貧富の差
『ゴリオ爺さん』(小西茂也訳)を読んだ。それまでバルザックの作品は『谷間の百合』(同)を読んだきり、それも内容の記憶はない。その他の作品については「人間喜劇」の膨大さにうんざりさせられて当たってみる気にもなれなかった。それが、今になって『ゴリオ爺さん』を読んだのは、『21世紀の資本』(トマ・ピケティ、2013年、山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず書房、2014年)に触発されたからである。『21世紀の資本』はオースティンの小説についても言及している。『高慢と偏見』(阿部知二訳)は面白くて何回か読んだ。
『高慢と偏見』は恋愛小説だと思っていたが、むしろ結婚小説と言った方がいいのかもしれない。この作品に登場する女性たちは、自分自身に財産がない場合、結婚しないと生きていけないので(自活という選択肢はなかった)、結婚の機会に関心が集中するのは当然のことなのだ。財産は一部の人間のみが保有し、相続によって継承される。(主人公エリザベスたち姉妹の父の)「ベネット氏の資産は、ほとんど全部が、年収二千ポンドの土地だった。それが、娘たちには気の毒なことに、男子相続人がいないので、ある遠縁の人に限嗣相続させることにきまっていた」。エリザベスたちは財産のある男を捕まえなければならず、当然ながら母親はそのことに必死である。「ある遠縁の人」であるコリンズが現れてエリザベスに求婚するが、彼女は気に入らず拒絶する。ところが、隣家のルーカス家の娘シャーロット(エリザベスの友人)は、その機会を逃さずにコリンズに近づき、結婚を申し込ませることに成功する。以前に読んだときにはシャーロットに同情的にはなれなかった。資産家と結婚することになるエリザベスやジェイン(エリザベスの姉)に比べて、いかにもケチくさく思われたからだ。しかし、歳をとれば分かるようになることかも知れないが、可能性の低い夢物語に賭けるよりも、堅実であることは評価されるべきだろう。シャーロットは次のように自覚している。「高い教育を受けた財産の少ない若い女性には、結婚は唯一の光栄ある対策であり、幸福をあたえることがどんなに不確実でも、貧窮からのもっとも気楽な防衛の道である。この防衛の道を、自分はやっといま手に入れたのだ。しかも二十七歳にもなり、きれいであったこともなかった自分には、身に余るほどの幸運だった」。
財産がないということは、働かなければ食えないということである。これはいつの時代でも当てはまることなのだが、しかし、財産と呼べるようなものは所有したことがない階層の人間であるのに、(20世紀後半に成人となった)私たちにとってはその痛切さは無縁のように感じる。『ゴリオ爺さん』や『高慢と偏見』で描かれた世界は、私たちにとって奇怪に思われる。私たちが怯えるのは働けないことであり、財産がないことではない。財産はないものだと割り切っている。つまり、私たちは資産階級というものになじみがなく、そこに属する人間の考えや行動に共感を持ちにくいのだ。
改めて考えてみると、資産とは無縁の大多数の人間にとって、生きることの危うさから免れる手段というのは、(可能であれば)借金が唯一のものであろう。つい最近まで飢餓は現実的な脅威であったのであり、将来――福祉国家が歴史的なエピソードにすぎないとみなされるかもしれない将来においてもどうなるか分からない。私たちが資産のなさを痛切に感じることがないのは、資産がなくても何とか生きていけると信じられるような社会にいるからなのだ。一つには社会保障制度が整備されたからであり、もう一つは中間層(中産階級)というものが発生したからである。
少数の金持ち(資産家)と大多数の貧乏人しかいない社会では、安定した生活を確保するための手段としては資産を持つこと以外にはなかった(例外としてわずかな数の専門職という選択肢があって、旧中間層を形成する)。懸命に働いたところでまともな賃金によっては資産は得られない。資産の正当な獲得は相続か結婚によるしかない。『ゴリオ爺さん』では、貧乏学生のウージェーヌ・ド・ラスティニヤックに対して、怪しげな男ヴォートランがこの手の話を持ちかける。同宿のヴィクトリーヌ・タイユフェルという娘は、資産家の父親に疎まれ、その資産は全て兄に相続されることになっていた。ヴォートランは、決闘に見立てて兄を殺してしまえば父親の資産がヴィクトリーヌに相続されることになるからと、彼女を誘惑するようにラスティニヤックに勧める。彼女の持参金百万フランの中から二十万フランをコミッションとして貰えれば、そういう段取りをしてあげるというのだ。ウージェーヌが確たる返事をせぬままに、ヴォートランは人を雇ってヴィクトリーヌの兄を殺し、彼女は父親に引き取られることになるのだが、ヴォートランが他の罪で捕まってしまうと、このエピソードはうやむやになって物語の展開から消えてしまう。
ただし、これらの小説に貴族と民衆しか出てこないわけではない。そもそもゴリオ爺さん自身が製麺業で財をなしたのである。また、ヴィクトリーヌの父は「銀行家でフレデリック・タイユフェル合資会社の代表社員」である。『高慢と偏見』には、「商業にしたがい、自分の倉庫の見えるところに住んでいる」叔父(エリザベスたちの母の弟)ガードナー氏が出てくる。資本主義が顔を出しているのだ。
しかし、資本主義が少数の金持ちと多数の貧乏人という構図を過去のものにしたわけではないようだ。『21世紀の資本』から引用してみよう。
戦争はすべてのカウンターをゼロ、あるいはゼロ近くにリセットし、必然的に富の若返りをもたらした。この意味で、20世紀にすべてを水に流し、資本主義を超克したという幻想を生み出したのは、まさに二度の世界大戦だった。(中略)しかし重要な事実は、このような状況が長くは続かなかったことだ。「復興資本主義」は本質的に移行過程であって、一部の人が考えたような構造転換ではなかった。(訳書412ページ)
つまり、所得格差の縮小と中間層の増大は二つの大戦という歴史的要因が作用した結果であり、何らかの原理的必然性があったわけではない。それゆえ、再び所得格差が拡大して、金持ちと貧乏人の二極分化が起こる可能性があり、その兆候が見られる、と著者は主張している。だとすれば、私たち(いまの高齢者)は幸運な時代を生きたことになるのだろう。