井本喬作品集

何を信頼するのか

 齊藤誠『経済学的私小説 <定常>の中の豊かさ』(日経BP社、2016年)を読んでみた。著者の本を最初に読んだのは『新しいマクロ経済学 クラシカルとケインジアンの邂逅』(有斐閣、1996年)である。著者の立場は新古典派に近いのだろうが、ケインジアンとの対立よりも、両者が理論的道具立てを共有するようになったことに注目し、対立が無意味になりつつあることを強調していたのが新鮮だった。著者は市場主義者であり、そういう意味ではいくぶんか原理主義的である。その著者が、最近の金融緩和政策や東日本大震災への対応について取っているスタンスが気になって、他の著書もいくつか読んだ。

 著者は、最近の金融緩和政策とその根拠となっている日本経済の現状認識については批判的である。そのことについても取り上げてみたいが、私の手に負えそうもないので、ここでは『震災復興の政治経済学』(日本評論社、2015年)についてのみ述べてみる。

 著者の立場は、「震災復興政策について、あまりにも広すぎる政策的な構えをし、原発危機対応について、あまりにも狭すぎる政策的な構えをしてしまった。その結果、前者については、政策の過剰が、後者については、政策の不徹底が、不幸にも生じてしまった」(プロローグ)というものである。一般受けしない、むしろ反発を招くような意見を臆せず述べる誠実さと勇気には感嘆する。震災と原発事故に関しては著者に使命感のようなものがあるようで、ある意味悲壮さを感じさせる。

 この本の記述の中で、私が一番驚かされたのは、福島第一原発の事故直後の事態が、決して「想定外」であったのではなく、事故対応マニュアルの範囲内で対応ができたという指摘であった。ごく簡略化して言えば、福島原発には非常時対応マニュアルとでもいうべき「事故時運転操作手順書」があり、それには、事象ベース、徴候ベース、過酷事故(シビアアクシデント)の三つのバージョンがある。津波直後の福島第一原発1~3号機の状態は、既に炉心損傷が始まったシビアアクシデントではなく、徴候ベースの手順書によって対応(主として減圧注水)しうるものだった。現に、福島第二原発では、そのような措置によって炉心損傷という過酷事故を免れた。もちろん、第一と第二では状況が異なっていた。「福島第二原発では、交流・直流電源をかろうじて確保できて、中央制御室の計器も正常に動いていた。まさに、それらの計器によって原発プラントの状態を監視しながら、徴候ベースや事象ベースの手順書の定める手順を実施できる環境が整っていたのである」(224ページ)。しかし、「電源を喪失した福島第一原発にあっても、ある程度の工夫をすれば、いくつかの計器によって原発プラントの状態を監視し、徴候ベースの手順書が定める手順を遵守できる余地が十分にあった」(224-5ページ)。

 にもかかわらず、福島第一原発の現場も、東電本社も、「これまで考えられてきたあらゆるシビアアクシデントを遥かに超える事態が発生した」(224ページ)と思い込んでしまい、事故時運転操作手順書の徴候ベースの手順を参照することなど誰もしようとしなかった。それが著者の主張である。

 (ここに、追記を挿入する。十年たって、福島第一原発事故の詳細が次第に明らかになってきている。地震による外部電源喪失に際し、稼働中の1~3号機の原子炉は停止したが、非常用冷却装置によって冷却は行われていた。非常用冷却装置が有効な時間は限られており、速やかな電源復旧の必要があった。しかし、津波の来襲により非常用電源が失われたため機器の操作と作動状態把握ができなくなり、それまでマニュアルに従って起動と停止の操作を繰り返していた1号機の非常用冷却装置(通称イソコン)が止まっていることが見逃されてしまった。その結果、1号機がメルトダウンして水素爆発が起き、電源復旧作業が妨げられ、2号機・3号機にメルトダウンの連鎖を引き起こした。1号機のイソコンが正常に作動していれば1~3号機のメルトダウンを防げた可能性は大きい。その点では著者の指摘の通りかもしれないが、福島第一原発の現場や東電本社が最初から判断を誤っていたというのは、情報が限られていた当時での憶測に過ぎないであろう。また、イソコンの作動状態把握の誤りは点検訓練の欠如の問題であり、原発運用のあり方を問うものではあるが、マニュアル活用の欠如によるものではないようである。それらのことを承知したうえで、以下の記述は変更しないでおく。)

 私達は「マニュアル人間になるな」と言ったりする。マニュアル通りの行動は融通がきかず、非効率的であるとみなしがちである。臨機応変こそが効果的な結果をもたらすと信じているのだ。しかし、臨機応変が有効なのはマニュアルを知悉した上のことである。マニュアルを理解せずに、思いつくまま行き当たりばったりにやってみたところで、どうにもならない。欠落や重複や見当違いはまだしも、ミスが重大な結果を招きかねない。私たちの知識(記憶)も能力も限られているのだから、その限界を考慮して作られたマニュアルに頼らねばならないのである。特に機械相手のときは。

 マニュアルは私たちの思う以上に懇切丁寧であり、あらゆる場面を想定している。もちろん、マニュアルは万能ではなく、それが想定していない事態は当然ある。しかし、マニュアルなど役に立たないと決めつける前に、もう一度よく読んでみるべきだ。とっさの場合には時間的余裕がないかもしれないが、普段から活用していれば手早く該当箇所を探せるはずである。

 マニュアルはルールであり、ある意味で法である。マニュアルを無視することは法を無視することだ。それでうまくやってきたとしても、通常とは異なる場合にその差異がどうなっているかを知らなければ、対処を誤る可能性が高い。

 著者は触れてはいないが、成文化されたマニュアルを無視するような傾向(慣習)が私たちあるのではないだろうか。もちろん、マニュアルが実情に合わせて変更されねばならないこともある。一方で、マニュアルは現状が安易な方向へ流れるのを阻止している。マニュアルと現実とをすり合わせるための不断の努力が必要なのである。

 成文化されたマニュアルがあるのは限られた分野のことである。しかし、それ以外の分野でも公的な合意としてマニュアルのようなものが必要とされるのかもしれない。

 市場原理主義に近いと思われる立場の著者は、意外にも、震災復興政策と原発危機対応における歪みの原因を、「公的な精神の欠如」に求めようとしている。もちろん、市場でさえ円滑に運営されるためには公的精神といったようなバックグラウンドないしはインフラが必要なのは言うまでもない。問題はそれがどの程度であるか、どの程度個々人に負担を求めるかということだ。

  さまざまな主体のそうした失意、思惑、底意に対峙し拮抗するのは、手許にあるデータや資料を最大限活用し、持てる知識を最大限動員して、直面する困難な状況に対する意思決定の客観性や合理性を維持しようとする知的な実践しかないのではないだろうか。そうした知的な実践こそが、さまざまな主体の利益や欲望を乗り越える重要な契機となるのではないか。私的な利害に抗する知的な実践こそが、非常時における公的な秩序を形成することに資するのではないだろうか。ここでは、そうした知的な実践を重んじる精神を公的な精神と呼んでみたい。(327ページ)

 もともと市場主義者は、市場参加者に過剰な知的能力を要求する。何が自分の利益になるかを、将来にわたって計算できなければならないのだ。幻想を抱いたり、騙されたりするような者は参加すべきではない。理想的な市場で人を騙せないのは、相手が騙されないからである。

 しかし、実際は騙される人もいるし、将来を見通せない人もいる。「知的な実践」のための能力が平等ではないために、それが「利益や欲望」によって利用され、また「利益や欲望」を利用しようとするのだ。

 また、「知的な実践」は一様でもなく、統一も取れていない。たとえ「公的な精神」を共有していても、意見の対立がある。そこに「利益や欲望」が絡んできて、誰の言うことを信じていいか分からない。

 つまり、誰の「知的な実践」を信頼するかが問題なのだ。著者の見解も一つの意見でしかない。著者を信じるには著者と同じような検証の過程を経なければならないだろうか。そんな能力は私にはない。私が著者を信じるのは、いくつかの著書によってうかがい知ることのできる著者の能力と人柄を信頼するからだ。

 要は人なのである。危機のときに適切な人が適切な場所にいれば、適切な対応が期待できる。問題は、そういうことが実現するのはごく稀であることだ。

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