井本喬作品集

金融政策の複雑さ

 回顧録というものにはうさん臭さを感じていた。自己顕示が予想されるからだ。欧米人はよく書くようだ。翻訳出版された分厚い本をときに見かけるが、手に取ることもなく敬遠していた。しかし、白川方明の『中央銀行 セントラルバンカーの経験した39年』(東洋経済新報社、2018年)を読んで、考えが変わった。重要な地位にいた人間の証言は歴史的資料になるのだ。

 著者の控えめな人柄が、私には好ましく思えたことも影響しているかもしれない。記述に信頼が置けた。そして、バブルとその崩壊、リーマンショック、東日本大震災、非伝統的金融緩和など、激動とも言える時期の日銀における経験は、歴史的証言として一級である。

 退任から五年後、後任の黒田総裁のもとでの日銀によるインフレターゲット政策の成果がある程度評価できる時期であるのも、よい出版のタイミングだったろう。もし、物価上昇率2パーセントが達成されていたならば、著者の主張は言い訳に聞こえてしまったに違いない。

 リフレ派に対する反論はこの本の各所で述べられている。

 物価上昇を目的とする金融政策についての疑問として、マネタリーベースと物価との間には相関関係が見られないという観察結果があげられる。むろん、リフレ派には、両者の単純な関係を主張するのではなく、インフレ期待に働きかけることが目的であるという論者もいる。しかし、そのメカニズムはあいまいである。

 では、なぜマネタリーベースの大量増加が物価上昇をもたらさないのか。平常時においては長期的にみれば物価上昇が起こるとみなすことは間違いではない。しかし、金融危機においては、金融機関の流動性需要の著しい増加に対して中央銀行は貨幣の供給を増やす。金融危機終息後は、ゼロ金利制約下において中央銀行通貨保有の機会費用はゼロであるため、中央銀行の貨幣供給はそのまま需要されるだけである。つまり、物価上昇の起爆剤となると想定されるマネタリーベースの超過需要自体が発生しない。

 著者はデフレとデフレスパイラルは区別すべきであると言う。日本がデフレスパイラルに陥らなかった原因は、金融システムの崩壊が何とか防げたことと実質賃金率が上昇しなかったことがあげられる。後者について通常考えられるのは、貨幣賃金の下方硬直性により、物価が下落すれば実質賃金率が上昇し、失業率が上昇する。しかし、2000年代の日本においては、コア労働者の雇用を守ることの引き換えとして、貨幣賃金が下落することに労使が合意した。ただし、そのことが長期の緩やかな物価下落の要因になったのではないかというのが著者の見解である。

 バブル崩壊後の低成長は、金融政策の失敗ではなく、潜在成長率の低下に原因を求めるべき、というのが著者の主張である。なぜなら「金融政策は潜在的な成長軌道の周辺の変動に対し、支出のタイミングに働きかけることによって平準化効果をもたらすが、成長軌道自体には影響を与えない」からである。

 潜在成長率の低下については、次の二点が原因としてあげられている。①情報通信技術の発達と、日本企業の得意とするビジネスモデルやその背後にある日本的雇用環境との「相性」が悪いこと。このことは、輸出価格の下落による交易条件の悪化ももたらしている。②労働人口が急速に減少していること。

 著者は日銀総裁の在任中に、政治家、経済学者、評論家、メディアなどからの激しい批判を浴びたばかりではなく、社会という得体のしれない存在からも圧力を感じていたようだ。それは仕方のないことであり、社会の望まない政策はできないことを著者は認めている。社会は自らの身の丈に合った中央銀行しか持つことができないのであろう。

 著者は退任後の日銀の政策への批判は控えているが、マクロ経済政策ないし金融政策をめぐる議論について、以下のことは指摘している。

1 日本経済の問題の解決のためには、様々な構造的課題に取り組むこと、特に生産性の上昇が鍵であるという認識の強まり。
2 「デフレは貨幣的現象」、マネタリーベースの「量」、「期待」を短期的に変えること、などの議論への関心の薄れ。
3 既存のマクロ経済理論の不十分さの認識の広がり。

 むろん、著者の意見には賛否両論があるだろうし、それは当然のことだろう。私としては、著者があまりに慎重すぎることにもどかしさを感じるのだが、しかし、それが著者の誠実さの現れなのだろう。

 黒田日銀の金融政策の評価を知りたくて、『中央銀行』の参考文献にあった『金融政策の「誤解」 “壮大な実験”の成果と限界』(早川英男、慶應義塾大学出版会、2016年)を読んでみた。著者は2013年3月まで、つまり黒田日銀による「量的・質的金融緩和」(著者はQQEと略している)の直前まで、日銀に勤務していたから、当然白川前日銀総裁と心情を同じくするとみなされても仕方がないだろう。「リフレ派」による日銀批判には反発があったはずだし、QQEにも複雑な思いを抱いたのではないか。しかし、著者の叙述は客観性を保とうとしていて、その点では白川と同様信頼が置けよう。

 著者によるとQQEの成果は、①大幅な円安、②株高、そして③デフレ脱却である。一方、誤算としては、①「2年で2%」としたインフレ目標が達成できなかったこと、②デフレ脱却が経済成長につながらなかったこと、そして③(うれしい誤算ではあるが)完全雇用の実現があげられている。ただし、デフレ脱却については、「2年で2%」という目標にこだわり過ぎたことと、景気上昇とまでには至らなかったことにより、共通認識になっていないと著者は見ている。

 QQEはいわゆる「リフレ派」の理論に基づいてなされたと世間では受け止められているが、著者によれば、経済学界の主流はそのような理論を支持していないし、日銀のスタッフも同様であったろうと思われる。つまり、マネタリーベースを増やせば物価が上昇するという単純な関係を信じていたのは一部の「リフレ派」にすぎない。ではなぜ日銀がQQEを実施したかというと、市場にショックを与えることで急激な円安もあり得ると考えたからではないか。「大幅な円安が実現すれば、輸入物価上昇によってインフレ率が高まると同時に、輸出が増えて景気は良くなる」、それが日銀の目論見と推察されるが、明確な理論的な裏付けというものはなく、一種の賭けであったと著者は見る。

 QQEが念願のデフレ脱却を実現させたのに、経済成長につながらなかったのはなぜだろうか。個人消費が伸びなかったのは、「企業収益が改善しても賃上げは小幅にとどまった一方で、円安により物価が上がって実質賃金が目減りしたためであり、そこに消費増税が輪をかけた」からである。また企業の設備投資も低調であった。賃金や投資の伸び悩みの背景にあるのが、デフレ・マインドの根強さではないかと著者は言う。経済成長のために、この根強いデフレ・マインドをいかに克服するかが問われることになる。その問いの中には、「日本的雇用」(メンバーシップ型雇用と非正規雇用の二重構造)の見直しも含まれることになろう。

 ところで、経済成長の改善が見られないのに完全雇用が実現したのはなぜだろうか。それは高齢化による労働供給減少の結果である。生産年齢人口は1995年をピークに減少し続けており、特に団塊の世代の引退時期にそれが顕著となった。

 生産年齢人口の減少と同時に、生産性が低下していることも確認されている。その結果、潜在成長率が低下している。それゆえ、低成長であっても需給ギャップはほぼ解消されている。「だとすると、デフレ脱却の実現は、潜在成長率の低下という、日本経済にとって不都合な真実のおかげということにならないだろうか」という疑問を著者は提示する。著者の見解は、「デフレ脱却の実現は、QQEの効果と潜在成長率の低下という、日本経済にとってプラス・マイナス両面の変化の結果もたらされたと考えるのが、最も公平なようである」というものだ。

 さて、著者の評価は2016年時点のものである。著者は日銀の金融政策の方向を、「現在の『マイナス金利付きQQE』からマネタリーベース目標を撤廃して、マイナス金利政策に純化していくべきだと考えている」。著者が量的緩和の縮小・停止を主張するのは、QQEの最大の問題が「出口戦略」にあるとみなしているからである。「出口」で最も懸念されるのは長期金利の急騰である。長期金利の急騰には、①金融機関のバランスシート毀損による金融システムの不安定化、②日銀のバランスシート毀損による国民負担の発生、③政府の利払い負担増による財政赤字の拡大、というリスクがある。

 リフレ派にしてみれば、このような見解は毎度聞かされる「オオカミ少年」的警告にすぎず、反リフレ派は悲観的過ぎるのであって、いつか2%物価上昇が達成されれば、経済成長がもたらされ、債務問題も解決する、と言いたいところだろう。

 2018年春時点では、長期金利の急騰も2%物価上昇も生じていない。

 ところで、この本を読んで意外だったのは、完全雇用の達成がQQEの成果ではなく、潜在成長率の低下によるものだという主張だった。安倍政権が進める外国人労働者の受け入れ拡大政策が、潜在成長率の上昇によって経済成長を目指すというのであれば、理にはかなっている(政策として妥当かどうかは別だが)。また、消費税増税の実行を表明しているのは国債暴落(長期金利の急騰)を警戒してのことと思われる。激変緩和措置で需要減少を防ごうとしているのも、政策意志の固さを示そうとしているのだろう。

 案外、著者の見解は政府内でも共通認識となっているのかもしれない。

 『中央銀行』の参考文書には、岩村充の『金融政策に未来はあるか』(岩波書店、2018年)もあげられていたので読んでみた。いろいろ興味深い内容だったが、黒田日銀の金融政策に関連した部分だけを取り上げてみる。FTPL(Fiscal Theory of the Price Level物価水準の財政理論)を使った説明である。よく理解できていないが、おおよそ次のようになるらしい。

 政府と中央銀行を一体化して、統合政府というものを考える。ごくごく簡略化すると、統合政府の資産は債務償還財源(S)であり、負債はベースマネー(M)と市中保有国債(B)である。つまり、統合政府は貨幣と国債を発行するが、それが市場に受け入れられるためには債務償還財源が必要なわけである。政府の負債は将来の税収によって返済が期待されるが、返済時の物価変動があるので、Sは実物ベースである。政府の資産と負債は等しくなるはずだが、資産は実物ベースであり、負債は名目ベースであるので、両者を均衡させる貨幣価値が決まる。貨幣価値の逆数である物価をPとすれば、P=(M+B)/Sという関係が成り立つ。市中保有国債(B)と債務償還財源(S)は、「現在から将来にわたって統合政府に帰属する義務と権利の割引現在価値」であり、それぞれの時価は、Bは名目金利によって、Sは自然利子率によって割り引かれたものである。

 さて、統合政府は名目金利を操作することによって、市中保有国債(B)の割引現在価値を変えて、物価(P)に影響をあたえることができる。しかし、名目金利はゼロ以下にできない。ゼロ金利政策の下で取られたのが量的緩和であるが、「量的緩和は、市中保有国債とベースマネーとの時価による交換なのだから、それ自体が金利を動かす効果を持たない限り、いくら緩和だと叫んで世の中を盛り上げようとしても、しょせんは物価水準決定式の分子項目間での等額入れ替えに過ぎず、したがって均衡物価水準に影響を与えることはできない。日銀が躍起になって異次元緩和を進めても物価が動かなかった理由もここにあったわけだ」。

 では、そもそも日本のデフレ長期化はなぜ起きたのであろうか。著者が指摘するのは、「自然利子率の顕著な低下という現象が、九〇年代の前半にかけての日本で実際に起こり、その後も回復していないこと」である。自然利子率の低下は債務償還財源(S)の割引現在価値を増加させ、物価(P)を下落させる。(フイッシャー方程式によるインフレ効果は遅れる。)

 ただし、政府が財政政策において「律義」であったならば、もっと激しいデフレ効果があったと予想されるが、「世の現実の中で暮らしている人々は、政治家や学者が議論する以上に覚めていることが多いものだが、そうして覚めている人々は、政府が掲げ続ける財政健全化目標なるものについても、実は半信半疑だったのではなかろうか。それがFTPLの物価水準決定式が示すほどには強烈なデフレ圧力が一気には生じなかったことの背景にあったように思える」。

 ところで、「自然利子率とは現在の豊かさと将来の豊かさを交換するときの交換比率、現在の豊かさで測った将来の豊かさの市場価格である」。自然利子率は、「基本的に『一人当たりGDP成長率』に対する人々の見方で決まると考えて良い」。では、このような自然利子率の低下をもたらしたのは何か。それは1995年を転機とする生産年齢人口の減少であると考えられる。

 「自然利子率は過去の実績によって決まるものではなく、貯蓄とか投資とかに参加する人々が、自分が将来においてどのくらいまで豊かになれると『予測』しているかで決まるもの」であるゆえに、著者は次のような懸念を示している。「バブル崩壊後の三年ほどの間で起こった自然利子率の大きな下落について述べ、それが『平成デフレ』をもたらした可能性を議論したわけだが、同じことが再び起こらないとよいと思っているのは私だけではあるまい」。

 では、どうするか。著者はマイナス金利やヘリコプターマネーを検討しているが、ここまででも難しいので、省略する。

 マイナス金利にしろ、ヘリコプターマネーにしろ、貨幣価値を下げようとするものだろう(インフレ対策の場合は逆になる)。人類は貨幣という便利なものを手に入れた代償として、インフレやデフレに悩まされることになった。しかし、そのことにアイロニーを感じて済ましてしまうだけではなく、著者の言うように制度的な進歩を目指すべきなのだろう。著者は統合政府による貨幣発行の独占を仮想通貨が無効にすることを予想する。未来はどうなるのだろうか。

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