井本喬作品集

今さら、マルクス?

 思いついたことがあって、藤田晋吾『スラッファの沈黙』(東海大学出版会、2001年)を再読してみた。副題に「転形問題論争史」とあるように、マルクスの『資本論』におけるいわゆる転形問題をスラッファの『商品による商品の生産』に関連づけて検討した著述である。数学的展開が難しくて理解しにくかったので、自分なりに考えてみた(以下の記述は『スラッファの沈黙』にはない)。

 ごく単純な例を使おう。仮想の原始人の狩猟である。彼らが元気づけに鹿の肉s₁を食べ、労働量l₁を使って、鹿の肉s₂を得たとしよう。鹿の肉sはここでは投資とする。したがって賃金はゼロ。純生産物は鹿の肉s₂-sとなる(賃金を考慮する場合は純生産物から支払うとすればよい)。次におなじく兎の肉u₁と労働量lを使って兎の肉u₂を得たとしよう。純生産物は兎の肉u₂-uとなる。それでは、鹿の肉s₃と労働量lを使って兎の肉uを得たとしたら、純生産物はどうなるだろうか。鹿の肉と兎の肉を単純に量比較しても意味がない。

鹿の肉s₁ と 労働量l₁ → 鹿の肉s₂   純生産物  鹿の肉s₂-s₁
兎の肉u₁ と 労働量l₂ → 兎の肉u₂     〃   兎の肉u₂-u₁
鹿の肉s₃ と 労働量l₃ → 兎の肉u₃     〃    ?

 労働量を同じに揃えた場合、兎の肉uを得るために兎の肉がx必要だとすれば、兎の肉xと鹿の肉s₃とは価値が等しいことになる。あるいは、鹿の肉sを使って鹿の肉がy得られたとすれば、鹿の肉yと兎の肉uとは価値が等しいことになる。

鹿の肉s₃ と 労働量l₃ → 兎の肉u
兎の肉x  と 労働量l₃ → 兎の肉u₃
鹿の肉s と 労働量l → 鹿の肉y

 鹿の肉で計った兎の肉の価値をpとすれば、s₃=pxおよびpu=yであるから、pを消去してx/u=s/yが導ける。純生産物を計るためには、補助的な二つの生産過程の投入と産出の財の比率が等しくなければならないことになる。

 ところで、この例では三つの生産過程で労働量が等しい。しかも、兎の肉の生産のために二つの生産過程があるが、両者の生産性が同じということは考えられないから、実際にはどちらかが排除されるだろう。このような特殊な例ではなく、より一般化したシステムを構築したのがスラッファの『商品による商品の生産』である。次のような生産過程を考えよう。

鹿の肉s₁ と 兎の肉u₁ と 労働量l₁ → 鹿の肉s₃
鹿の肉s と 兎の肉u と 労働量l → 兎の肉u

 α、βをそれぞれの生産過程に乗じた後に合計する。

鹿の肉(αs₁+βs)と兎の肉(αu+βu)と労働量(αl+βl
→ 鹿の肉αsと兎の肉βu

 α、βは次のような式を満たす数である。

(αs₁+βs)/αs₃=(αu+βu)/βu   ―― ①
αl+βl=l+l               ―― ②

 ①式は兎の肉と鹿の肉それぞれの投入と産出の比率が等しいことを表わしている。②式において合計の労働力を等しくしておくのは、賃金が支払われる場合に賃金額の影響を除外するためである。(αs₁+βs)/αs=(αu+βu)/βu=γとおくと、純生産物(αs₃-αs-βs ,βu-αu-βu)は(1-γ)(αs ,βu)となって、生産物と同じ比率の兎の肉と鹿の肉のセットで換算できる。生産物と純生産物が同じ比率の肉のセットで換算できるならば、両者の差である投入物も同様である。スラッファは多財に一般化しているので、ある比率の財の組み合わせ(標準商品)によって計ることになる。このシステムは、単に生産過程に適当な数を乗じただけなのであるから、もとのシステムと互換的である。スラッファはこのような乗数が一般的に存在することを証明した。

 さて、以上のようなスラッファのシステムから出発して、マルクスのシステムを見てみよう。鹿の肉と兎の肉のセットは合成肉として扱うことができる。

合成肉a と 労働量l → 合成肉b

 投入量がθa、労働量がμlの場合の生産量をcとする。

合成肉θa と 労働量μl → 合成肉c

 労働価値説では労働のみが価値を作ることができるとされているから、純生産量は労働量に比例するはずである。

c-θa=μ(b-a)

 生産関数をf(合成肉投入量,労働量)=合成肉生産量とすれば、次のように書き直せる。

f(θa,μl)-θa=μf(a,l)-μa

変形すると

f(θa,μl)=μf(a,l)+(θ-μ)a

 総生産量は労働量に比例していない。ここでθ=μとすれば総生産量も労働量に比例するようになる。

f(μa,μl)=μf(a,l)

 もし賃金が支払われるなら、合成肉で計った賃金と労働量は比例するから、θ=μは資本の有機的構成が一定を意味する。

 実は、スラッファのシステムをいったん導きだしたら、θとμの値を異なったものにすることはできない。そういうことをすればαやβを変更しなければならず、鹿の肉と兎の肉の割合が変化して合成肉の内容が変わってしまうので、比較のしようがなくなる。生産についてシステムどうしを比較できるのは、生産過程の技術的変化なしに労働量が増加するとき、つまり、αとβが変化しないときである(これは規模において収穫一定の生産関数ということである)。その場合は、労働量が投入量、生産量、純生産量に比例するのは当り前のことなのだ(システムをそのまま拡大しているにすぎないのだから)。

 スラッファのシステムで生産過程の変化に影響を受けないのは分配率だけである。したって、唯一比較可能なのは分配率である。

 分配のための生産要素の寄与について何かを言おうとすれば、その要素と生産量の関係を示さなければならない。比例するとか、限界生産物が低下するとか。しかし、そういうことを言うためには、マルクスの用語で言う資本の有機的構成が一定でなければならない(スラッファ・システムの乗数が同じでなければならない)としたら、生産量は生産要素の量に比例するとしか言いようがないのである。

 そもそもマルクスが剰余価値について語るのは、本来労働が生み出し、労働に帰属するべきものが搾取されているとみなすからだろう。労働こそが新たな価値(純生産物)を生み出すのであり、資本の取り分は補てんされるべき分にすぎない。それ以上の取り分である利潤は労働と賃金の不等価交換による搾取の結果である。マルクスはこのことを拡大再生産においても証明できると考えた。しかし、マルクスの説明は成功していない。

 一方で、新古典派の分配理論にも同様の難点がある。生産要素一単位の取り分はその限界生産物であるという主張は、スラッファのシステムを基礎にするとすれば、限界生産力など計りようがないので意味を失う。

 ところで、スラッファのシステムを受け入れて労働価値説を放棄しなければならないとしたら、マルクスの主張が拒否されねばならないのだろうか。生産における分配は恣意的(生産とは無関係)でしかないとするならば、生産要素の寄与についての経済学的な判断は困難である。マルクスの理論を継承するとするならば、彼の「経済学批判」をそういう文脈で捕らえ直す必要があるだろう。マルクスは交換に基礎を置く「経済学」に対して、分配を交換に還元することはできないと主張したと解釈するのだ。労働と交換に受け取った賃金は、生産の分配として正当なものかどうかは経済的には判断し得ない、したがって政治的、社会的に判断しなければならない。ただし、私自身はマルクス主義そのものの検討をするつもりはない。私がマルクスに共感するのは、協業(生産も含めた)は交換に還元できないという点においてである。

 交換には分配の問題がない。お互いに交換したものを手に入れるだけだから。交換が不公平だと思うなら、しなければいい。全ての経済活動を交換に還元できれば、分配については配慮する必要はない。市場を交換の体系として捕らえれば、市場の適正さは自発的交換によって保証されるであろう。市場のどこにも搾取などという不正は存在しない。自発的交換がなめらかに、障害なく実行されることが効率的(パレート最適)であるということになる。したがって協業も交換に還元できれば、分配の問題は生じないことになる。

 スラッファが示したのは、協業における成果を、それに参加した要素の貢献に応じて分配する客観的原理などは存在しないということだろう。手を叩いて出す音に、右手と左手がどのように貢献したかは判断しようがないのと同じである。要素間の代替によって成果が変化すれば、貢献の程度は比較できるかもしれない。小さな右手と大きな右手のように。しかし、そもそも右手と左手の寄与度も決められないとしたら、音の大きさの比率も役には立たない。むろん、右手と左手は対称的だから同じ役割を果たしているとして五分五分にすることは考えられる(左手と左手では叩けないにしても)。鐘と鐘、撞木と撞木も同様。しかし。鐘と撞木ではどう考えればいいのか。

 交換に還元できない協業の特殊性が、ある種の問題を考えるのに有効ではないかと私は思っている。それは利己性と利他性の関係についてである。

 交換は利己性と利他性を同時に実現するので、自発的交換が妨げられることがなければ、利己性の伴わない利他性は原則として必要ない、という見解がある。また、利他性そのものが利己性によって説明できるという見解もある。交換論による利他性の説明は互恵的利他主義である。互恵的利他主義では利他性は時間をずらした交換である。この説明によって利他的とみえる現象のかなりの部分をカバーできる。実際に、人助けをするときには「お互いさま」と言うではないか。ただし、それだけでは説明しきれない現象もある。そのときには主体の錯覚(自己欺瞞)に説明困難の責めが負わせられる。

 しかし、分配が交換によって説明しきれなければ、利己性と利他性の結びつきが断たれてしまう場面があるのではないか。マルクスが交換からは搾取が出てこないが生産では可能としたように、交換からは利他性(それは搾取の相方である)が導き出せないが協業では可能であることが示せるのではないか。市場が公平性を保証するものだとしても、分配が公正であることの証明にはならない。なぜなら、交換が全てを構成しているわけではないのだから。同じように、交換が利他性を反射的に(自動的に)実現してきたのではない。利他性の現れる場面では交換は成り立たないのだ。経済学が全てを交換に還元することによって搾取の概念を消し去ったように、合理的自由主義も同じように交換というものを祭り上げることによって利他性というものを見失ってしまったのではないか。

 むろん、そのような批判のためには、代わりの説明を提示する必要があるだろう。そのことは倫理学にマルクス主義を持ち込むことを推奨することにはならない。ただ論理の並行性が指摘されるだけである。

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