井本喬作品集

もう一つのユートピア

 『世界をダメにした10の経済学』(ビョルン・ヴァフルロース、2015年、関美和訳、日本経済新聞社、2019年)という本を、たまたま図書館の棚で見かけて、読んでみた。市場主義の立場から書かれた反対派批判である。私は著者の立場には賛成ではないが、こういう本が対抗意見として日本でもっと受け入れられるべきだとは思っている。ただし、原題は“THE TEN WORST IDEAS IN ECONOMICS”であるので、和訳の題名は適切とは言い難い。

 冒頭の章にケインズ理論の批判が置かれている。ここは私にも何事かは言える。

 著者は言う。ケインズ理論は「一般理論」ではなく、特定の時期(大恐慌)における短期的政策にすぎない。さらに言えば、その政策が有効であったとも言えない。ケインズ理論の実践とされるニューディール政策はそもそもケインズ理論とは関係なかったし、そこにケインズ的要素があったとしても、大恐慌からの回復に役立つこともなかった。アメリカ経済を立ち直らせたのは戦争による需要の急激な拡大だった。(ただし、そうであるなら、ケインズ理論は正しかったことになるのではないか。それだけの規模の需要を生み出すのは平時においては不可能であるかもしれないが、原理的には需要創出が経済の回復を可能にするのだから。)

 大恐慌の原因は金融政策の失敗であるというのが著者の見解である。これはフリードマンの意見を受けたものだ。そこから、著者はケインズ理論の欠陥として金融政策の軽視を挙げる。しかし、A・レイヨンフーヴィッド『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』によれば、ケインズは高すぎる長期利子率を大恐慌の原因とみなしていた。中央銀行が長期利子率を引き下げようと努力しないこと、あるいはそれが困難であるという現実に対して、財政政策を推奨した。その意味では、金融政策に失望したとは言えるけれども、金融政策を軽視したとは言えないだろう。

 ケインズ理論の根本には、市場の機能への不信があると著者はいう。流動性選好説は資本市場への不信、非自発的失業の強調は労働市場への不信が元になっている、と。しかし、レイヨンフーヴィッドによれば、ケインズは、価格の自動調整機能による均衡においては完全雇用を達成できない場合があると考えたが、市場の非効率が原因とはしなかった。

 さらに著者は言う。ケインズは国際経済から切り離した一国経済を考えていた。これらのことは大恐慌、戦争、戦後と続く時期にはある程度妥当し、ケインズ理論が広く受け入れられた。戦後アメリカでケインズ理論の長期モデル化がなされ、経済学のスタンダードとなった。しかし、戦争の影響が薄れ、様々な市場が整備されるにつれて、ケインズ理論による政策の有効性が疑われるようになった。

 著者はフィリップス曲線に関する論争からケインズ理論の欠陥を示そうとしている。フィリップス曲線とは物価(ないし賃金)と失業率の逆相関関係を表したものである。これがなぜケインズ理論と関係あるのか私には分からないのだが、経済政策の指標としてケインズ派に重視されたらしい。しかし、物価の上昇が失業率の低下をもたらすというケインズ派の主張が妥当しなくなってきた。財政出動による需要増加は失業率の改善はもたらさずに物価の上昇だけが残るという結果になった。長期的にはフィリップス曲線は垂直になってしまう。

 著者はこの現象にロバート・ルーカス等の合理的期待形成仮説を当てはめようとする。だが、その説明は分かりにくい。どうせ財政政策は失敗すると人々が理解し始めると、事実失敗することになる、というのだ。しかし、最初の政策がショックであったので人々が誤解して政策が成功したのだとすれば、それ以後人々が政策の有効性をなぜ疑うようになるのか不思議である。

 突然の金融政策が労働者や市場にショックを与えると、一時的に生産量(アウトプット)は変動する。だが、やがてアウトプットは介入前の水準に「自然」と戻り、市場のショックはインフレ率の変化に吸収される。(中略)結局、財政の専門家がどれほど頑張っても、市場にショックを与え、ちょっとばかり市場を変動させるぐらいが関の山なのである。財政政策をだらだら長引かせたり頻繁にくりだしたりすると、人々はそれに頼りきってしまい、効き目はなくなる(そりゃ当たり前だ)。

 「金融政策」がいつのまにか「財政政策」になってしまっている。ケインズが金融政策を無効と考えていたとするならば、両者を政策としてきちんと区別しない著者の扱いはおかしなことだ。それはさておき、そもそも、財政政策自体が最初から一時的な効果しかないのであれば、合理的期待形成仮説を使わなくとも、財政政策は一時的効果しかないであろう。「一時的」効果さえなくなってしまうというのが合理的期待形成仮説なのであろうか。だとすれば、財政政策はインフレさえ起こせないということになるのではないか。

 私が理解していたのは、完全雇用にある経済ではフリードマンのいう自然失業率において安定しており、それゆえ新規需要に応じて雇用を増やすためには名目賃金を上げなければならない。賃金コストの上昇は物価に反映され、結局実質賃金率は元に戻ってしまい、失業率も元へ戻る、というプロセスである。

 著者はケインズ理論の妥当性が失われたのは市場の効率化が進んだことに原因があるとも言っている。たとすれば、フィリップス曲線の変化も完全雇用の達成が背後にあるとみなせばいいのではないだろうか。ところが、著者は一時的ショックによる効果とそれに対する合理的期待形成ということによって説明している(『「自然」に』という言葉をさりげなく挟んではいるが)。著者は合理的期待形成仮説を金融政策でも例示している。

 煎じ詰めれば、合理的期待形成仮説はいわゆる「政策無効の命題」につながる。ありきたりの経済政策がどんな結果になるか明確な場合、その政策はかならず失敗する。すると、真の経済効果を生み出すのは「ヘリコプターからカネをばらまく」といった、とんでもない政策しかない。それなら当初、人々は何が起きているかに気づかない。空からカネが降ってきたことを、人々は「量的緩和」と思いこみ、将来の見通しがよくなって安定的に需要が増えたと勘違いする。

 量的緩和ならヘリコプターからカネをばらまかなくても可能である。中央銀行が政策として実施すればいい。人々は中央銀行の政策なら失敗すると予測して、量的緩和に反応しないというのだろうか。なぜヘリコプターからカネをばらまかねばならないのかということに関して私の得た知識は、ごく簡単に言うと次のようになる。ゼロ金利政策下の量的緩和は市中保有国債とベースマネーの等価交換にすぎないので、物価に影響を与えない。それゆえ、純増としてマネーをばらまく必要がある、ということである。何でもかんでも合理的期待形成仮説で説明しようとするのは無理がある。赤字財政は将来の増税を予測させて投資や消費を増やす効果はないという考えも、合理的期待形成仮説を持ち出す必要はないだろう。

 この調子で展開されるのであれば、著者の意見がいささか粗雑に思えてしまう。

 それに続く諸章の内容の妥当性については私には判断できない。著者の主張をそのまま受け入れる気にはなれないのだが、同調したくなる部分もある。たとえば財政均衡については財政削減が必要だという点。また、財政政策にはほとんど効果がないという点。それはさておき、著者の言いたいことは分かる。著者の主張はつぎの引用文に簡潔にまとめられている。

 所得分配がより平等になれば消費が拡大する(そして投資が減る)からこそ、再分配は慎重を期さねばならないのである。私たちには、金持ちや成功者の貯蓄と投資が必要不可欠だ。

 つまり、貧困を減らすためには成長が必要であり、成長のためには投資が必要であり、投資のためにはリスクを取る者の報酬を容認せねばならないということなのだ。

 著者の格差擁護論は二つの要素に分けることができる。一つは、人々はその生産性に見合った報酬を受けるべきであるというものである。これは市場メカニズムによって効率性が達成されるための条件である。もう一つは、リスクを取った者にプレミアムを与えるべきであるというものである。リスクを取ることは新規投資による成長のための条件である。

 以前から私が思っているのは、自由市場と資本主義は別物であるということだ。著者の主張を私なりに言い換えてみよう。自由市場が所得の格差をもたらすのは、生産性を反映したものなのでやむを得ない。資本主義は経済成長によって最底辺の人の所得をも増加させるので、結局皆が得をする。そして、成長のための投資には所得格差が必要であるという点で両者が結び付けられる。

 競争によって労働者の所得は生産性に見合ったものになり、その結果としての所得格差の拡大が成長をもたらし、その果実が下層労働者にも行き渡るのだろうか。著者はこうも言っているのだ。「その(海外労働者との競争:引用者注)結果、アメリカの非農業労働者の実質賃金は1972年の週給342ドルを頂点に、20年後の1992年には266ドルまで下がった。1992年-2012年のあいだに多少上昇したものの、近年の週給295ドル(1982年と1984年の水準と同じ)は1972年の実質賃金を大きく下回る。これは生産性の低下が原因ではない。生産性は着実に上昇し、1970-2012年のあいあだにほぼ2倍になっているのだ」。著者はこのことを問題視しているのではなく、市場競争の自然な結果として認めているのだ。企業経営者としては労働コストの下落は好ましいことである。だから、このことを問題にする視点は経営者でもある著者にはない。

 著者の指摘するこの事実がトランプ支持者の多さを説明することになっている。また、ヨーロッパにおける移民への反対も同様だろう。グローバル化と労働市場の自由化は「既得権益者」としての労働者とその子供たちには打撃である。その打撃を補償するだけの成長の果実が確実に与えられる保証はあるのだろうか。賃金下落と解雇は生産性の反映であり、雇用の流動性を増大すれば完全雇用は達成され、また効率性が上がって経済が拡大するというのが、どれだけ確実なプロセスであり、どのくらいの時間を要するのであろうか。明確な答えはない。

 ごく大雑把に言って、現在の経済的な上層・中間層は思想的にリベラルであり、下層は保守的であるだろう。経済の自由化、グローバル化によって中間層が分解し、そのかなりな部分が下層に転落した。アメリカを含む世界の保守化は中間層の減衰によるのではないだろうか。

 戦後のある時期までは中間層が増加した。これは経済発展と同時に社会保障政策が寄与したからだろう。社会主義体制に対抗するために、自由主義は本来の姿を抑えざるを得なかった。しかし、社会主義体制の崩壊(中国でさえ改革開放に舵を切った)により、自由主義はその制約から逃れることができた。所得分配の分散化は自由市場の「自然な」結果であり、そこに資本主義のリスクテイクが重なったということになるのだろう。

 たとえ、著者の言う通り、経済の成長は全ての人の利益になるとしても、その利益にはタイムラグがあるはずだ。もちろん、成長が均衡軌道に乗ればタイムラグは問題にならないかもしれない。しかし、資本主義は均衡を成立させない。未来は不確実なままである。

 著者は基本的に人間の利己性を肯定しているはずである(もちろん制限付きで)。だとすれば、個人が目先の利益に捕らわれて、将来の不確実な利益(自分ひとりだけではなくみんなの利益)を無視することに異議を唱えることができるだろうか。投資家に自己利益追求を認めるならば、労働者にだって認めるべきだろう。たとえ、投資家の行動がいずれはみんなの利益をもたらし、労働者の行動が結局はみんなの不利益になろうとも、市場においては行動主体はそんなことを知っちゃあいないし、知る必要もないのである。

 論争の書としては当然のことだろうが、著者の立場は明らかに一方に加担したものである。自身の見解の優れた点と対立相手の見解の欠点には執拗に述べるけれど、前者の欠点と後者の汲むべき点についてはほとんど触れない。

 たとえば、著者は労働市場の非効率性への攻撃に熱心で、労働市場における自由競争の主たる阻害要因として労働組合の存在をあげている。しかし、独占者としての労働組合を責めるのは片手落ちではないだろうか。他の市場では独占は競争の妨げにはならないと言っておきながら、なぜ労働市場だけが完全競争でなければならないのだろうか。著者は独占禁止法に反対しているのである。

 あるいは、金融政策についてのフリードマンの見解(金融政策は――財政政策と同様に――実体経済に影響を与えない)については著者は誤りだとしているが、味方陣営のフリードマンの名を出すことを避けようとしている。むしろ、この本の副題は「ケインズからフリードマンまで」とした方が適切でではないのか。

 著者の論争のスタイルでは反対者を説得することは無理に思える。たぶん、最初から理解を求める気はないのだろう。著者が期待しているのは、この論争にまだ染まっていない無垢な読者なのだ(既に著者の側にいる人に説得する必要はない)。だが、そういう読者がはたしているのだろうか(そういう人がこの本を読むだろうか)。

 市場を効率化するための、また、投資を増やすための方策は政治的になる。だから、著者の呼びかけは有権者に対して行われることになる。現在の分配よりも将来の成長を重視することの是非は、有権者の説得にかかっている。ただし、民主主義体制では自己の利益のために投票が行われることを妨げることは誰にもできない。たとえ、その利益の見込みが近視眼的であり、結果として間違っていようとも。

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