不平等matters
ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』(2016年、立木勝訳、みすず書房、2017年)の中の次の文章を読んで、視野が広がる思いがした。
今なら、このように言い切ってもたいていの人は驚かないだろう。しかし、同じことを1980年代後半に聞かされたら、多くの人はショックを受けたに違いない。レーガン=サッチャー革命以後、欧米の政治家は自らの経済圏でも世界でも、もっと市場を信頼するように求めたが、まさかあれほど自慢げに語ったグローバリゼーションが大半の市民に――新自由主義の政策は保護主義的な福祉体制よりも有利ですよと説得した、その当の相手に――明白な利益を届けられないとは、予想もしていなかっただろう。
ソ連の崩壊と中国の変質により、社会主義体制が実質的に消失してしまった後、資本主義以上の効率的な経済制度はないことを私は認めざるを得なかった。しかし、マルクス主義的な見方を否定するということは、かつての自らの考え方を否定するものであり、大げさに言えば自らの生き方が間違っていたということにさえなってしまう。いまの自分につながる過去を否定するというのは楽しいものではない。
ミラノヴィッチの本は、マルクス主義を全否定してしまうことは非生産的ではないかという示唆を与えてくれた。マルクスの提出した解決策は間違っていたと言えるが、彼の資本主義分析までもそう決めつけてしまうのは粗雑すぎ、怠慢でさえある。私たちが手にできるのは資本主義しかないとしたら、その分析は、いかに欠陥があろうとも(致命的でさえなければ)、考察に値するであろう。
マルクスの資本主義分析に対する有力な反論の一つは、資本主義は不平等でさえ解消しうるというものである。クズネッツは「国が工業化して平均所得が伸びるにつれて最初は不平等が拡大し、その後は縮小する」という逆U字型のクズネッツ曲線を唱えた。現実には中間層の拡大がそのことを体現していた。豊かさはあまねくもたらされると見えたのである。
ところが、その傾向が再び逆転している。日本ではあまり顕著ではないが、1980年以後では豊かな国といわれる地域で不平等が拡大し、中間層が没落し始めているのである。この本でも言及されているが、トマス・ピケティが『21世紀の資本』において主張したのは、1918年~1980年の時期に不平等の低下が見られたのは二つの世界大戦という特殊な要因による一時的なものであり、それがなくなれば資本主義のもともとの(本質的な)傾向が露わになる、ということであった。ミラノヴィッチはその考えを一部は認めつつも、より普遍的な理論を構築しようとする。
ミラノヴィッチはクズネッツ曲線をクズネッツ波形と捕らえ直して、第一のクズネッツ波形が1980年までに終わり、第二のクズネッツ波形が始まっているとするのである。クズネッツ波形の上昇(不平等の拡大)は、第一の波も第二の波も、「技術的な革新と変化、資本による労働の代替、部門から部門への労働移転」がもたらした。では下降(不平等の縮小)はなぜ起こるのか。第一の波については、クズネッツは経済的な要因から説明し、ピケティは政治的な要因を重視する。それに対してミラノヴィッチは「経済的要因と政治的要因の相互作用によってクズネッツ波形(サイクル)は動く」と言う。「第一次世界大戦の勃発とその後の不平等の縮小は、戦争以前からの経済状況に『内在化』して捉えるべき」なのである。「すなわち、クズネッツサイクルの第一の波を崩し、豊かな世界の不平等をその後の70年にわたる下降線へと向かわせた悪性の力(引用者注:帝国主義戦争)は、それまで存在していた、維持不可能なほど高水準の国内不平等に内包されていたのである」。
現在の第二の波においても、第一の波ときのような「悪性の力」が作用して下降局面に入る可能性は排除できない。あるいは、「良性の力」が働くかもしれない。ミラノヴィッチは以下の5つの要因をあげている(ただし、ミラノヴィッチは楽観的ではない)。
①もっと高率で累進的な税制を作れるような政治的な変化
②教育とスキルの追いかけっこ
③技術革新の初期の段階で獲得されたレントの消失
④グローバルなレベルでの所得の収束
⑤低スキル偏向型の技術進歩
ミラノヴィッチの説明によって理解できたことの一つに、ヨーロッパや米国におけるポピュリズムの興隆がある。第一のクズネッツ波形の下降局面で出現した中間層が、第二のクズネッツ波形の上昇局面で没落しかけていることが、ポピュリズムをはびこらせているのだ。彼らがナショナリストであるのはグローバリゼーションを敵視するからであり、彼らが保守的であるのはエリート層が急進的であるように見えるからだ。トランプ支持者が減らないのもポピュリズムを生んでいる状況が変わらないからなのだ。本来、中間層の不満を吸い上げるのは左翼政党であるはずだが、ソ連の崩壊と中国の発展が左翼への不信と反感を引き起こし、選択肢を減らしてしまっているのである。
マルクスの主張したプロレタリアート独裁や中国のような一党独裁を避けようとするなら、民主主義的な過程による改革しかない。ハイエク流の試行錯誤であり、なるようにしかならない、ということなのかもしれない。