さらに、マルクス
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『マルクスと悪霊』(森和朗、勁草出版サービスセンター、1990年)という本を題名に惹かれて読んでみた。あとがきには、もともと「マルクス没後百年の一九八三年に彼への関心の高まりをあてこんで」書かれたが、そのときは出版ができなくて後に自費出版されたとある。この本はむしろ『マルクスとドストエフスキー』と題されるべきだったろう。今どきこのようなテーマに惹かれる人は少ないだろうが、エゴイズムの問題を考える参考になると思われるので取り上げてみる。
私は最初、著者のマルクス批判は彼がエゴイズムを容認しなかった点に向けられているのだと思っていた。市民社会はエゴイズムを構成要素の一つとしており、マルクスはその重要性を見誤ったのだと。しかし、読み進んでいくうち、著者はエゴイズムが嫌いなのが分かった。著者の考える市民社会とは次のようなものだ。
各人に与えられた自由は、理性と良心によってその内部から統御され、かつ、国家によって保障された政治と言論の自由のもとで、各人の自由が衝突し、ぎりぎりまで議論され、合意されたものが社会の中に具現化されていく過程で練磨されることによって、人格は徐々に形成され、各人は個性的な人間になっていく。(370-1ページ)
つまり、厳格主義的、人格主義的である。アダム・スミスの考えた市民社会では、ほどほどの道徳(他人の目を気にする程度)さえ持てば、エゴイズムはむしろ奨励されたのである。著者が市民社会のエゴイズムを肯定的に取り上げるのは、マルクスがそれを評価しそこなったという点だけにおいてであり、著者自身はそれを陶冶したいらしいのだ。
なぜなら、著者がマルクスを批判するのはエゴイズムという点においてであるからだ。著者はマルクスのエゴイズムが彼の理論を作り、その理論がソ連という悪のシステムを作ったと主張しているようである。マルクスはそういう自分自身のエゴイズムに気がつかなかったが、一方、ドストエフスキーは自己の内なるエゴイズムを認識していて、宗教に救いを求めたというのが趣旨のようだ。
マルクスはエゴイズムの弊害を社会的なものとみたと私は思う。生産手段の私的所有というシステムがエゴイズムを生むのであり、システムさえ適切であればエゴイズムの問題は解決すると主張した。それに対して著者はエゴイズムがシステムと呼応することは認めるが(例えばロシアのツアーリズム)、システムの改革だけではエゴイズムをなくすことはできないと批判する。エゴイズムは根源的に個人に内在していて、悪の原因として作用する。
彼(『悪霊』のスタヴローギン――引用者注)は、自分を「悪魔の実験」の犠牲にして、悪の根源は自己の内にあり、なおかつ、自己だけでは悪の堕落は支えきれないという「悪の万有引力」のごときものの存在を証明した。僕たちは、知力や環境に恵まれたニュートンのように万有引力の法則は発見できなくとも、常にそれに支配されているように、スタヴローギンのような悪は行いえなくとも、その行住坐臥のすべてに「悪の万有引力」の支配を受けている。(324-5ページ)
だから、マルクスとの対決は、第一にエゴイズムとシステムとの関係において、第二にエゴイズム問題の解決への個人的アプローチとシステム的アプローチの比較においてなされるべきであった。そうすれば、マルクスとドストエフスキーの対比はかみ合っていただろう。しかし著者はマルクス個人のエゴイズムが欠陥のあるシステムを作り出したという形でエゴイズムとシステムを結びつけてしまっているのだ。自らのエゴイズムの発揮のためにシステムを作るのなら、そのシステム設計者のエゴイズムは非難されるべきであろう。しかし、人々のためと思って作ろうとしたシステムが人々を苦しめることになったとしても、責められるべきはシステム設計者の能力であって彼のエゴイズムではない。
また、著者はインターナショナルにおけるマルクスの非民主的な覇権争いをソ連社会の原型とみなしている。マルクスが民主的な運営を尊重しなかったのが事実であっても、組織と社会システムを同一視するのは短絡的すぎるだろう(ここでの組織とシステムの区別は厳密ではないが)。組織においては民主的であることが効率的であることを意味しないことは企業をみれば分かることだ。企業は市場システムの単位であるが、その内部ではリーダーシップが重要になり、民主的な手続きはほとんど無視される。政府や政党もまたそのような組織としての特性を持っている。組織としての政府とシステムとしての市場、あるいは組織としての政党とシステムとしての民主主義の関係が問題とされなければならないのであって、その関係を無視した議論は混乱するだけである。
なぜこんな奇妙な論理展開がなされたのであろうか。それはエゴイズムという概念の野放図な使い方のせいだ。著者によれば(173-5ページ)、通常のエゴイズム(利己心)は集団の中での自己保存の必要により「自ずと妥協があり、節度があり、鷹揚がある」。しかし「利己心が異常に肥大したり、奇形化したりして、自己保存の圏外に飛び出すことがある」。「このような病的な利己心」には次の四つの類型がある。①自己破壊の利己心。②暴虐の利己心。③貪欲の利己心。④自己目的化した利己心。特に①と②によって、自己の安全や利益を無視したような一見非利己的な行動であっても利己的とみなしうるのである。
それにしても、第四の「自己目的の悪魔」ないし「優越の悪魔」は、一見したところちっとも悪魔らしくないのが、いかにも悪魔的である。この最も知能指数の高い悪魔は、悪行ではなく善行を施すことによって、苦痛ではなく至福を約束することによって、人間を支配し、隷属させようとする。悪魔は、その悪魔性が高まるにつれ、善の独占者たる神に限りなく接近していくのだ。(176ページ)
さて、私が災難にあった人に援助をしたとしよう。私はその善行によって「他人より優越して」いると「自尊心を満足させる」。さらには被援助者を「自己の勢力圏下に置くこと」になるかもしれない。私は利己主義者であろうか。それほど「悪魔的」ではなくとも、その善行に純粋に喜びを感じていただけでも、やはり利己主義者であろうか。
確かに利他主義者の行動は結果として必ずしも利他的な結果をもたらさず、かえって被援助者をより一層不幸にしてしまうことがある。しかし、それは援助の仕方が悪いのであって、動機そのものはそのような結果を目指していたわけではない。
では、善行の動機はどうあるべきか。愛のようであるべきか。しかし、愛は対象を選ぶ。しかも理性的ではない。愛は自然であり、努力とは関係ない。むしろ努力は愛することをやめようとするときに必要になるのだ。さらに愛は愛する(側の)人を喜ばしくさせ、また、愛が報われないときに苦しめる。これが善行の動機としてふさわしいだろうか。
では、思いやりや配慮という穏やかな、「妥協」と「節度」と「鷹揚」がある形がふさわしいのだろうか。電車に轢かれそうになった人を助けるために線路に飛び込む人は「悪魔的」であるから非難されるべきなのだろうか。
私たちの行動の動機は、衝動にしろ、欲望にしろ、欲求にしろ、理性的判断にしろ、私たちにある種の報酬を期待させる。快というのでは狭すぎるが、便宜的にそう呼んでもよい。利他的行動も例外ではない。利他的行動は行動自体が快なのだ。そういう意味で、利他心は愛に似ている。そういうものである行動をエゴイズムとみなすなら、人間の行動は全てエゴイズムとみなせる。しかし、それではエゴイズム本来の意味を失ってしまうだろう。人間が自分のことを第一に配慮する(つまり自己の動機に従う)のは当然のことであり、そこから利他行為も導き出せるのなら、それをエゴイズムと呼ぶのは適当ではない。エゴイズムとは、少なくとも意図として、他人への悪影響を気にすることなく行動することだ。結果として他人に悪影響をあたえてしまっても、それを意図したのでなければ、結果の責任は負わねばならぬとしても、エゴイズムとして断罪されるべきではない。
ただし、他人への悪影響というのは必ずしも明確ではない。成功は他人に嫉妬や羨望を呼び起こすからエゴイズムだろうか。好きでもない人の求愛を拒否してその人を傷つけるのはエゴイズムだろうか。人間は存在するだけで他人に悪影響を及ぼしている(他人の機会を妨げている)ともいえる。どこまでが責任とみなされるかは常識的な判断によるしかない。
著者はひたすらマルクスにエゴイズムを見出そうとするが、行動の動機をエゴイズムと同一視してしまえば、マルクスの行動は全てエゴイズムとみなせるのは当然なのである。そのくせ、バクーニンやドストエフスキーについてはそういう見方をしていない。マルクス憎しという党派的な態度でしかない。著者が描く攻撃的なマルクス像は、マルクスを批判する著者自身の肖像のようだ。マルクスにエゴイズムを見出すならば、自分自身にも同じものがあることになぜ気づかないのだろうか。
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ところで、この本の中に『地下室の手記』から引用された下記のような面白い部分がある。
いつの日か、僕らの恣欲や気まぐれやらの方程式が本当に発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのようにして拡大するか、といったようなことが分かってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、おそらく即座に欲求することをやめてしまうだろう。人間はオルゴールのピンみたいなものになってしまうだろう。(414ページ)
反科学、反管理の叫びとして「かなり明確にオーウェルの『一九八四年』を予見している」と著者は共感する。著者の文明観はいささか古臭い定型的な悲観論である(著者のために弁解すれば、この著作が書かれてから大分時間がたっている)。しかし、ドストエフスキーが懸念した事態は既に起こっている、しかも冷静ではあるが冷酷ではなく、むしろ明るく希望の持てる形で。『善意で貧困はなくせるのか』(D・カーラン&J・アベル、清川幸美訳、みすず書房、2013年)という本は、人の行動を変えるためのシステムを設計することの重要さを訴えているのだが、そこで使われているのが行動経済学である。行動経済学はまさに「恣欲や気まぐれやらの方程式」を見出そうとするものだ。
現状に何か変化を起こそうとするとき、いろいろな方策が思いつかれる。そして、何らかの資源を投入すれば変化は起こるはずだという確信のもとに実行される。多くの場合、変化が起こったのかどうか、それが目指したものかどうかは確認できていない。また、目指していた変化があったとしても、投入した資源に見合っていたのか、その資源を他の方策に投入した場合と比較した場合はどうなのか、といった厳密な評価はなされていない。例えば、何らかの事故があった場合に出てくる防止策というのはみな同じようなものだけれども、それがどの程度効果があったかについては誰も興味を持たない。『飛行機が落ちる』でも取り上げたように、事故直後に発表される防止策というのは、非難を避けるための単なる対外的なジェスチャーに過ぎないことが多い。
効果を測定出来ないのは、条件を変えて繰り返し起こすことが難しいからだ。たまたま思ったような効果が得られたとしても、それが当初の方策によって起こされたどうかは一度限りの結果だけでは判断のしようがない。しかし、何らかの工夫によって、評価を可能にする努力は必要だろう。その一つがランダム化比較実験(RCT)であり、『善意で貧困はなくせるのか』の中心テーマである。
経済学の想定する人間は合理的な行動をする。しかし、人々は実際には経済学の期待するような行動をしない場合が多い。人々は非合理的なのだろうか。そうとも言えるし、そうでないとも言える。純粋な市場経済の場では人々のそのような行動は非合理的とみなされるが、別の状況では合理的であるという解釈が可能である。その状況とは、市場経済が十分に発達していない地域、また、もはやほとんど存在していないがはるか昔(歴史以前)には当たり前であったと推測される環境である。そのような行動を合理的な(市場経済に適合する)行動に変える方策を探るうえでRCTは強力な道具となる。
社会を変化させるには地味で小さな試みに見える。そして、人々にインセンティブを与えるというのは卑小な手段のように思える。しかし、重要なのは実効性であり、それを評価することなのだ。善意はそれだけで有効性を保証されるものではない。しかし、善意がないところではそもそも他人のことを考慮することなど起こり得ないであろう。
マルクスは人間世界をよくするためには個人に道徳を実践させようとすることでは効果がないと考えた。そのような道徳要請は支配階級のイデオロギーであり、実は現状維持を図るものにすぎないから。マルクスは社会改革というイデオロギーによって個人の行動を変えることを試みた。これは二段階の行動変容を目指す。最初は既存の体制を変えるという行動、次に新しい体制のもとでの行動。前者の行動変容に関してはマルクス主義は大成功を収めた。しかし、後者の行動変容については大失敗した。その教訓は明らかだ。社会をよくしようという善意は案外たやすく動員できる。しかし、その善意を実現するのは簡単なことではない。地獄への道は善意で敷き詰められている、と言って警告する人も多い。しかし、善意が目指しているものが明確なら、いたずらに悲観しているのではなく、それを実現するためにはどうしたらいいかを科学的に追求するべきだろう。