読解力とレモン
新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(2018年、東洋経済新報社)は啓発されることの多い本である。著者の分析には大いに感心させられた。
ただ、本論とは外れているので大したことではないのだが、気になった点がある。「情報の非対称性」の説明にアカロフの「レモン原理」を使っているが(明示的にはされていないが)、ピント外れに思えた。「レモン原理」は中古車の売り手と買い手の間の情報の非対称性を取り上げていて、売り手の方が当該車に関する詳しい情報を持っているという仮定があるのは、説明の通りである。しかし、この本の中の例のように、買い手が車の性能に無頓着で、色や形といった買い手にも分かる情報に基づいて購入を決めるなら、そこに「情報の非対称性」が存在するだろうか。買い手が気にしない情報については売り手との情報格差を問題視してもしょうがないだろう。たとえば、売り手が担っているコストを買い手は知らないだろうが、その「情報の非対称性」が問題とされるだろうか。
また、売り手が、買い手の無知に付け込んで、高い価格(車の状態を反映していない価格)で売りつけたがる、というような解釈も、「レモン原理」の説明としてはおかしいだろう。私が不思議に思うのは、「情報の非対称性」を説明するのに中古車市場を持ち出すとき、著名な経済学者を含む多くの人が、情報を持っている売り手の方が優位であるとみなしていることである。このことは、中古車の売り手をディーラーだと想定してしまうことも一因だと思われる。ディーラーならば、状態の異なる多くの車を所有しているので、どう売りさばくかをいろいろ考慮するだろう。しかし、ディーラーは中古車の買い手でもある。売り手としてのディーラーを情報強者とみなす一方で、買い手としてのディーラーを情報弱者とみなさなければならないというのは、おかしなことだ。
ウェブで検索してみると、「レモン原理」を「逆選択」と関連づけて、中古車市場には劣悪な車しか出回らないという解釈をしていることが多いようだ。そこでの仮定は、車には状態の悪い車とよい車の二種類しかなく、しかも、買い手にはその区別がつかないというものだ。しかし、そのような仮定を設定することは、買い手には中古車と新車の状態の区別さえつかないと仮定するのとさほど違いがないのではないか。だとすれば、自動車市場から新車は駆逐されて、中古車だけになってしまうと結論づけてもいいはずだ。
アカロフも中古車市場では状態の悪い車(レモン)が状態のよい車(ミント)を駆逐すると言っている。これには特殊な事情があるように思える。アカロフは、新車にもレモンとミントがあるとして論を進めている。かつては新車にも当たり外れがあり、それが分かるのは車をある程度実際に使用した所有者だけということがあったようだ。レモンの所有者は車をできるだけ早く売ってしまって、再び新車を買いたいと望むだろう。それゆえ、中古車市場ではレモンの比率が高くなり、そのことが買い手にも分かっているため、中古車の価格は低くなる。その結果、ミントの所有者は車を売らなくなってしまう、ということなのだ。
重要なのは、アカロフがさらに議論を進めて、車の状態の相異が連続的であった場合について述べていることだ。大雑把な説明になるが、アカロフによれば、買い手は買おうとする個々の中古車の状態を知ることができない(ただし、すべての中古車の状態の分布については知っている)ので、売られようとするすべての中古車(よい状態から悪い状態まで段階的に分布している)について平均的な価格付けをする。すると、平均的な状態よりも状態がよい車の所有者は、その価格では不満なので、車を売ろうとしない(中古車市場から撤退する)。平均よりよい状態の車がなくなってしまったので、平均的と考えられる価格は下がる。そうすると、以前の価格では市場に参加するつもりだったが、下がった価格では不満である車の所有者(新しい平均よりもよい状態の車の所有者)が、市場から撤退する。そうなると、買い手の提示価格が下がり‥‥このような過程が繰り返されて、結局、中古車市場は成り立たなくなる。これは、保険などの他の市場にも適用できるものだ。
「レモン原理」の説明がここまでなされることが少ないのはなぜかを検討してみることで、私たちの読解力の限界についてさらに理解が深まるかもしれない。