経済成長と収穫逓増
『ポール・ローマーと経済成長の謎』(デヴィッド・ウォルシュ、2007年、小坂恵理訳、日経BP、2020年)を読んだ。原題は“KNOWLEDGE and the WEALTH of NATIONS A Story of Economic Discovery”であるので、ローマーだけに焦点を絞っているわけではない。私は経済学史として読んで教えられることが多かった。大学の経済学部ではほとんど教わらなかったし、その後も勉強しなかった。もっとも、この本のような視点によって初めてその重要さがわかったのではあるが。
著者はスミスの『国富論(WEALTH of NATIONS)』に見られる二つの見解が、矛盾として残されたまま経済学が展開していったことを鮮やかに示している。その二つとは「見えざる手」と「ピン工場」であり、前者は収穫逓減を、後者は収穫逓増を意味している。限界革命によるミクロ理論は収穫逓減を基礎にし、収穫逓増を理論から排除してしまった。その後、収穫逓増がいかにして経済理論に組み込まれたのか、それがこの本のテーマなのだが、読んでいくうちに私の切れ切れの知識が統一されていくという経験をした。
私はブローデルの『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』を読んだときに、市場経済と資本主義は違うものだという感想を持った。市場経済という描写は資本主義の特徴である成長という面を捕らえ損ねていると思ったのだ。完全競争市場モデルでは経済は均衡という「定常状態」に達する。そこで凍りついてしまうのだ。均衡をもたらすのが収穫逓減であることは知っていたが、ウォルシュの指摘によって成長という概念がないのは収穫逓増が欠けているからであることを気づかされた。
そこから、スラッファ・モデルが新古典派モデルやマルクス・モデルの批判になっていることがようやく分かった。スラッファ・モデルは市場経済の「定常状態」を描いたものなのだ。新古典派モデルでは、均衡状態に至るのには収穫逓減を必要とするかもしれないが、「定常状態」での生産関数は生産要素の代替がなくなり、また規模について収穫は一定である。つまり、一定の投入係数を持ったスラッファ・モデルと同じになる。これは資本の有機的構成が一定のときのマルクス・モデルでもあるのだ。
スラッファ・モデルでは合成商品によって価値を計ることができる。ところが、マルクス・モデルの拡大再生産では資本の有機的構成が変化するので、スラッファ・モデルの投入係数の変化と同じことになる。それゆえ、合成商品の構成が変わってしまうので価値比較ができず、分配を問う労働価値説は適用できなくなる。
また、新古典派モデルによる限界生産力説(限界生産物が生産要素の貢献度を決める)は、他の生産要素を一定としたときに当該の生産要素を増加させることによる生産量の変化を見るものであるから、スラッファ・モデルの投入係数の変化と同じことである。すなわち、限界生産力による分配は、マルクス・モデルと同様、根拠がないことになる。
分配の問題はこの本の焦点にはなっていないのであるが、限界生産力(収穫逓減)による均衡が市場経済の表現であるならば、新古典派モデルは成長する資本主義の姿を捕えていないということになる、というのが私の理解である。
もっとも、私が興味を持ったのはこの本の前部分三分の一(27章中9章)であり、第10章「経済のハイテク化」からはただ叙述を追っていくだけだった。細かい理論内容が、数学が分からないせいもあって、理解しにくいのである。それに、アメリカ経済学界の内幕みたいな内容に疎ましさを感じる。もっとも、戦後の経済学はアメリカ主導であったのだからそういう叙述は当然ではあるのだが。
ローマーの理論の影響についてはこの本でもはっきりしない。ケインズ革命のような目につく現象はないが静かに浸透しているようでもあり、あるいは単なる一理論として終わってしまうのかもしれない。しかし、新古典派の市場均衡モデルの説明力が部分的であることは学界でも受け入れられているのだろう。
いずれにせよ、経済成長における技術や知識の重要性には異論はあるまい。ただし、教育の効果については、私は疑問に思っている。