井本喬作品集

あまり明るくない未来

 ブランコ・ミラノヴィッチ著『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(2019年、西川美樹訳、みすず書房、2021年)を読んだ。著者の『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』(2016年、立木勝訳、みすず書房、2017年)には教わることが多かったので、この本も読んでみたのである。

 表題が示しているように、著者の考える未来は資本主義が普遍化し、深化していく世界である。その流れにはあらがえないことは認めていても、著者の語り口は批判的ないし悲観的である。著者の考えをたどってみよう。

 まず、共産主義についての解釈(評価)について。共産主義(ないし社会主義)が経済システムとしては破綻した現在、そのことを問う必要があるのは中国の存在ゆえである。著者は「共産主義とは、後進の被植民地国が封建制を廃止し、経済的政治的独立を回復し、固有の資本主義を築くことを可能にする社会システムである」と主張している。つまり、マルクス主義者の想定していた資本主義→共産主義という歴史経路ではなく、封建主義→共産主義→資本主義という経路が現実には起こったということである。ロシアや東欧では資本主義段階にありながら共産主義(ないし社会主義)が採用されたが、それは経済発展をもたらさずに破綻した。

 共産主義がうまくいかなかったのは、ロシアや中国という遅れた(高度な資本主義段階にない)国で実施されたからという議論がかつてあった。しかし、逆に、高度な資本主義段階にあったからからこそ、共産主義は選択肢にはならなかったという見解が一般的になっている。共産主義というのは資本主義展開の激動の中での一つの脇道であり、それが行き止まりあることが今日では明白になったというわけだ。

 では、中国の発展はどう説明すればいいのか。中国は資本主義化したからだというのが答えである。しかし、中国の資本主義はいわゆる自由主義世界の資本主義とは様相を異にしている。著者は封建主義→共産主義→資本主義という発展経過により、中国では独特な資本主義が形成されたと考え、それを「政治的資本主義」と名付ける。それと対照されるのがアメリカを典型とする「リベラル能力資本主義」である。

 資本主義は政治的には民主主義という形態をとり、民間の自由な活動が保証されねばならず、国家の過度の介入は資本主義的な発展を阻害するという考えが、ソ連などの共産主義国の破綻により、改めて主流となった。しかし、中国の存在がその考えの妥当性に制限を加えている。いずれ中国も民主化するか、そうでなければ経済的に行きづまるという意見もあるが、いつそうなるかの予測を立てるのでなければ単なる願望にすぎない。著者は現代の中国を資本主義の範疇に含ませることによって、資本主義の普遍性を示そうとしている。

 では、中国を含めた形の資本主義とはどのような普遍性を持っているのか。それはグローバリゼーションに組み込まれていることである。資本主義システムとは生産要素の自由な移動を基礎とするが、モノ、資本、労働が自己自身の利益の実現を目指して最適な場所(空間的および機能的)に移動するのを可能にさせたのがグローバリゼーションであった。孤立した地域経済では資本主義ではない他の経済システムでも存立は可能かもしれない。しかし、グローバリゼーションが地域の経済システムを資本主義化させずにはおかないのである。

 政治的資本主義の問題点としては、「腐敗と不平等」があげられる。行政に大きな権限があることと法の支配の欠如によって不当な蓄財が横行する。不平等自体は資本主義に普遍的にみられる特徴であるが、それに腐敗が加わってより一層大きくなる。

 リベラル能力資本主義においても不平等の問題は深刻である。しかも、不平等が固定化(世代間継承)し、「リベラル能力」という理念を空洞化させる。不平等への20世紀的対策である福祉国家は、グローバリゼーションによる資本と労働の移動によってその存在を脅かされている。

 いずれにしても資本主義の未来は、一部の人を除いて、あまり明るくないようだ。資本主義が普遍的になった世界、グローバル資本主義の世界はどういう特性を持つのか。まず著者が指摘するのは「道徳観念の欠如」である。道徳というものの細目は社会や時代によって変化するけれども、基本的には他者との協調ということが根底にある。それが個人のある種の行動を抑制あるいは助長する。他者との協調が必要なのは、それなしでは生きていくことができないからだ。しかし、市場が様々な分野に浸透していくと、他者との契約が他者との協調に取って替わって生存の確保に役立つようになる。そうなると、市場でモノやサービスを手に入れるための金銭獲得が第一の目標となり、他人とのそれ以外の関係を気にする必要はなくなる。著者の表現では「貪欲と偽善とは手に手をとって進むのだ」。

  もちろん自らに道徳的な抑制を厳しく課すこともできないことはない。だがそれは社会からドロップアウトするか、あるいはグローバルな商業化社会の外にある、こぢんまりとしたどこかのコミュニティに移り住む心構えがある場合の話だ。グローバルな商業化社会にとどまる誰もが、ほかの人間と同じ手段や同じ(道徳観念の欠如した)ツールを使って、生き残るべく戦うほかないのだ。

 著者があげるグローバル資本主義の第二の特性は「原子化と商品化」である。市場化が浸透して他者との協調の必要が薄れれば、共同体の価値が失われてくる。村落共同体的な近隣関係はとっくに消え失せたが、家族関係にも同じような影響が及んでくる。家事や育児などの家庭内サービスが商品化されれば、家族として共に暮らす必要と意味が薄れてくる。同時に、IT技術の発達などにより、消費の場であった家庭が生産に取り込まれていく。生産は工場やオフィスなどの共同作業場を必要としなくなる。つまり、生産も消費も個人が単位となってくるのだ。そうなると、個人は労働者としてではなく、営業主として扱われるようになる。「非正規雇用による完全なフレキシブルな労働市場」が支配的になる。個人は一人きりで自立しなければならなくなり、究極的には育児サービスに支払うだけの収入がなければ子供も持てなくなる。女にしろ男にしろ、自分の血統を残すことにさほど価値を感じない人は子供を持とうとしなくなり、人口減少を防ぐには国家のような機関が出産の管理と育児を担わなければならなくなるかもしれない(著者はそこまでは言っていないが)。

 著者の考えに納得する一方で、人間がそれほど個人主義的になれるかという疑問はある。協調性を無視するような傾向には反動が起こる可能性が大きい。協調性は遺伝子に組み込まれた行動(心情も含めた)であると考えれば、人間がそのような遺伝的傾向を失うように進化するのは膨大な時間が必要となろう。むろん、遺伝子操作の技術がそれを克服することもありうる。いずれにせよ、未来は不確かだ。

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