中古車のために
アカロフの論文「レモン市場」は「情報の非対称性」の説明によく使われる。しかし、それについてのいろいろな解説文を読むたびに、違和感を持ってしまう。そのことについて述べてみる。
「レモン市場」は、車の売り手(車の所有者)が、その車に関して買い手よりも詳しい情報を持っていることが、中古車市場にどう影響を与えるかについて述べている。
私たちの理解を混乱させるのは、中古車市場には二種類の売り手と二種類の買い手がいることだ。車の持ち主(売り手)はディーラー(買い手)に車を売り、ディーラー(売り手)は客(買い手)に車を売る。私たちがイメージしがちなのは、ディーラー(売り手)と客(買い手)の関係だが、ディーラーが彼の扱う個々の車の状態について私たちより詳しく知ることができるかかは疑問である。アカロフは単純にディーラーを省略している。
考えられる一つのプロセスは以下のようであろう。中古車の売り手はその車に何らかの欠陥があるのを知っていてもそれを隠そうとする。何も知らない買い手は、その車を買ってしばらくしてからその欠陥に気づく。彼の反応はさまざまだろうが、彼ができる最善の策はその車を売ってしまうことだ。その車が欠陥車であることを知っているのは彼(と彼の前の所有者)だけである。そうすると、中古車市場は一種の「ババ抜きゲーム」となる。
アカロフのの説明をたどってみよう。アカロフは彼の扱う中古車市場に条件をつけている。まず、世の中には新車と中古車があり、それしかない。また、世の中には状態のよい車と悪い車(「レモン」と通称される)があり、それしかない。さらに、世の中には一定の割合のレモンが存在することを、売り手も買い手も承知している。
これには特殊な歴史的事情があるように思える。アカロフは、新車にもレモンがあるとして論を進めている。かつては(たぶん製造工程上の問題により)新車にも当たり外れがあり、個々にそれが分かるのは車をある程度使用した所有者だけ、ということがあったのではないか。
さて、大雑把な説明になるが、まず、車の買い手はその車がレモンであるかどうか分からずに購入する。しばらくして、購入者のうちのある割合の人は、購入した車がレモンであることを知る。彼らは車を乗り換えるためにその車を売ろうとするだろう。もちろん、レモンでない車の所有者も適当な価格であるなら車を売りに出す。
一方、中古車の買い手は買おうとする車がレモンである可能性(分布)を知っている。しかし、彼らはレモンとレモンでない車を区別することはできない。そこで、たとえば中古車市場においてレモンとレモンでない車が半々であるとすると、車の価格がレモン相当価格とレモンでない車相当価格の平均以下であるならば、買い手は車を買おうとする。
レモンの所有者はこの価格で車を売りに出すだろう。しかし、レモンでない車の所有者はこの価格では車を売ろうとしない。結果、中古車市場はレモンだけになる。当然そのことは予想されるので、誰も中古車を買わない。結局、中古車市場は成り立たない。
実際には中古車市場は成り立っている。アカロフ自身も記しているが、アカロフ論文の中古車の例示は問題を分かりやすくするために戯画化されたものだ。
私たちが中古車を買おうとするとき、気にする情報はどのようなものだろうか。車の性能はブランドごとに把握しうるだろう(現在では車の出来具合にムラはほぼないはずだ)。また、製造年、走行距離、破損や汚れの有無などの情報も利用できる(修理歴までは分からないかもしれない)。だが、むしろ私たちが注目するのは、車の形であり、色であり、そしてそのブランドの評判(他人の評価)であろう。色や形や評判といった買い手にも分かる情報に基づいて購入を決めるなら、そこに「情報の非対称性」が存在するだろうか。買い手が気にしない情報については売り手との情報格差を問題視してもしょうがないだろう。たとえば、売り手が担っているコストを買い手は知らないだろうが、その「情報の非対称性」が問題とされるだろうか。
「情報の非対称性」の説明の例としては、中古車はあまり適切とは思えない。アカロフ論文には、保険、マイノリティの雇用、不正直の費用、低開発国の信用市場が取り上げられている。保険の例が分かりやすいのではないか。
アカロフ論文が有名になりすぎたため、さまざまなレベルの知識があふれる中で、中古車は不名誉な扱いを受け続けている。