資本主義と環境
斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社、2020年)を読んでみた。一部で評判なのは知っていたが、読む気になったのはたまたま他に読む本が手元になかったからである。あえて読むほどのことはなかろうと思っていたのは、マルクスと環境問題を結びつけることに意味があるとは思えなかったからだ。
読んでみて、著者の立場は分かった。資本主義とは異なる経済システムを追及するために、マルクスに準拠するということなのだ。マルクスの場合は搾取が問題だったが、今日的課題としては環境破壊が焦点になる。著者はマルクスが次第に資本主義的生産の持続可能性を疑うようになり、生産力至上主義から共同体的管理へと視点を変えていったと指摘している。著者も資本主義のままでは環境破壊を止めることはできず、地球環境の激変まで行きつくことになるであろうことから、経済成長を目指さないコモンズという生産のあり方に移行すべきと主張する。
環境破壊を防ごうとする取り組みは資本主義システムでは無理である、という著者の主張は説得性がある。環境破壊への取り組みに対する様々な意見もこの著書で知ることができた。
そこから導き出されるのは、これ以上の環境破壊を止めるためには資本主義システムを放棄しなければならないという提案である。これも納得がいく。資本主義は拡大システムなので、拡大を止めれば資本主義は破綻せざるを得ない。自転車を止めれば倒れるのだ。
では、資本主義の代替となるのは何だろうか。拡大せずに均衡しているだけの経済システムとなる。それがコモンズに基づくシステムだ。具体的には「自治管理や相互扶助」(287頁)、「国家に依存しない参加型民主主義や共同管理」(338頁)ということになる。その内容は、「『使用価値経済への転換』、『労働時間の短縮』、『画一的な分業の廃止』、『生産過程の民主化』、そして『エッセンシャル・ワークの重視』」(299頁)の五点にまとめられている。
このような提案には私には説得的には思えなかった。個々の問題点については触れないが、非成長経済についての感想を述べてみよう。
この経済は停滞的ではないかという疑問がある。近代以前の社会に戻ってしまうのではないとしても、今のままの技術水準で凍結してしまうことにならないか。拡大なき発展のためには、代替の過程が継続する必要がある。しかし、代替のために技術革新をどのようにして維持していくのか。それを発想し実現化していくためには、リスクを取って投資する主体が必要である。また、その新技術によって代替される従来の部門をどのようにして撤退させるのか。自由競争なくしてそのようなことが可能か。
凍結された技術のままでよい、むしろ科学技術の暴走は阻止されるべきだという考えもあろう。そうなると、個々人の自由な発想を抑え込み、個々の創意工夫を禁止するという抑圧的な社会になってしまうのではないか。平穏で安穏な暮らしが望ましいからといって、変化を全て押さえこむことが果たして可能か。
資本主義と民主主義のセットである現行推奨システムの根本原則は、他人に迷惑をかけない(不利な影響を与えない)限り何をしてもよい、というものであろう。もちろん「迷惑」についての認識の違いは生じる(例えば羨望を起こさせることも「迷惑」になるのか)。だとしても、おおまかなところでこの原則がこのシステムを支えている。もし資本主義を廃するためにこの原則を放棄するならば、民主主義も廃さねばならないかもしれない。
著者の提案する定常的(非拡大的)な共同管理システムは、集団全体の方針のために個人の自主性を部分的に制限せねばならない面がある。もちろん、社会や集団にはそのような規制が必要だ。それは程度の問題であるが、程度こそ重要なのだ。規制を有効にするためには、強権的な中枢を存在させるか、および/もしくは、規制を信念として個人に内部化せねばならない。
コモンズの単位は閉鎖的で自給的な比較的小さな集団となるであろう。その内部においては市場機能は限られたものになるのかもしれない。しかし、それらの集団間に社会的交流や経済的流通があるのであれば、市場経済がコモンズ間に、そしてコモンズ内部に浸透する。コモンズの定常性を守るためには何らかの安定装置が必要となる。いわば、市場経済を資本主義から切り離す試みとなろう。
実際の制度設計は非常に難しいし、そのような変革が社会に受け入れられるとは私には思えない。むしろ、環境破壊の影響が資本主義を不可能にさせるまで待つ(あるいは、資本主義の廃絶を早めるために環境破壊を促進する)という戦略の方が適切ではないか。そこまでにいたらないと私たちは現状を変える気にはなれないだろうから。
私としては、気候変動がはたして人間活動の結果なのかという疑問を呈する意見(この著書では取り上げられていないが)や、気候変動を止められないならそれに適応するような対策を取るべきだという提案(著者によればスティーブン・ピンカーも賛同している)に惹かれている。むろん、私には何の根拠もない。個人的嗜好として、逆説的な議論が好きなだけなのかもしれない。