたんだが、案外だったな」

 ようやく私は言った。

「理由は何ですか」

「君自身がここで働くのを望んでいないのだろう?この施設の理念については、十分に説明したし、君の理解も得ていたと思ったんだが、どうもそうではなかったようだね。君もやはり世間的な妄説に目をくらまされていて、真の意味での利用者の人権ということが分かっていないようだ。そういう人をここの事業の中枢に置いておくわけにはいかんのだよ」

「どうしてそう言えるのですか」

「君がこのプロジェクトを妨害するつもりであることについては、いろいろ証言を得ているのだ」

 中島とのことで何かが起こることは予想していたが、こんなに早く、しかも厳しい反応が起きるとは思わなかった。私は横にいる小倉を見たが、彼女は前を向いたまま目を合わせようとはしなかった。

「それだけじゃない」

 古谷が口をはさんだ。

「君は職員関係もうまくいってないようだな」

「中島さんの件を言っておられるのですか」

「それもある。中島君や白井君に聞いてみたが、二人とも君のことはよく思っていないようだ」

 私はやっと気がついた。白井も絡んでいたのだ。彼が何を目的にしていたのかは分からないが、私を陥れようとしていたのだ。私を追い出そうとしていたのかもしれない。私に奪われた元の地位を取り戻すために。ひょっとすると、彼も中島に執着していたのかもしれない。もうどうにもならないことは分かっていたが、聞くだけは聞いてみたかった。

「彼らは具体的に何をいっているのですか」

「ふん、とぼけやがって。君は中島君に気があったが、彼女がなびこうとしないので、腹を立ててこのプロジェクトをぶち壊そうとした。それだけじゃない、君は二股をかけて、小倉さんとも‥‥‥」

「事務長!」

 小倉が制したので古谷は黙ったが、私は腹立ちまぎれに言い返した。

「小倉さんに気があるのはあなたでしょう」

「そこまでにしておきたまえ」所長が私を制した。「そんなことをここで聞きたくない。私的なことについてはとやかく言わないが、仕事の場には持ち込まないでくれ。とにかく、君の信用は傷ついているのだ。それに、こんな風になった以上、君もここにはいづらいだろう。悪いようにはしないから、素直に辞めてくれんかね」

「分かりました」

「分かってくれたか。ありがとう。辞めるにあったっては、退職金のようなもので報いるようにしたから。それと、何度も言っていることだが、ここの事業のことは絶対に他に洩らさないように。法律的な対抗手段のことは話したね。こんなことは言いたくないんだが、他にもいろいろ君をけん制する手段はある。例えば、君の経歴については、君が知られたくないことまで詳細に把握している。」

「それだから、私を雇ったのですか」

「それもあった。しかし、一番の理由は、きみがこの事業の意義を認めてくれると思えたからだ。とんだメガネ違いだったがね」

 私は小倉と話をしたかったが、彼女はかたくなに私から目をそらしていた。私は三人を残して所長室を出た。三か月分の給与と退職金は払うから今日から辞めてもいいと言われて、私は私物をまとめた。私が辞めることはたちどころに皆に伝わっており、顔を合わせた職員や利用者に一応の挨拶をした。

 こういうことになった場合のことは、ぼんやりとした形であったが、一応は考えていた。具体的な計画は立てていなかったが、出たとこ勝負で実行するしかない。奴らを出し抜いてやるのだ。

 私は退社する振りをして、隙を見て実験棟へ下りた。都合よく中島はいなかった。

 この水槽には緊急時に配水する装置がある。電源が失われても自然に水を排出できるようになっているのだ。もちろん、停電時には緊急自家発電装置が作動するのだが、もし全ての動力が失われた場合には、酸素供給ができなくなった水槽内の人を保護しなければならない。そのために、いわば水槽の栓を抜く装置があるのだ。

 水槽が壁と接している面にはわずかな隙間があり、水槽の外側に垂直のタラップがつけられてある。狭い隙間を降りてフロアーに達すると、水槽から太いパイプが出て壁の中へ入っている。そこに手動のバルブがある。このバルブを開けると水槽の水は重力に従って流れ出るのだ。

 バルブを開ければ水槽は空になる。むろんそんなことをしてもこの事業に多少の損害を与える程度で、事業自体を阻止することにはならないが、クビになった者が腹いせとしてやりそうな行為だ。それが私のねらい目だった。

 この緊急システムを知ったときに、私はその配管の経路について調べてみた。そのパイプはろ過装置にはつながっておらず、地下に埋められたまま敷地を出て、近くの川に排出口を開いている。あくまで緊急用なので、機器を介在させずに垂れ流しにしているのだ。

 私は密かにそこにペットボトルの空き瓶をくくり付けておいた。万が一水槽の水がそのパイプで排出されることがあれば、サンプルを採集できることになる。そんなことが起こるとはほとんど期待できなかったのだが、それがいまは役に立つことになった。

 私はキャットウォークに登り、タラップで狭い隙間に入った。バルブは堅かったが、力を入れると動き出し、全開になるまで回した。バルブを回している最中にサイレンが鳴りだした。水面の低下をセンサーが捕らえたのだろう。

 キャットウォークへ登り返すと、中島がいて、私をにらんだ。

「何をしたの」

「このクソ水槽に穴を開けたのさ」

 中島は私が何のことを言っているのかすぐには分からなかったようだが、私の出てきた場所から事情を察した。

「緊急バルブか。この馬鹿が」

 中島がタラップを降りようとしたので、私は彼女の体を背後から抱えて止めようとした。意外な力で中島は私を撥ね返した。私はバランスを失って水槽に落ちた。

 私の体は急速に底まで沈んだ。手足を動かしても浮力は得られない。呼吸を止めているので苦しくなる。もう耐えられない。このままでは窒息してしまう。私は覚悟を決めて水を口に入れた。液体が喉を通る感覚。息を吐く。空気の泡が出る。さらに水を吸い込む。苦しくはない。呼吸ができている。

 私は水槽の底で立ち上がった。静かだった。喉を通る水流の感覚があるだけだ。見上げると膜のような水面がある。その向こうは別世界のように遠い。ハシゴの縄は引き上げられてしまっている。アクリル板に張り付いて登ろうとしたがむろん無理だった。私は閉じ込められた。水槽と同化されてしまって、外の世界とは完全に切り離されている。

 中島がバルブを閉めたのか、水位は下がらなかった。たとえ水が流れ出ても水槽からは出られないだろうが。

 誰もいなかったアクリル板の向こうに人が現れた。近藤、古谷、小倉、中島の4人だ。彼等は私を槽の中から出そうとする様子はなく、私をじっと見ている。彼らを説得する以外にはここから出られないのだから、私は必死で自分でも訳の分からないジェスチャーをした。それを見て中島が笑った。私は打ち砕かれたようになって、手足を動かすのをやめた。

 古谷が近藤に向かって何か話し出した。近藤は黙って聞いていた。アクリル板を通してみる近藤は無表情のようだった。やがて古谷も黙った。皆が黙ったまま立ち尽くしていた。水槽から出してくれるような雰囲気ではなかった。私はあせったが、できることはなかった。

 ようやく近藤が古谷に何か言った。古谷ではなく小倉が答えていた。弁護してくれているのだろうか。近藤が短く答えた。とりあえずの結論が出たようだった。近藤と古谷と小倉は水槽から離れて行った。残った中島がアクリル板をはさんで私の前に立った。彼女は怒りと嘲りの表情とジェスチャーをした。私が反応しないので、彼女も消えてしまった。

 私は甘く考えていたようだ。彼らが私を監禁したり傷つけるようなことはあるまいとタカをくくっていた。しかし、このプロジェクトを守るためには危ういことも辞さないと彼らが覚悟しているなら、私の身に何が起こってもおかしくない。事故を装って私を始末してしまうのは簡単だ。まさかそこまではすまいと思ったが、やはり不安だった。

 私は高齢者とともに取り残された。私がずっとここで飼われるという可能性を考えてみた。老人たちの世話をするために中島か誰かが水槽の中に入らねばならないはずだ。そのときに私が襲い掛かるという危険を考えれば、私を隔離しなければなるまい。そんな面倒なことをするだろうか。

 私は高齢者たちの姿を探った。彼らには近づかないようにしていた。私が彼らと同じ立場にあること、水槽の中に幽閉されてしまっていることを彼らに悟られたくはなかった。彼らにそれだけの理解力はないだろうとは思ったが、仲間として扱われてしまうことはありそうだった。それは嫌だった。

 彼らは本当に幸福な気持ちでいるのだろうか。それとも何も考えずに、感覚的な心地よさに酔っているのだろうか。少なくとも、苦しんだり悲しんだりしてはいないようだ。だが、本当は、表面には現れないが、苦しんだり悲しんだりしているのに違いない。彼らは自覚していないかもしれないが、存在の根源では、この状況を受け入れがたく思っているはずだ。

 どのくらいたったのだろうか。息苦しくなってきた。奴らが何かを仕掛けてきたようだ。酸素の供給をとめたのか。あるいは何かの薬剤を混入したのだろうか。

 私は水槽の底に体を横たえた。意識が失われていく。もう死ぬのか。そのとき私は、ここで過ごす高齢者たちにとって、死ぬ前の環境がこの水の中であることに思い至った。死ぬまでの時間を過ごすのには、ここの環境はいいのかもしれない。生きている間にはずっと捕らえられていた重力の桎梏から逃れて、そのまま天国か極楽へ導かれるような気になるだろう。

 私は目を開いた。相変わらず水槽の中にいたが、傍に中島の白い裸身があった。私は手をのばした。中島はかわして逃げていく。私は追いかけた。水槽はいつの間にか海のようになっていて、見上げると明るい光に満ちた海面があり、下を見ると次第に濃い青になって底は見えない。中島は手足を動かしていないのにイルカのような速さだ。私の体も同じような速さで進んでいく。ようやくつかまえて抱きよせると小倉に変わっていた。どこからか中島も現れ、いつの間にか二人は天女になっていて、私を支えて上空に昇っていく。明るい光が見える。光の中へ私たちは入っていく。

15

 意識が戻ったとき、私は誰もいない部屋のベッドに寝ていた。狭く殺風景な部屋の中の機能的なベッド。病室であることはすぐ分かった。私は上半身を起こして、点滴の針を腕から外し、性器に差し込まれていたカテーテルを抜いた。立ち上がるとふらついたが、それ以上の異常はなさそうだった。小さなロッカーの中には私の服がたたまれていた。カバンも置いてあり、財布などもそのまま入っていた。私は服を着、靴をはいた。直後に若い女の看護師が部屋に入って来て、私に頭を下げ、空のベッドに目をやって言った。

「患者様はどこかへ行かれましたか」

「患者は私です」

「あら、そう。どうされたんです。まだ起きちゃだめですよ」

「もう、いいんです。退院するから精算して下さい」

「先生に聞いてみなければ。ちょっと待っていて下さい」

「いや、いいんです。出たいという者を無理矢理引き留めることはできないでしょう。ところで、私は何日ここにいましたか」

 看護婦はベッドの頭につけてある表を見ながら答えた。

「入院されたのは一昨日ですよ」

「今日は何日です」

 彼女の教えてくれた日付から数えると、私が意識をなくしている間にかなりの日数が失われてしまっていた。

「伝染性の疾患ではないですね。ここは隔離病棟ではないでしょう」

「そうです。意識障害を起こしておられたので」

「じゃあ、もう直りました。早く帰りたいので、精算をお願いします」

 看護師を追いやってから、私は気づかれないようにして病院を脱け出た。私はすることを決めていた。どこに通報するにしても、事情を説明するだけで時間がかかってしまう。なぜ彼らは私を生かしておいたのか、また、なぜ彼らは私を解放したのか、そのことをまず確認したかった。

 眠っている間に施設の職員らしき顔を見たような記憶がある。もうろうとした意識の中で、私をのぞき込んでいたいくつかの顔。私が見返すと、心配せずに眠るようにと彼らは言い、再び意識は闇に沈む。たぶん、彼らは私の意識を失わし続けるような薬剤を注入していたのだ。私が意識を回復したのは、私を眠らせておく必要がもうなくなったということだ。

 私は電車で施設のある駅を目指したが、車の手配を考えて、手前の大きな駅で降りてタクシーに乗った。様々な可能性の中から、私が立てた予想は一つだった。その予想は施設に近づくにつれ確信に変わっていった。車は荒れ果てた造成地の中に入った。見えるべき筈の白い壁と赤い屋根の建物がない。敷地は鋼板のフェンスで囲われている。門とおぼしきところには建築現場によくあるカーテン状の白い膜の扉がふさいでいた。私は車を降り、門の脇のすき間から中を見た。そこには何も残っていなかった。掘り返された土を三台のブルドーザーがならしているだけだった。

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