気候変動への態度
『気候変動の真実 科学は何を語り、何を語っていないか?』(スティーブン E・クーニン、2021年、三木俊哉訳、日経BP、2022年)を読んだ。評判の本らしく、所蔵しているいくつかの図書館に当たってみたが、いずれも予約の長い列ができていた。
同種の本として『環境問題をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』(ビョルン・ロンボルグ、2001年、山形浩生訳、文芸春秋、2003年)を読んでいた。この本は反発しながら読み、読み終わったあともその感情は消えなかった。一方、クーニンの本は抵抗感なく読むことができた。二つの読書にはほぼ20年の間隔がある。その間に何が起こっただろうか。環境問題が冷静に受け止められるようになったのか。とんでもない。環境問題についてはますます過熱化した言説が飛び交うようになっていて、危機派が主流であるのは変わっていない。
変わったのは私の方らしい。おかしいなと思い始めたのは最近である。ヨーロッパなどでのEVへの急激な切り替えがうさん臭く思え始めたのだ。HVやPHVでは日本にかなわないから、一気にEVで勝負を賭けるという陰謀に見えてきたのだ。コストのかかるEVを普及させるために環境問題を大義名分にしているだけではないのか。
EVへのシフトが自然に起こるなら、EVが魅力的であるからだろう。EVが割高でも購入したくなるのは、むろん、ステイタス・シンボルという要素もあるだろう。しかし、単に環境問題だけでEVが売れるはずがない。便利であるとか快適であるというようなメリットも必要だ。テスラは単にEVであるだけで売れているのではなく、EVとしてのメリットを打ち出しているから売れているのだ。後追いの企業はEVというだけでは追いつけない。
環境問題を持ち出すのは、高コストの商品を売りたいだけではないだろうか。経済発展の遅れている国に、生活水準を徐々に高めるのをあきらめて、環境対策用の高い商品を買えということではないのか。
クーニンの本を読んでいるうちに、そういう思いが強くなった(ただし、クーニンがそう言っているのではない)。
クーニンの主張をごく簡単にまとめれば、気候変動は起こっているが、それが将来どのような傾向になるのかは今の科学ではほとんど分からず、ましてや人間の活動の影響などは測りようがない。それゆえ、我々のすべきことは、カーボンフリーというような幻想を棄てて、地球工学(たとえば温暖化に対抗するための「太陽放射管理」や「二酸化炭素除去」)と適応(気候変動に応じて生活を変える)に重点を移すことである。クーニンは温暖化や気候変動を否定しているのではなく、その動向や程度についての予測の不確かさと影響の過大評価を指摘しているのだ。
クーニンの主張は、気候変動に関する他方の極端な主張、つまり、気候変動などなく、対策など取る必要がない、というのとは異なっている。その点に関しては、この本にある杉山大志の解説には違和感がある。彼は言う。
日本では、トランプ元大統領だけが異端児なので温暖化を否定すると報道されているが、そうではない。共和党議員は気候危機説など信じてはいない。ましてや経済や安全保障を危険にさらすような極端な脱炭素には反対する。
クーニンは温暖化を認めているのである。また、トランプおよび共和党議員が「温暖化を否定」し、「気候危機説など信じていない」のなら、反対するのは「極端な脱炭素」ではなく「脱炭素」そのものではないか。環境派に「捏造」の疑いがあるというのは事実であろうが、だからと言って反対派の言うことがすべて真実ということにはならない。
ところで、環境派が過激な主張に走るのは理解できる(賛成するというのではない)。それは一つのイデオロギーなのだ。往年のマルクス主義と同じである。自らを世界と一体化させることができ、そして世界がよりよき方向へ向かうことに寄与できるということが生きがいを与えてくれるのだ。
そういう態度を利己的と批判する人もいよう。しかし、動機における利己性への批判は、動機一般は利己的なものであるとみなすことによって、意味を失わせることができる。つまり、動機によって起こる行為が行為者に利益をもたらすかどうかは別にして、動機そのものが喜び(利益)であるのだ。だから、行為が行為者に不利益をもたらしたとしても、動機においては喜び(利益)でありうるのだ。それゆえ、利己性と利他性との区別は行為の目的と結果によって判断されねばならず、行為における動機によって判断されるべきではない。
むろんよき意図から悪い結果が生じるのはよくあることである。科学が(正しくは科学者が)それを全て防ぐことができるということが幻想なのである。