井本喬作品集

悪い山

 いい山行だった。どこにでもある平凡な山の一つだが、急峻な登山道は見晴らしがよく、重力に逆らって体を高みに上げて行く快さを久しぶりに感じた。頂上から帰るときに、来たのとは別の道が両側の灌木に囲われてなだらかに下っている風景に引かれ、そっちへ行ってみる気になった。そのまま行けば登り口とは離れたところに下りてしまうけれども、国道脇にあった観光案内の看板の地図では登り始めたところへ戻る道を分岐させているように描かれていた。そのルートを取るつもりだったが、分岐を見つけられないまま人家のあるところまで下りてしまった。農作業の服装をした夫婦らしい中年の男女に会ったので聞くと、私が車を置いている登り口は尾根を越えた隣の集落であり、かなり離れていることを教えられた。私が困惑していると女性の方が夫らしきその連れに「乗せていってあげれば」と言ってくれた。男性の運転する軽トラで登山口のある集落まで送ってもらった。

 自分の車に乗り、窓を開け放って走らせた。日が暮れるには間があった。山の影が谷を覆っていたが、空は青いままで、一日がまだ終わっていないことを保証していた。しかも今日は土曜日で明日もう一日休みがあるのだ。この世界が思いがけない喜びを用意してくれている気分になる。そのとき携帯電話がなった。電話は末田ユカリからだった。

 後になって、その電話によって導かれた道の果てから振り返ったとき、まだ何も知らないでいることができたその日の風景を切なく思い出すことになる。

 次の日、ユカリの指定した場所に私は出向いた。S公園は広いので日曜でも人はまばらにしか見かけない。公園を待ち合わせの場所にしたのは、なるべく人目につかない所というユカリの希望からだった。ユカリの指定したのは入口近くの広場だった。中央に噴水とそれを囲むコンクリートの浅い水場がある。約束の時間よりかなり早く来てしまったので、水場を囲むベンチの一つにすわって待った。少し離れたベンチに暇そうな老人がいた。私は、昨日から何度も繰り返しているのだが、またユカリのことを考え始めた。ユカリは二か月前にM山の尾根から転落死した末田の妻だった。末田が死んだとき、私と江波が一緒だった。末田が死ぬ前には彼が連れてきていたユカリと何度か会った。末田が死んでからは会ったことはない。死んだ友人の未亡人と二人きりで会うことは何か後ろめたい気がする。

 ユカリが現れたとき、私は妄想めいた期待をもてあそんでいたのでどぎまぎした。ユカリは黒いワンピースに白いカーディガンのようなものを羽織っていた。私は立ち上がったが、彼女が帽子を被りサングラスをかけていたので、ユカリであるかどうか迷い声を出しかねた。ユカリはサングラスを外して頭を下げた。

「お待ちになりました?」

 ベンチの老人を気にしてかユカリが歩き出し、私はそれに従った。二人はお互いの近況を聞き合うなどの定式化された会話を交わした。公園には喫茶店もあったが、外の方が気持ちがいいし、人にも聞かれないからと、ユカリは林の中の道を進んだ。小さな丘を登ると展望のきくあずまやがあった。二人はあずまやのベンチにすわった。丘の上には他に誰もいなかった。二人の会話は途切れた。私は丘からの眺望に目を向けた。視野の中央に大きな池があり池の周りに樹木が茂っていた。

「江波さんとは会っておられます?」

 ユカリが唐突に聞いた。

「末田君の葬儀から会っていない」

「近々お会いになる予定はありますか」

「どうして」

 ユカリは間を置いた。どう切り出そうか迷っているようだった。私は待った。ユカリは視線をそらして言った。

「江波さんから付き合ってほしいと言われているのです。お断りしたのですけれど、承知していただけないのです。ごめんなさいね、こんな話。でも相談する人がなくて」

 私はすぐには応答できなかった。男女の間のいきさつは本来他人に秘すべきであり、そういうことに第三者を巻き込もうとするユカリのやり方が嫌だった。むしろ江波に同情した。急にユカリがうとましくなった。

「江波に話をしてほしいというの?」

「厚かましいお願だけど、そうしていただけませんか」

「それは気が進まないな。別れ話に他人が入っても解決にはならないと思う」

「二人では話にならないのです」

「放っておけないのかい。ストーカーみたいなことをするなら、警察に相談するのが一番だ」

「なるべく穏便にすませたいのです。友達でいらっしゃるあなたならば、江波さんも話を聞いてくださるのでは」

「友達だからといって、女にのぼせ上がったやつに何ができる?下手なことをすればこっちが恨まれることになる」

 ユカリは黙ってしまった。自分の態度の素っ気なさがユカリを悲しませたのではないかと気になった。冷たく突き放すほどの意志の強さはなかった。ユカリに悪く思われたくないという気持ちが私を妥協的にさせた。

「はっきり意思表示をしていないせいじゃないの。変に気を使うと、誤解されてしまう。面と向かって言いにくいなら、手紙とか何かで」

「はっきり言っているつもりなのですが」

 私はそのとき気づいた。何をうぶなことを考えていたのだろう。男女の間がこれほどもつれるなら、理由があるに違いないのだ。

「単に言い寄ってくるだけなら、拒否できるはずだ。それとも江波と何かあったのか」

 ユカリは私から目をそらし、下を向いて言った。

「軽薄だったわ。彼に対しては別に特定の感情などなかったのに、何となく。ひどい女だと思うでしょ」

 私は何と答えていいか分らなかった。

「ほとほと困り果ててしまって、このままでは何かが起こりそうな感じなの」 

 ユカリは泣き出した。私はどうしていいか分らず、ユカリの泣くのを見ていた。ユカリはなかなか泣きやまない。私の賢明な部分は余計なことはするなと警告していた。しかし、私は愚かであることを選んだ。

「分かった。江波に話してみよう」

「ありがとう。きっと力になってくれると思った」

 江波と私は車を登山口の駐車場にとめて、頂上への道を登った。このコースを決めたのは江波だ。この山は二人とも初めてだった。三角点のある山だが、地元の人以外にはほとんど知られていない。途中までは渓流にそった道だった。この時期の山登りは暑いので、木が繁り水の流れのある道は気持ち良い。流れを遡ってしばらく行くと小さな滝があった。道はそこから流れを離れて尾根の登りとなる。古びた絵看板が立っていて、それによると登山道は二つあり、一つは一般の登山道、もう一つは昔の修験者の修行場で、後者はいくつかの岩を越えて行かねばならないので危険だと注意書きがある。修験者の道を取る。手がかりが豊富でさほど手こずらずに済むが、一か所岩が空中に飛び出たところがあった。ペンキで指示された足がかりが離れた上の方にあって、移動のときに体が宙に浮く。一瞬ひやりとして越えると、その上の大きな一枚岩には鎖がたらしてある。壁面は滑らかなので手の力で登り切らなければならない。岩の上に出た二人は座り込んで休憩した。そこからは谷が見渡せた。向かいの山とこちらの斜面との間の深い空間が右手の方へずっと続いている。

「思ったより手ごわかったな」

 江波は下をのぞき込んで言った。私は水筒の水を飲んだ。言わねばならないなら早く言ってしまおう。いつ言い出すか気にしながら行動するのは嫌な気分だ。

「変なことを聞くけど、君は末田の未亡人とつきあっているのか」

 江波は顔を私に向け、しばらく間をあけて答えた。

「それがどうかしたか」

「末田の未亡人に相談を受けてね」

「ユカリが君に相談。君らがそんなに親しいとは知らなかった」

「親しくなんかはない。末田が死んでからはこの間会ったのが初めてだ」

「何で会った」

「呼び出された。君のことを相談したいって。彼女は君とのことで悩んでいる」

「そのことか。ユカリは末田が死んでからまだあまり日が経っていないことを気にしているのだろう。だがユカリは自由だ。あいつが何をしようとあいつの勝手だ。末田の家族が何か言い出すかもしれないが、放っておけばいい。あいつが俺との結婚を望むなら、それがあいつの幸せだ」

「結婚だって。そういう話ではなかった。彼女が言うには、君と付き合ったのは間違いだったので考え直したいそうだ」

 江波は驚かなかった。むしろある程度予想していたかのように冷静だった。

「ユカリからそんなことは聞いていない」

「とにかく、彼女が僕に言ったことを君に伝えた」

 私の同情に欠けた物言いが江波を怒らせたのかもしれない。私としては二人の関係にこれ以上関わるまいとしてことさら事務的な態度を取ったにすぎないのだったが。

「おかしいな。親しくもない君に、ユカリが何でそんな相談をした」

「直接君に言いづらいからだろう」

「君の差し金か」

「僕が僕の考えでわざわざ男女の仲に割り込むと思うのか。頼まれたから言っている。僕だって、こんなことを言うのは嫌だ」

 私は立ち上がった。江波も続いて立ち上がった。狭い岩棚で二人は確保のしようもない危うい位置にいた。どちらかがちょいと突くだけで他方は落ちてしまうだろう。

「君は末田のことで俺を非難しているのか」

「どうして。末田が死んだのは君のせいじゃないだろう」

「もちろんそうだ。末田が死んだのは俺のせいじゃない。そうではなくて、彼女のことで、だ」

「僕には君を非難する理由はないよ」

 そう言って私は岩の道を登り出した。江波が私の後から登りながら声をかけた。

「ひょっとして、君はユカリに惚れていたのか」

「馬鹿なことを」

 そこを登り切るとあとは緩やかな尾根道だった。頂上に登り着き、昼食を取った。帰りは一般道で下りた。ユカリのことは二人とも二度と口にしなかった。

 私はユカリと再びS公園で会った。私たちは花のある庭園の中を歩いた。いろいろな花が咲いているが、表示の札に書かれた名前はややこしいものばかりだった。土壁に囲まれたパティオ風の一画で話をした。

「江波との話はうまくいかなかった」

「無理なお願をしてごめんなさいね」

「君は江波に君の気持ちをはっきり言っていなかったのか」

「ちゃんと言ったつもりだけど」

「通じてないようだな。むしろ、江波は僕のことを変に勘ぐっている。君に興味を抱き、下心があるんじゃないかと」

 ユカリは真っすぐに私を見つめた。

「そんな風に思われるのが迷惑なの?痛くもない腹を探られたくはない?」

「紋切型で言えば、そういうところかな」

 私は迷っていた。これで終わりにしてユカリとはもう二度と会わないでおくか、もっと深く関わるか。単に江波とユカリの調停役ならごめんだが、ユカリが私に興味がありそうな気配を示すのが気になる。ユカリはユカリで考え事をしているらしく、二人は黙って林の中の道を歩いた。やがてユカリは何ごとかの決断をしたのか、新たな話題を持ち出して来た。

「江波さんのこと、どの程度知っている?」

「あんまり知らないな。一緒に山へ行くときの他はあまり会うことがないから」

「私のこと、ひどい女と思うでしょうね」

 前にもユカリはそう言った。私はユカリがそれを否定してほしいのだろうと思って言った。

「末田君が死んで寂しかったのだろうから」

「そうじゃないの。江波とは末田が死ぬ前から付き合っていたの」

 私が示せたのは戸惑いだけだった。

「どうしてそうなったかは言わないわ。別に末田が嫌いになったわけでもない。もののはずみみたいなもの。でも望まずにそんな関係になったと言うつもりもない。末田が死んでから後悔して彼と別れようとした。でも彼は承知しない」

 彼女が何でこんなことを聞かせるのか私はまだ分らなかった。

「末田には財産があった。お父さんが亡くなって、不動産や有価証券などかなりのものを相続していた。その財産は末田が死んで私のものになっている」

 末田が裕福であり、その財産を相続したことでユカリが末田の母親や兄弟と対立しているということを私は聞いたことがあった。

「君と君の財産がかかっているのなら、江波でなくたって簡単にはあきらめはしないだろうな」

 私は笑い出した。

「何がおかしいの」

「江波の奴、僕が横取りするとでも思ったのか。彼にすればもっともな心配だ。いっそのこと、カネで済ませたらどうです。手切れ金」

「それで済むのなら。私、恐いの」

 ユカリは恐怖を現すように胸の前で両手を組んだ。

「末田の死んだとき、江波は末田の後にいたのよね」

「そう。僕がトップで、末田君がミドル、江波がテイルだった」

「あなたは末田の落ちるところは見なかったのね」

「振り返ったら末田君はもういなかった」

「何か様子が変ではなかった?」

「それはどういうこと」

「あの場所は危険かもしれないけど、山馴れた人間が転落するようなところじゃないのでしょう?」

「そうだけど、事故はどこでも起こる。事故の起こりそうなところは用心するから、かえって何でもないところでミスしてしまうことがある。末田君は何かの拍子にバランスを崩した」

「何でバランスを崩したの」

「分からない。見てたわけじゃないから」

「江波が末田のバランスを崩したかもしれないのね」

 私はようやくユカリの言いたいことが分かった。

「江波がもしそういうことをしたのなら、何か思い当たることがあるのか」

「江波は自分のものになってと言った。私は末田がいるから無理と答えた。江波と一緒になる気なんかなかった。だけど、ストレートには言えないでしょう。だから、末田が障害のように言ったのよ。江波がそれをどう取ったか」

 私はいつのまにか事件の関与者にされてしまっている自分に気づいた。

「どうしてそういうことを最初から知らせてくれなかったんだ」

「あなたをこんなことに巻き込みたくなかったの。第三者が関われば江波はあきらめるのではないかと思ったの。でも逆効果だったわ。あなたは悪いことをした。あなたに迷惑がかからないかと心配だわ」

「江波は僕のことで何か言ってきているのか」

「何であなたが割り込んできたのかと怒っていた」

「もし江波が君の思っているようなことをしたのなら、僕のことも容赦しないだろう」

「ごめんなさい。私にはあなたしか頼める人はいなかったのよ」

「でも、これ以上僕にどうしろと。江波が末田君の死に責任があることを証明してほしいわけ?」

「どうしていいか分らない。だから助けてほしいの」

 江波が尾行していることを私たちは全く気づかなかった。警戒しておくべきことだったのに。私たちが庭園を出たとき、突然江波は現れた。

「二人でこそこそと、何をしている」

 ユカリと私は不意をくらって恐慌状態になった。ユカリは小さな叫び声をあげ、おびえて江波を見つめた。私はただ呆然としていた。二人とも何も言い出せなかった。江波は私を無視してユカリに言った。

「一体どういうつもりだ。俺に隠れてこんな奴に会って」

 ようやくユカリが恐怖を怒りに変えた。

「私が何をしようと勝手でしょう。放っておいてちょうだい」

「そうはいかない。お前は俺と約束したはずだ」

「何を言っているのよ」

「俺をこけにしようたってそうはさせないぞ」

「そんなつもりはないわ。あなたとのことはもう終わったの。終わりにしたいの。しつこくしないで」

「乗り換えようというのか。俺の代わりにこんな男を相手にするのか」

 私が江波に向かって言おうとするのをユカリは押しとどめ、江波から離れようとした。

「行きましょう」

「待てよ。話はまだ済んでない」

「話すことなんかない」

 私たちは歩き出したが江波は解放してくれなかった。

「恋人気取りか。お前にこの女が満足させられるかよ、え。もうやってみたのか」

「いやらしいこと言わないで」

 私は何も言わない方がいいのは分っていたが、我慢しきれなくなった。

「冷静になれよ。僕らは話をしていただけだ。君がユカリさんに執着する気持ちは分るが、ユカリさんの気持ちも考えろ。過去に何があろうとも、もう済んでしまったことではないか」

「何も分からないくせに、出しゃばるな。俺の後釜を狙っているのだろうが、そうはいくもんか。ユカリは俺のものだ。手を出すな」

「私はあなたのものなんかじゃない」

 江波はユカリに近づき彼女の腕をつかんだ。ユカリは逃れようとするが江波の力は強く抗うユカリを離さない。

「痛い、痛い、離してってば」

 私はユカリから江波を引き離そうとした。

「手を離せ。ユカリさんにさわるな」

 江波は私の手を振払ったが、次の瞬間ユカリを離し私のシャツの襟首をつかんだ。そこからの記憶は途切れている。気がついたとき、私は芝生の上に寝かせられ、ユカリが心配そうにのぞき込んでいた。

「大丈夫?」

「何があったんだ」

「あなたは江波にKOされたのよ。江波があなたの頭を殴ったの」

 私はそのことを憶えていなかった。思い出そうとしたが、江波にシャツをつかまれたところから目が覚める間のことは消えてしまっていた。

「江波は?」

「私が大声で叫んだので、逃げて行った」

 私の意識ははっきりしてきたが、江波に負けたという屈辱が起き上がるのを妨げていた。私は目をつむった。

「頭が痛くない?吐き気はしない?」

 頭は痛くなく、吐き気もしなかったが、恥ずかしかった。ユカリはさぞかし頼りない奴だと思っているだろう。私は打撃をことさら大きく見せることで恥ずかしさから逃れようとした。

「クラクラする」

「やはり病院へ行った方がよいかしら。救急車を呼びましょうか」

「いや、大丈夫、その必要はない。しばらくこのままでいたら直るだろう。君は帰っていいよ。一人でも何とかなる」

「駄目よ。あなたが心配。ここではどうしようもない。動けるのなら、私の家へ行きましょう」

 ユカリに助けられて私はゆっくりと体を起こした。立ち上がってちょっとよろめいた。ユカリはあわてて私を支えた。ユカリに抱えられるようにして歩いた。しばらく歩いているうちに、ユカリの助けがなくても歩けることに気づいたが、あえてそのことを言わなかった。ユカリは駐車場に私を連れて行った。贅沢な彼女の車が停めてあった。

 私はユカリの横の席で、背もたれを倒して寝た。頭の上の窓からは周りの景色は見えず、どこを走っているのか分らない。空が見える。夏のような青い空。そして黙々と車を操作しているユカリの横顔。ユカリに身を委ね、ユカリによって見知らぬ世界へ運ばれていく、そんな気がした。

 私はうつぶせになったユカリに寄り添って横になり、彼女の背中をなでていた。ユカリが私に顔を向けて言った。

「よかった?」

「とてもよかった」

「私もよ」

 ユカリが顔を近づけたので私はユカリのあごを支えてキスをした。

「もうこれで私たち一心同体ね」

 私はユカリの言っている意味がつかめないままうなずき、キスを続けようとしたが、ユカリは会話の方を続けたがった。

「江波をどうにかしなくちゃ」

「そうだな」

「覚悟してね」

「あいつを納得させるのはやっかいだろうな」

「納得なんかさせられないわ。排除するしかない」

「排除?」

「殺すしかない」

 ユカリの顔は真剣だった。私は起き上がりベッドを出た。便所へ行って放尿した。愚鈍さそのもののような自分の立てる水音を聞きながら、ユカリにどう返事をすればいいのか迷った。こんなことになるのをユカリがどこまで計画したか、あるいはもっと穏やかな言い方をすればどこまで予測していたか私には分らなかった。彼女は私を利用しようとしているのだろうか。しかし、私に抱かれたときに示す彼女の反応は演技とは思えなかった。江波よりあなたの方がいいと言われて私は悪い気はしなかった。

 便所を出てベッドには戻らず、窓際に立って外を見た。ユカリは末田が死んでからマンションに移り一人で住んでいた。マンションは街中の再開発された地区にあった。高層のマンションは辺りの住宅を圧倒してそびえていた。ユカリの部屋から見下ろすと家々が隙間なしに続いているのがよく見える。あの屋根の下ではつまらぬ苦労やみみっちい喜びに一喜一憂する生活が営まれている。今までの私のように。

 江波を殺すことにおいて共犯になれば、ユカリは私から離れることはできなくなる。江波ではなく私がユカリとユカリの財産を手に入れることができる。だが、リスクが大きすぎる。

 ユカリがベッドから出てきて背中から抱きついた。私は言った。

「本当にそれ以外の方法はないんだろうか」

「まだ納得できないの。あなたが気を失っている間に江波は言った。言うことを聞かなければ、あなたと私が共謀して末田を殺したと告発する。あなたが末田を突き落としたのを見たと証言する。そう言った」

「脅しているだけじゃないのか。今になってそんな証言をするというのでは、信憑性に欠けるだろう」

「邪魔になった夫を愛人と一緒に殺し、財産も手に入れる。いかにもありそうなこと。皆が喜びそうな悪女の筋書き。誰も証言の信頼性なんて細かいことは気にしはしないって、江波はそう言った」

 ユカリは私の前に回り、足をからませ腰を押し付けてくる。

「私たち、もう逃げられないのよ」

「僕が否定したら?逆に江波がやったことだと言い返したら?」

「あそこにいたのはあなたと江波の二人だけなのだから、水掛け論になってしまう。どっちにしろ、私は悪者になってしまう」

「証拠なんて何もないんだ。誰も君を害することはできない」

「証拠がなくてもマスコミが騒げば有罪になる可能性は高いわ。有罪になれば何もかも失ってしまう。ヘタすると死刑にもなりかねない。それを避けたければ江波と結婚しするしかないわ」

「そんなことは駄目だ」

「私を助けてくれる?」

「もちろんだ」

 ユカリは耳元でささやく。

「だから殺すの」

「‥‥」

「江波を殺すの」

「‥‥」

「このままだとどっちにしろ私は江波に殺される。結婚したら江波は私を殺す気よ。彼の狙いは私のカネだから」

「そんなことはさせない」

「だから殺すのよ。二人で一緒に殺すのよ」

 私が黙ったままでいるとユカリはかがみこんだ。暖かいユカリの口の中で再び勃起する。丹念なユカリの作業を感じながら、ユカリを失うことを思った。せっかく得たこの喜びなしで生きていけというのか。そんなことは耐えられない。動作に没頭しているユカリの頭を見下ろして私は言った。

「分った。そうしよう」

 それからベッドの中で江波を殺す計画を立てた。ユカリが江波を山へ連れ出す。江波と結婚するについて末田の慰霊をするとか何とか理由は作る。私は先回りするか、後をつけるかして、江波を突き落とす。江波の死は事故か自殺と見なされるだろう。

「出来るかな?」

「不意を襲えばいいのよ。私も手伝うわ」

 一人で山を歩くのは不安なものね。このルートはあまり人が通らないらしい。でも教えられた通りに歩いて行けば大丈夫なはず。山小屋に着いたら練習したように間違えずに言わなければ。崖の上で二人がケンカになり、二人とも落ちてしまった。私をめぐっての争いということは認めなければならないでしょうね。スキャンダルになるけど仕方がない。隠せばいずれ明らかになって疑われるだけ。できるだけ本当のことを言う。そうすれば食い違いが防げる。もちろん、言ってはならないことはしっかり把握しておくこと。それにしてもあの男が負け犬だったのは好都合だった。セックスにもカネにも飢えていた。だから欲しいものが手に入るとなると何にも目に入らない。あんな男に私が興味を持つなんておかしいと思わなかったのかしら。自惚れというのはどんな人間でも持たずにはいられないのね。江波が末田を殺したなら、私がからんでいることは分かりそうなもの。でも、あいつがいてくれたおかげで、江波を厄介払いすることができた。あいつを三角関係の中に引きずり込み、江波さえいなくなればその後釜になれると思い込ませる。江波には、末田の死について私たちが疑われていると言って不安がらせ、あいつに罪をかぶせて殺してしまうようにそそのかす。二人が私と財産をめぐって殺し合をするように仕向ける。江波にボロを出させないように演技させるのは大変だった。気の小さいことに二度は嫌だと江波はびびってしまった。尻込みする江波を奮い立たせるために、あいつと必要以上にいちゃついて嫉妬させ、乗り換えるのではないかと疑惑さえ持たせた。江波にしてみれば、演技か本気か分からなくなっていたでしょうね。あいつの方が逃げて行ってしまったら困ったことになったでしょうけど、私の虜になるようにたっぷりサービスしたから。あいつには江波を殺すために同行すると言い、江波にはあいつを殺すためにおびき出すと言い、二人を山の上で会わせるのはいいアイデアだった。二人が取っ組み合って自然に落ちてくれればよかったのだけれど、そんなにうまくはいかなかったわね。男二人を片付けるのは大変。スタンガンがあるから何とかなった。そうそう、これはどこかに隠しておかなければ。棄ててしまってもいいのだけれど、誰かに見つかるとまずい。江波とはお互いに楽しんだ。あれだけでも殺される価値があったと思わなくては。男なんていいかげんなものね、友人の妻だろうと何だろうと、チャンスがあればすぐ寝ようとする。私と財産が手に入ると思ったら、友人を突き落とすのもちゅうちょしない。けれども末田を殺すのに江波を使ったのはまずかった。たまたま末田の山仲間だったから利用したのだけれど、私の弱味を握ったと思っていい気になって。いいかげんあしらっておくつもりが、始末しなければならなくなってしまった。男なんてどいつもこいつも。末田には悪かったけど、あんな面白味のない男なんて、財産がなければ私に鼻も引っ掛けてもらえなかったとこよ。いい思いさせてあげたのだから、成仏しなさい。私を自由にしておいてくれさえしたら、死ぬことはなかったでしょうに。いちいちうるさくて息がつまりそうだった。これでみんな片付いた。やっと自由になれたわ。でもおかしいわね。なかなか、山小屋に着かない。道がはっきりしなくなった。さっきのところで間違えたのかしら。引き返そうか。でもどっちから来たのかしら。なんだかガスもでてきたみたい。方向がわからないわ。どうしよう、道に迷ったのかしら‥‥

[ 一覧に戻る ]