どこから来て、どこへ?
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)が評判になっているのは知っていたが、読まずにいた。人類の通史を扱った類書はいくつか読んでいたので、もういいだろうという気だったのである。ところが、最近たまたま図書館で別の本を借りたときにこの本が目に留まったので、何かの縁かもしれないと借りて読んでみた。
読んでみると興味を引く記述がいろいろあった。著者は逆説的な視点を提示して意外性で私たちを打つのである。しかもそれは説得的である。たとえば次の文章。
農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で満足度の低い生活を余儀なくされた。(中略)農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。(上107頁)
このような認識は著者の独創ではないが、こういう視点が全体に貫かれている。貨幣、帝国、宗教という現代では厄介扱いされがちなものを「人類を統一する三つの要素」(下10頁)と評価するのもそうだ。貨幣は見知らぬ他人同士でも信頼しうる手段を提供し、帝国は小さな集団を一つの大きなグループに包摂し、宗教は個々人の様々な要素の違いを超越して信者という共通性質を与える、というわけだ。皮肉な態度にも見えるけれど、異なった視点からの検討は有用であると私は思う。
さて、この著作の全てをここでカバーするのは困難なので、宗教と資本主義についてのみ取り上げることにする。
著者は仏教について関心があるようだ。関心というより共感に近いのかもしれない。「仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな宗教と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる」(下237頁)とまで言っている。しかしながら、著者は仏教が他の宗教と区別される特質を保持し続けたとは見ていない。
仏教は始祖のブッダにおいては超自然的な存在を認めることはなかった。ブッダが説いたのは、人格神などは存在せず、そこで起こることに何の意味もない世界だった。そして、次のように諭した。
彼(引用者注:ブッダ)は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇望から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇望から完全に解放されることで、渇望から完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。(下30頁)
しかし、そのような仏教でさえ、「神々の崇拝を完全に捨て去ることはついになかった」。なぜなら、「仏教徒の九九パーセントは涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた」(下31頁)ので、神々や、仏・菩薩という準神々に助力を求めるようになったからである。
著者は、一神教、善神・悪神の二元論、多神教について様々に考察し、「このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない」(下26頁)と言う。仏教でさえそうなのであるから、キリスト教とて例外ではない。「キリスト教は、聖人たちが居並ぶ独自の万神殿を築き上げた。こうした聖人たちのカルトは、多神教のカルトと大差なかった」(下21頁)。
キリスト教が多神教的であり、悪魔の存在を認めることで二元論的でもあることは、偏見のない人には特別な研究などせずとも分かることだ。しかし、多神教よりも一神教の方が優れているという論調がかつてあったし、いまでも影響力を持っているのかもしれない。著者が宗教の多神教化(正確には混合主義化)を事実として認めている点は大いに共感する。私としては多神教の方が機能分化という点で優れていると評価したいぐらいである。
ところで、著者は宗教とイデオロギーを区別することはできないと言っている。
私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。だがそうすると、一貫性を保つためには、少なくとも仏教や道教、ストア派のいくつかの宗派を宗教ではなくイデオロギーに分類せざるを得なくなる。逆に、神への信仰が現代の多くのイデオロギー内部に根強く残っており、自由主義を筆頭に、そのいくつかは、この信念抜きではほとんど意味をなさないことに留意すべきだ。(下33-4頁)
宗教的あるいはイデオロギー的信念というのは人間の生得的な能力(あるいはサガ)とみなすべきなのかもしれない。
次に資本主義についての著者の考察を見てみよう。著者は言う、「資本主義の信条における第一にして最も神聖な掟は、『生産利益は生産増加のために再投資されなくてはならない』だ」(下136頁)。つまり拡大こそが資本主義の本質なのである。「近代以前には、人々は生産とはおおむね一定しているものだと信じていた」(下137頁)ので、余剰を投資には向けず、大規模な建造物などのような非生産的な分野につぎ込んだ。
もちろん、著者の叙述は大雑把であるので厳密性は欠く。資本主義が主流になる以前の社会においても生産の量的質的改善はなされていただろう。たとえば、農業においては耕作地の増大、灌漑設備の整備、農具の改良、肥料の開発、商品作物への転換などが行われてきた。商業や工業についても同様だろう。投資による生産拡大という意味での資本主義は、それが主流になる以前から存在していたのであれば、人々の意識における断絶にあまり大きな意味をもたせる必要はないように思える。むしろ、著者も後の方で指摘しているように、産業革命という「エネルギー転換における革命」(下169頁)が大きな転換点となったという常識的な見方が妥当ではないか。
それはともかく、資本主義が投資による生産拡大として特徴づけられるというのは、いわば当たり前の見方であるが、改めて強調されると新鮮に感じた。そして、直前に読んでいた『人新世の「資本論」』(斎藤幸平、集英社、2020年)を連想した。斎藤は資本主義が利潤動機によって拡大し続けるとみなしている。メカニズム解釈の微妙な違いはあるものの、両者とも資本主義の生産拡大がやむことはないという点では一致する。そこから意見は分かれる。
斎藤は、生産の拡大が環境破壊を引き起こし、人類の存続を脅かすようになっているので、環境破壊を止めるために資本主義を廃すべきだと主張する。
ハラリは「生態系の大きな混乱は、ホモサピエンス自体の存続を脅かしかねない」(下183頁)が、「それでもやはり、私たち人類が絶滅するという風説は時期尚早だ」(下184頁)と言う。また、「多くの人が、この過程を『自然破壊』と呼ぶ。だが実際には、これは破壊ではなく変更だ。自然はけっして破壊できない」(下183頁)と皮肉を忘れない。ハラリは科学が私たち自身を操作的に進化させる可能性に注目しているので、それを切り札にしているのかもしれない。
さて、この種の本を読むたびに思うのは、人間というのはやはり特殊な生物種であるということだ。優れているとか繫栄しているというのは、見方によって異なる。ただ、他の生物に大きな影響を与えたことは確実だ。絶滅させた種も少なくない。食材になった植物や家畜となった動物は数を増やしたが、彼らの生活を繫栄と呼べるかは疑問だ。もちろん、私たちと共生したり私たちに寄生する生物(ネズミやゴキブリも含めて)にとってはよい影響だったのかもしれないが。
なぜ人間という種が地球環境を変化させるまでに進化したのかということについては、その経過をたどることはできても、究極的な「なぜ」は私たちには解けない疑問だろう。宇宙の生成と消滅の過程において何らかの役割を果たしているのかもしれないし、あるいは、単なる物質的要素として以外の意味はなく存在しているだけなのかもしれない。
そんな無駄なことを人間は考えるというのも不思議なことである。