資本主義と国家
『静かなる大恐慌』(柴山桂太、集英社、2012年)という本を読んだ。この本の内容全てに賛成できるというのではない。疑問はある。しかし、資本主義という(自生的)現象に、国家という(意図的)組織がどう対応していくかという歴史的観点の重要性は納得できた。そういう見方はそれまでの私にはうさん臭く思えたのである。
この本には忠実ではないかもしれないが、私なりの理解を述べてみよう。
①グローバリズムというのは今回だけの現象ではない(グローバリズムとは商品と資本と人の移動を可能な限り自由にするという傾向と定義しよう)。少なくとももう一つのグローバリズムが19世紀の後半から第二次大戦前に存在していて、それがもたらした混乱の反省から戦後の管理的な(自由制限的な)体制が構築されたのである。
②20世紀前半は、自由主義的な資本主義に対する反発が、社会主義や全体主義を対抗させ、体制側もそれに呼応して様々な規制を取り入れて自由放任主義を放棄したが、後半になって流れが逆転し、自由主義が主導的な地位を取り戻した。大まかにはそう言えるだろうが、このような歴史的経過の理解には、二度のグローバリズムという背景を考慮に入れねばならない。
③資本主義と市場経済は同じではなく、市場経済はいわば静止した体系であるのに対し、資本主義の本質は拡大にあり、したがってバブルを常に含んでいる。
④国家は統一性を維持するために国民の要望に応えて、拡大する資本主義の動揺(バブルとその崩壊)を緩和し、また拡大に伴う問題(格差など)を是正しなければならないため、資本主義とは別の原理によって運営される。
⑤グローバリズムのもとでは、一国の経済に対する世界経済の影響は極めて大きくなる。
⑥ケインズ体系が閉鎖的と指摘されるのは、政府の経済政策を有効にするためには、国民経済に閉鎖性を持たせる必要があるというケインズの反グローバリズム的な意図があったからである。
⑦一国のマクロ経済政策や福祉政策を有効にするためには、グローバリズムからの離脱が必要である。
⑧前回のグローバリズムのように、今回のグローバリズムも反対の傾向にぶつかって退潮していくであろう。
概ね以上のような論理展開になっていると思われる。著者は再分配政策などを国家の役割として重視しているので、コミュニタリアンとリバータリアンの対決という文脈では前者に属するのだろう。もし、著者の言うように、国家の運営をおびやかすグローバリズムを排除しなければならないのであれば、グローバリズムに密接に関連している自由主義もまたそうしなければならないであろうか。グローバリズムの果てには国家を棄てるということも考えられるが、私たちの現実としては不可能に近い。しかし、だからと言って、国家の存続のために自由を制限することを容認することには抵抗がある。そもそも、政治的自由とは国家からの干渉を減らすことであったはずだ。経済的自由は国家からの干渉を防ぐ手段でもあるのだ。経済のグローバル化が国家の力を制限する一方で国家の役割要請を過大にするという矛盾した状況、そういう新しい要素がこの対決に加わってきている。
ところで、ユーロ圏は共通通貨という点ではグローバル化の完成形であろう。グローバリズムの論理から言えば、ギリシャなどのEU内の破綻国家は生産性の低さに応じた生活水準を受け入れるべきであって、国家が財政赤字(国債の発行)によって国民の生活水準の維持を図ることはできない。独自の通貨があれば生活水準の下落は為替変動によって自動的になされる。そしてインフレにより債務の清算をなしうる。日本は独自の通貨を持っているのだが、円高のために為替変動による調整ができないでいた。いわば、ユーロ圏内のギリシャなどと、グローバリズムの中の日本が相似形をなしているようなものだ。日本がギリシャなどと違っているのは、国際収支が赤字ではないのと国債が暴落していない点である。しかし、膨大な財政赤字と国際収支が悪化している現状では、いつ国債が暴落してもおかしくない。
グローバリズムの中の日本のデフレという現状をどうすべきかについては、例えば次のような政策提言がなされてきた。
①円高が全ての元凶であるから、円安にするような政策をとるべきである。
②デフレ脱却のために適度なインフレにするような政策をとるべきである。
③日本の現状は高齢社会としての潜在成長率の低下の現れであるから、それを大前提とした政策をとるべきである。
政府が外国為替や物価をどの程度操作できるのかについては論争がある。もしそれが可能だとしても、長期金利の上昇や国債の暴落を招かずに行えるかどうかについても論争がある。外国為替や物価を操作し得たとしても、それが生産や消費の拡大に結び付くのかについても論争がある。つまり、確実に言えることは何もない。現政権が、直近の選挙の勝利という短期的な目標のために、財政・金融政策をインフレ誘導型にするのは、政党として当然のことかもしれない。為政者が長期的視点を持とうとしても、将来について確実なことがほとんど分からないのであるから。
少なくとも言えることは、市場主義者は資本主義に追いついていないようだ。ミクロとマクロの違いは市場と資本主義の違いとも言えるのではないか。ケインズが目指したのはマクロ経済学ではなく、資本主義の経済学だったのではないか。そして、ケインズが理解したのは、国家が資本主義を手なずけることができるのは、グローバリズムから切り離したときだけだということではないか。グローバリズムと結びついた資本主義には国家はかなわない。
歴史は繰り返すのか、繰り返すとしたら二度目は喜劇なのか。グローバリズムが破綻するのか、その前に国家が破綻してしまうのか。それとも危機は避けられるのか。
それは誰にも分からないのだろう。