井本喬作品集

愚者への説得

 『ファクトフルネス』(ハンス・ロリングス他、2018年、上杉周作・関美和訳、日経BP社、2019年)を図書館から借りて読んだ。図書館の蔵書は七冊あるのだが、予約待ちが百人を越えていたので半年待った。すごい人気である。翻訳は去年の出版なのに、いまだに本屋で平積みになっているのを見かけた。

 この本で言われている主要なことの一つは、現在の世界が一般に思い込まれているほどひどいものではないという主張である。こういう主張は環境問題や貧困問題を重視する人々から反発されやすい。この本でもレイチェル・カーソン『沈黙の春』への批判がなされているが、それを受け入れ難く思う人がいるはずだ。環境や貧困への警告は大げさであってもかまわない、むしろ大げさであるべきだと主張する人もいるだろう。そのような警告を偽りであるとして批判することは、問題解決の試みを妨げるように作用すると危惧されている。

 しかし、正論を言えば、偽りの主張からは正しい解決策は生まれない。偽りの警告を批判するのは、環境や貧困の問題の存在やその解決の必要性を否定することではない。

 そう言われれば反論できないのだけれど、心情的には複雑である。著者は「世界のいまを理解するには、『悪い』と『良くなっている』が両立することを忘れないようにしよう」(90ページ)と言っている。どちらかに重点を置きすぎると、ゆがみが生じてしまうのは確かだが、バランスを取るのは難しい。

 『ファクトフルネス』の著者と同じような主張をする人は他にもいる。私の読んだ限りでは、ビヨルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』(2001年)、マッド・リドレー『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』(2010年)、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(2018年)があげられる。いずれも将来に対して楽観的な立場であり、資本主義的・自由主義的なシステムの健全性を主張している。

 ところで、『ファクトフルネス』の主張の一つとして、人の行動の違いの要因として「所得の違い」に注目するということがあげられよう。「人の行動の理由を、国や文化や宗教のせいにする人がいたら、疑ってかかったほうがいい」(205ページ)。

 著者は意図してはいないだろうけれど、このような主張はマルクスを思わせる。マルクスを持ち出してくることに意味があるのかと疑問に思う人もいるだろう。全く違った文脈で語られているのであって、言葉は似ているけれども比較対象にはならないのではないか、と。その点は置いておいてもらうとして、マルクス的観点とウェーバー的観点という簡易法で考えてみたい。つまり、精神的な要因は物質的基礎に規定されているのか、あるいは物質的基礎に作用するのか、という観点の対立に沿って見てみたい。

 上記のピンカーの本は例のごとく分厚いが頑張って読んだ(あらかじめ断っておくと、私はこの本の論旨はおおむね受け入れる)。ピンカーはウェーバー的な観点の重要性を強調している。既述のようにピンカーは現状肯定的であるが、その理由として、資本主義の高い生産性が生活を豊かにしたことと、民主主義的自由主義が平和をもたらしたことの両面をあげている。物質的な要因と同様、精神的な要因も重要である、というのだ。さらに言えば、物質的要因(資本主義)も精神的要因(自由主義)に裏打ちされているのかもしれない。

 精神的な要因をイデオロギーと言い換えることにはピンカーは反対であろう。真理はイデオロギーではないからだ。イデオロギーは真理をゆがめる作用があり、それらが社会に害を与える。真理と同様にイデオロギーは人の行動に作用し、個々の行動は社会に影響を及ぼす。たった一人の人間が歴史を大きく動かすこともある。

 ピンカーは啓蒙主義を高く評価し、そのあとに続く思潮をロマン主義として批判する。ピンカーにしてみれば、啓蒙主義は真理につながるものであるが、ロマン主義はイデオロギーということになろう。ロマン主義は19世紀と20世紀の悲惨な現実の原因であるとみなされている。ロマン主義の中にはマルクス主義も含まれる。もちろんピンカーは一部の宗教者や右派も批判する。しかし、ピンカーの批判の主たる対象はロマン主義的知識人(左派も含まれる)である。

 イデオロギーが行動や見解に影響するというのは、ドーキンスと対立してきたグールドも主張するところである。だが、グールドは正しい世界観と間違った世界観が明瞭に区別できるとは言わない。むしろ、全て人は、科学者も含めて、何らかの形でイデオロギーに捕らわれているとみなす。いわば、ドーキンスやピンカーは善悪二元論的であり、グールドは相対論的である。例えば、宗教への態度にはドーキンスとグールドの違いが典型的に表れている。ドーキンスは痛烈に批判するが、グールドは多元論的に容認する(この件に関しては、私はドーキンス派である)。

 では、イデオロギーはどのようにして形成されるのであろうか。マルクスならば、階級として現れる主体の経済的地位の差を基盤として示すであろう。しかし、それほど単純ではないのは明らかだ。経済的な要因があることは確かだが、それだけでは説明不足なのである。グールドはその点については触れず、特定の時代と地域において支配的な世界観が成立するとだけ指摘する。ドーキンスやピンカーははっきりしている。イデオロギーは科学的知識の不足から生じるのだ。彼らの主張は、見ようによっては、資本主義のイデオロギーと共産主義の真理を対立させるマルクス主義に似ている。

 ドーキンスやピンカーは科学の客観性に疑問を持っていないようである。彼らは自らの主張を科学的根拠に基づいた真理であると確信しているようだ。だが、彼らのそういう態度に危うさを感じるのはグールドだけではあるまい。以前に言及したセーゲルストローレの『社会生物学論争史』から再び引用してみよう。

  メイナード・スミスは最近私に、社会生物学論争は全体としては健全なものだったと考えていると語った。彼が言わんとしたのは、長い時間をかけて、不必要な政治的内容は徐々に発言から解消されていき、最終的に「真の」科学論争が始まるようになったということであった(一九九八年のインタヴユー)。この本で私は、それとはかなり異なった主張をおこなった。私は、道徳的/政治的懸念が、解消されるべき障害というにはほど遠く、実際には、この分野における科学的主張の創出と批判の両方における原動力であり、そのゆえにこの分野はよりいいものになったということを、主張しているのである。

 そもそもピンカーは理性が重要であると言って批判するのだから、批判される方には理性が欠けているとみなしていることになろう。理性の欠けている連中の理性に訴えかけても無駄だから、ピンカーが説得しようとしているのは彼らではなく、ピンカーと彼らの対立を見ている人々であろう。しかし、ピンカーの本を読むような人はインテリとか知識人とみなされる人たちであり、彼らはロマン主義に影響されがちである。一方、ピンカーの本を読もうとしない人々は、理性的に説得されるのには慣れていない。

 つまり、ピンカーは私たちに無理なことを要求していることになる。ピンカーは自分自身と彼に同調する人だけが理性的存在で、その他の人は理性に欠ける(あからさまに言えばバカ)と思っているはずだ。バカに理性的になれというのはそもそも無理な説得なのではないか。

 心理学、言語学、進化論などの専門家としてピンカーには分かり切ったことだろうが、理屈で人は説得されない。ピンカーもその点は気にしているようで、次のように洩らしている。

  今この時代に啓蒙主義を擁護することは、誤りを指摘する、あるいはデータを広めるだけにとどまるものではない。それは人々を鼓舞することでもありうるので、わたしよりも芸術的才能や表現力のある人々が、もっとうまく語ってくれたら、そしてもっと多くの人に広めてくれたらと願っている。人類の進歩こそが真に英雄的な物語なのだから。この物語は壮大で、希望にあふれている。あえていうなら、スピリチュアルでさえある。

 ごくごく単純化して言えば、文学的才能は世界をロマン主義的に見るかリアリズム的に見るかのどちらかに分類されるだろう。リアリズムは世界の否定的側面に目を向けがちだし、ロマン主義は出発点として世界が苦悩に満ちていることを必要とする。つまり、どっちにしろ、文学的才能は世界の現実を肯定的に描こうとはしないであろう。ピンカーの期待は無駄に思える。

 そもそも、なぜ人々はロマン主義的な傾向に陥るのだろうか。単なる理性の欠如だけでは説明にならない。あるイデオロギーを受け入れることの理解には、イデオロギーの内容そのものだけでなく、イデオロギーを受け入れる人々の環境(物質的要因も含む)にも目を向ける必要があるだろう。つまりマルクス的観点も欠かせないのである。対立と批判がお互いへの理解の浅さからなされるのならば、解消は難しいだろう。

 アメリカでもマルクス主義は一時はある程度の影響力があったようだが、いまではほぼ壊滅状態なのだろう(日本を含めたその他の「自由主義」国でも同様だが)。歴史としてのマルクス主義を語る文化もないと思われる。そのせいか、ピンカーのマルクス主義理解は表面的であり、スターリン、毛沢東、ポルポトによって代表されるものとして受け取っているようだ。それでも議論するには一向にかまわないのだが、マルクス主義の影響を受けた人間の心情は分からないだろう。

 私にしても、現代におけるマルクス主義の意義とか、マルクス主義の現代化などを語ろうとは思わない。マルクス主義は歴史の範疇に送り込むのが妥当であろう。マルクス主義をロマン主義の一つとピンカーが捕らえたのは、一面的ではあるものの、妥当な理解である。しかし、なぜ人々の一部がロマン主義的傾向に惹かれるのか、そのことを愚かだとして非難するだけでは人間精神の理解にはならないと思う。

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