井本喬作品集

選択の重荷

 ミルトン・フリードマン『選択の自由』(1980年、西山千明訳、日本経済新聞社、1980年)をやっと読んだ。彼の言いたいことは分かっているし、彼の言い分の妥当性も分かっている。彼の他の著作や彼と同じような主張をする他の論者の著作も読んでいるから、今さらわざわざ読むことはないとは思う。ただし、読むことに抵抗があった一番の理由は、それが古傷に触れることになるからだ。その傷はまだ完全に癒えていなくて、触れられると痛むのだ。

 かつて、資本主義や自由市場に対して懐疑的であった。それは今でも変わらない。変わったのは、他に代替的なシステムを見出し難くなったことだ。可能なものの中で最善であるという理由で受け入れざるを得ない。そして、そのことに気づくのに時間がかかった自分の愚かさが情けない。

 リーマンショック以降の世界的不況が起こらなければ、いまだにこの本を読む気が起こらなかったかもしれない。問題はまだ解決していないという認識が、息継ぎをさせてくれたみたいに、あるいは重しをいささか取り除いてくれたように、この本を読むという苦行を耐えやすくしたのだ。

 読んでみて意外だったのは、彼が規制や補助に反対するのは、単に自由を制限しているというからではなく、それらが目指している(と称する)目的を達成するのに成功していないからでもあるという点だ。弱者や貧者を救済するためであるとしながら、実際は中間層が利益を得ていることが多いと指摘しているのだ。これは相手の矛盾を指摘する戦法であって、彼自身は弱者や貧者に同情的であるのではないかもしれないのだが、少なくとも公平についての配慮は重視されている。

 彼は正しい。ただし、やはり強い者として正しい。読了してそう思った。というのは、選択を好むのは強い者だけだからだ。

 自由な選択にはコストがかかる。まず情報を集めなければならない。次にその情報を評価しなければならない。それにより決断をして、結果がよければともかく、悪ければその責任を負わなければならない(後悔することになる)。そういうことができるのは強い(賢いという意味も含めて)者だけだ。

 情報の集め方も評価の仕方も分からない上に、いままでしたことのない決断を迫られるというのはつらい。勉強し努力し経験しろと言われるだろう。そうしなければ生きていけないのなら、そうしなければならないが、そうやってもあまり効果は期待できないだろう。コストの方が大きすぎることは予想できる。そのようなコストを回避する一つの方法は、よく知っている(信頼できるであろう)相手に選択をまかせることだ。例えば、ブランドを頼りに買い物をする。助言者に従って投資する。政府に政策をまかせる。

 そもそも自分が具体的に何を望んでいるかさえよく分からないことが多いのではないか。レストランで注文のときに「何がいい」と問われて「何でも」という返答が一番楽である(言われる方は一番厄介である)。選ぶ必要のないときにさえ選択を強いられるというのもコストの一つだろう。慣習というのは、ほぼ似たような状況において、細かな選択の余地を無視し、同じ行動を繰り返すことで選択のコストを省くことである。

 ただし、私たちはあきる。同じことの繰り返しにうんざりする。だから、ひとたび新しいものに出会えば、さらに新しいものを求める。資本主義は慣習を破壊する制度だ。選択を選択した以上、そこから逃れることはできないだろう。だとしたら、問題はどこまで選択の幅を広げるかだ。その基準の一つが、他人に害を及ぼさないというものだ。私たちは他人に迷惑をかけないように出来るだけ努力すべきなのは当然だ。逆に、自分に影響が及ばない限り、他人が何をしようと自由だろう。しかし、事態はそんなに簡単だろうか。

 例えば、フリードマンはこう言っている。「しかしわれわれが自らの生命に関してどんな危険を冒すかは、われわれ自身の選択の自由に任せるべきだ」(361ページ)。書かれている部分の文脈とはいくぶんかずれるかもしれないが、より広い意味において受け取るとすれば、例えば次のような懸念がある。酔っ払い運転者やスピード狂(むろん彼等は自分の技量に自信があって事故など起こさないと思い込んでいる)が、彼ら「自身の選択」の結果私を引き殺すことになるかもしれないことを、自分自身の自由でもあることの代償として容認すべきだろうか。

 あるいは、貧窮した他人について、好き勝手なことをした結果なのだからと、彼らがいかに苦しもうと無視するべきだろうか。

 予測できない事態の対応は個人ではできないかもしれないが、だからといって公共の援助が必ずしも必要とされるのではない。市場的な対応方法として保険が考えられる(逆選択などの問題はあるが)。日本では社会保険の対象となっている医療や年金についても、自動車保険や火災保険のように、民間保険でカバーしうるかもしれない。医療については傷病、年金については長生きに対する保険である。保険であるから、確率と保険額に応じた保険料の支払いが必要だ。ただし、民間保険は強制ではないので、保険に入らなかった人への公的援助は禁止しなければならないだろう。そうしなければ、誰も保険に入ろうとはしない。

 それでも、自分の能力の評価ミスや無責任さや保険料負担能力不足などから、無保険者は残るだろう。そのため社会保険は強制加入とされている。保険としては、結果として、医療においては傷病にかからなかった人から傷病にかかった人へ、年金においてはより早く死んだ人からより長生きした人へ、所得の移転が起こる。しかし社会保険の保険料には確率がほとんど考慮されていないから、医療においては健康な人、健康に配慮する人から病弱な人、健康に無関心な人への、年金においてはその逆の所得の再分配が起きることになる。保険料が所得に連動していれば、真正の所得再分配がなされることになる。

 公的年金については、世代間の所得移転という問題の他に、強制貯蓄という性格も考慮される必要がある。保険という性質からは、予測される自分の寿命までの生計費は準備する必要があり、予測を超える長命に関して保険でカバーすることになる。保険に入らない人と同様、生計費の準備のない人を公的に援助するべきではない。しかし、公的年金はリタイア後の生活保障という性格を持たされているので、貯蓄の取り崩し的給付になってしまうのである。そのために保険料には強制貯蓄が含まれることになる。そこまでの個人への公的な干渉が望ましいことなのか。

 むろん、公的制度から民間保険への移行においては、ただ乗りを排除するために非情であらねばならない。そもそも市場に任せるのは、公的制度における自己責任の欠如(モラル・ハザード)を排除するのが目的の一つである。しかし、全ての人を自己責任だけのまま放置してしまうこともどうなのか。

 オレオレ詐欺や振り込め詐欺の被害者について、かつて私は同情的ではなかった。多くの場合、身内の失敗や犯罪をカネで解決しようという、つまりそれができると信じているあさはかな根性につけいられた自業自得の災難に思えたからである。あるいは儲け話に乗ろうとした貪欲さの報い。むしろそういう人々の根性はこのような詐欺によって淘汰されればいいとさえ考えていた。しかし、このような詐欺に対する啓発キャンペーンが大々的に行われているにもかかわらず(手口が巧妙化するということがあるにしても)、相変わらず多くの人がひっかかるのを知らされて、考えを変えた。彼らは保護されるに価する弱い人々なのだ、と。

 同じようなことは過去のサラ金の被害者にも言えるだろう。最近では、偽装質屋が問題になっているらしい。質屋は貸金業より法的に利率を高く設定できるので、価値のない質草でカネを貸す。もちろん、質流れになっては儲けにならないので、年金支給の際に元利を振り込ませ、また新たにカネを貸すということを繰り返す。こういうことをされて文句を言わないばかりか、有り難がっている高齢者がいる。困窮者にカネを貸す人間は必要なのかもしれない。貸し倒れ率が高いから高利であるのはやむを得ない。むしろ、返却の目途もなしにカネを借りる方が悪いのだろう。年金収入があるのなら、計画的に返済はできるはずだ。一時に全額は無理でも、借りる金額を徐々に減らしていけばいい。そう考えると、やみくもにカネを借りる人々がじれったい。だが、彼らも保護に価する弱い人々なのだ。

 人が決断することは、その人の責任において自由になされるべきであるという世界は、抜け目のない人たちが生き残る世界である。そういう世界は、抜け目のない人たちでさえ望ましくはないだろう。抜け目のない人どうし競争するよりも、抜けた人を利用する方がいいに決まっているのだから。

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