カネに恨みは
『史上最大のボロ儲け』(グレゴリー・ザッカーマン、2009年、山田美明訳、阪急コミュニケーションズ、2010年)という本を読むと、改めてアメリカという国の金銭志向に恐れ入る。カネを儲けることと派手に使うことがストレートに社会的地位の証明になり、後ろめたさややましさなどはかけらもない(ただし、手段の正当性は問われるが)。むろん、金持ちは寄付などの社会的貢献が期待されるが、それは贖罪的な意識とは別の次元なのだろう。だとすれば、カネを儲ける手段がいろいろ工夫されるのは当然なのだ。それが経済全体を破綻させることになるかどうかなど、誰が気にするだろう。そして破綻は起こった。
日本ではまだそこまでにはなっていないし、いずれそうなるとも予測できない。富者に対する嫉妬や羨望はアメリカにも日本にもある。ただ、日本の場合は、富者をストレートに評価することへの抵抗があり、それがそういう感情への緩衝になって、貧者の自尊心を支えてくれる。金持ちが幸せとは限らないとか、冷酷無情でなければ金持ちにはなれないといった幻想がぎりぎり有効であり、つまり、金持ちを酸っぱいブドウとみなすことが何とか可能なわけだ。
同じようなテーマを扱った本として、マイケル・ルイスの『世紀の空売り』(2010年、東江一紀訳、文藝春秋、2010年)がある。両書とも、サブプライム・ローンによる金融破綻の際に、少数の人が逆張りをすることでカネを儲けたことを取り上げている。『史上最大のボロ儲け』はヘッジファンドを運営するジョン・ポールソン、『世紀の空売り』は同じくスティーブ・アイズマンを中心に描いているが、当然、両書に共通して出てくる人物がいる。元医師の投資家マイケル・バリーとドイツ銀行ニューヨーク支店のトレーダー、グレッグ・リップマン。バリーは早くからサブプライム・ローン市場の崩壊を予測し、それを空売り(ショート)するための方法を探し出して賭けたのだが、その性格が災いしてか、ポールソンなどと違ってその行動を評価されなかった。リップマンはサブプライム・ローンをショートする手段としてのCDSを売りさばくという(一方でサブプライム・ローンから組成したCDOを扱っている)ドイツ銀行の奇妙な役割の中心を担った。二人とも興味深い人物で、このテーマには欠かせないようだ。
ところで、CDSやCDOとかいうややこしい証券についてはメディアや書物などで説明されたのだが、もう一つ分からない。CDO(債務担保証券)はマイケル・ミルケン率いるドレクセル・バーナムが作り出したようだが、それをサブプライム・ローンに応用したのはゴールドマン・サックスらしい。ABS(資産担保証券)は小口ローンをプールして証券化したもので、異なるリスクとリターンの組み合わせからなる階層(トランシュ)に切り分けて販売する。サブプライム・ローンからなるABSのトランシェのうち、メザニン(中二階)と呼ばれるトリプルBの格付けの部分を取り出し、他の多くのABSのメザニンと混ぜ合わせて、CDOを作る。混ぜ合わせた(リスクを分散した)ことによりこのCDOの一部はトリブルAの格付けに化ける。
ジリアン・テッドの『愚者の黄金』(2009年、平尾光司監訳・土方奈美訳、日本経済出版社、2009年)によれば、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)は1997年頃J・P・モルガンの社員によって作り出された。債権のデフォルトに対する保険のようなものである。当初はデフォルトの確率が極端に低いと思われる企業について個別の取引をした(そのような企業の債券を対象としたCDSの販売者はほとんどノーリスクで保険料が得られる)。このCDSにもっと市場性を持たせようとしてCDOの手法を取り入れたのがBISTRO、後にシンセティック(合成)CDOといわれるようになる証券である。多くのCDSをバンドルにして(まとめて)から、リスクとリターンの異なる複数のトランシェ(階層)に切り分け、好みの異なる様々な買い手に提供する。
J・P・モルガンは、住宅ローンにCDSや合成CDOを適用することは躊躇した。企業とは異なって、住宅ローンのデフォルト・リスクの予測が立てられなかったからだ。しかし他の金融機関はそんなことを気にはしなかった。売るためのCDOの数が足りなかったために、サブプライム・ローンのCDSで合成CDOを作ったのである。CDOを作るためにはABSが必要であり、ABSを作るためには住宅ローンが必要であるが、新規の住宅ローン契約が需要におっつかない。だが、合成CDOにはその必要はなかった。既存のCDOに対するCDSを使えば、新たなCDO(合成CDO)が作れるのだ。
しかし、このような証券化商品は、単純であろうと複雑であろうと、売ってしまえば金融機関にとって何のリスクも残さない。もしデフォルトが起こっても、損をするのは証券を買った投資家である。それなのに、なぜ金融危機が起こってしまったのだろうか。『愚者の黄金』によれば、その主たる要因はスーパーシニア・リスクにあった。CDOを作った際に、スーパーシニアと呼ばれるトランシェは、他のトランシェよりリスクが低い(と思われていた)ので低いリターンとなり、売れなかったのである。売れ残った大量のスーパーシニアを金融機関ないしその子会社が抱え込み、価格の暴落に巻き込まれてしまった。いわば、スーパーシニアはCDO生産に伴う有害な副産物であり、原子力発電で発生する使用済み核燃料を思わせる。
実際、これらの本を読んでいて、福島第一原発事故を想起させられた人が多いのではないか。安全だと言われていた原発に脆弱な部分がいくつもあった。しかも、停止すればそれでいいと私を含めて多くの人が思い込んでいた原子炉は、長期間冷却を続ける必要があった。さらに、使用済み燃料のプールが原子炉の傍にあり、これも冷却し続ける必要があったのだ。一般の人の知らない仕組みがリスクを潜めていたのである。
ところで、リーマン・ショック後の米国民の反応の一つとして、『肩をすくめるアトラス』を読むことが推奨されているという報道にねじれを感じたことは別のところに書いた(「アイン・ランドと経済危機」参照)が、しかし、上記の本に描かれている金融企業のでたらめぶりと、しかも彼らが当然の報いを受けたというわけではないことを知れば、そのような反応は当然のように思える。ルイスは次のように述べている。「世界でも屈指の力を持ち、屈指の高い給料を得ていた金融業者たちの評判はすっかり地に落ち、政府の介入がなければ、その全員が、例外なく職を失っていただろう。なのに、当の金融業者たちは、政府を利用して私腹を肥やしていた」(『世紀の空売り』)。
また、私は金融の効率化について、『セイビング・キャピタリズム』の主張する立場を認めるということも書いた(「拝啓ホリエモン殿」参照)。しかし、マイケル・ミルケンについて書かれた『ウォール街の乗取り屋』(コニー・ブルック、1988年、三原淳雄・土屋安衛訳、東洋経済新報社、1989年)や『ウォール街 悪の巣窟』(ジェームス・スティアート、1991年、小木曽昭元訳、ダイアモンド社、1992年)などを合わせ読むと、ミスプライシングにつけいって儲ける者の存在が金融を効率化させるというよりは、ミスプライシングを作ることによって儲けることこそがアメリカ金融業界の主流なのではないかと疑ってしまう。
だが、金融とは、株にしろ債券にしろ、広い意味での借金に他ならないのだろう。そして、借金というのは資本主義に特有なものではなく、歴史の黎明期から存在するものであり、むしろ、人間の資本主義的側面として普遍的なものらしい。金貸し、高利貸しという言葉には否定的なイメージがつきまとい、商人とともに金融業者は胡散臭い目で見られてきた。しかし、彼らが経済や社会を発展させる原動力となったのも事実だ。借金をするということを嫌う性向というのは私にもあるのだが、資金の流れが生活を豊かにするということは認めねばならないだろう。そしてそこには富を生む機会が必然的に生じ、人を出し抜いたり欺いたりする手法も生み出される。
金融というのは、科学と同じように、人類の手に余る道具なのかもしれない。