アイン・ランドと経済危機
『エコノミスト』のウェブ記事(09年2月26日)でランドの『肩をすくめるアトラス』が売れていることをたまたま知った。この記事の最初の印象は、因果関係がねじれたような、不思議な感じであった。
ついでながら、この小説の翻訳(『肩をすくめるアトラス』脇坂あゆみ訳、ビジネス社、2004年)の題名は内容をうまく表現できていない。「肩をはずす」とか「肩をひっこめる」とかの方が適切であろう(題名として適当かどうかは別として)。この本の主張は、才能ある少数の人々(主として企業家)が世界を支えているのに、そのことに感謝もせずにさらにもたれかかろうとし、そうすることを正当と考える人々に対する非難である。物語としては、そういう才能ある少数がサボタージュをして世界を混乱させ、彼らの価値を認めさせようとする、というものである。つまり、世界を肩で支えていたアトラスが、「やめた」と言って肩をはずしてしまうというわけだ。
ランドは、規制によって企業活動の自由を制限することや、経済行為で正当に稼いだ所得を税金などによって再分配することに反対する。彼女(そう、ランドはロシア出身の女性である)は、彼女自身は認知していないようだが、リバータリアンとみなされるだろう。だとすれば、現在の危機の元凶とされるような人々の一人であり、そういう人間の著作になぜ人気がでるのだろうか。
記事をよく読むと、理由が分かった。アメリカ政府が市場介入的な政策を打ち出す度に、売れ行きが伸びるらしい。つまり、破綻しそうな金融機関・企業や債務に苦しむ個人を税金を使って救済することに対する反発が、ランドを読ませるのだ。『肩をすくめるアトラス』では、才能ある人々や優秀な企業が消え去って危機になり、残った非効率的な企業が生き残ろうとあがいて厚かましくも政府の援助を引き出そうとする。その描写が現在のアメリカに似ていると、読むことを勧めるサイトがあるのだ。
これは理解できないことではない。日本でも、住宅金融専門会社(住専)処理の際、農林系金融機関に対する優遇策が、税金を使った救済策への反発を引き起こした(それが影響して銀行への資本注入が遅れてしまったと言われている)。ましてや、システムの破綻を避けるためには個々の金融機関や企業を国家が救済することはやむを得ないという論理は、リバータリアンにとっては社会主義に他ならないのだから。
では、リバータリアンは今回の経済危機の原因について何と言っているのだろうか。ランドの弟子というか取り巻きの一人であった、前FRB議長のグリースパンさえもが自分の過ちを認めているではないか。しかし、リバータリアンはグリーンスパンを批判するだろう。彼は金融政策を濫用して経済活動をゆがめ、結果としてバブルを招いてしまった。不況を怖れるあまり、自由放任を堅持しえずに介入に手を染めた、と。
とはいえ、金融自由化をグリースパンが肯定していたのは事実らしい。今回の経済危機の原因が何であれ、金融危機が根幹にあったのは間違いがなく、金融危機をもたらした大きな要因として金融自由化があげられるだろう。ところで、ランドには金融への言及がない。彼女の小説に登場するのは、建築家、新聞業者、鉄道業者、製鉄業者、鉱山業者、発明家など、産業資本主義的な人々である(銀行家も出て来るが端役でしかない)。今日の発達した金融システムは、当然のことながらランドの視野に入っていない(『肩をすくめるアトラス』の発刊は1957年)。
マネーによってマネーを産むという仕事をランドがどのように評価したかは想像するしかない。彼女は金本位制支持者であり、不換紙幣に否定的である。だとすれば、実体の裏付けのないマネーゲームは嫌ったのではないか。一方、金融取引の知的で冒険的な側面は好んだかもしれない。
金融取引ではリスクテイクによって利益を得る。ハイリスクであってもその確率が分かっていれば、それに見合ったプレミアムがつけばいい。個々の事象の相関を測ることができれば、リスクを分散したり相殺したりして、比較的安全にリスクテイクができるだろう。それでも敗者は出る。ただし、ゼロサムゲームで敗者がいるということは、その裏に必ず勝者がいるということだ。しかし、リスク確率が狂ってしまったり、リスク事象が全て同じ方向に動いてしまうような場合には、勝者はいなくなり、敗者だけになってしまう。
さて、そういう世界があったとしても、その世界が独立していて、他に大した影響を与えなければ、どうってことはないだろう。賭博場のようなものである。そこで儲けたり損をしたりする人がいようとも、賭博場の外への影響は微々たるものである。賭博場が火事になって、胴元を含めた参加者全員が大損をしようとも、それはそれだけのことだ。しかし、金融市場の崩壊は実体経済に大きな影響を与える。
金融の発達は、生産者や消費者の一時的な資金不足を補ってくれることによって、私たちを豊かにしてくれるはずだった。しかしそれは同時に、金融取引による利益の膨大な機会を発生させることによって、市場の不安定さを増すことになった。
今回の経済危機においては、自由化やグローバリズムが大きな要因となっていることは確かだろう。しかしリバータリアンにどの程度の責任があるのか(あるいはないのか)はよく分からない。彼らは、危機の原因は自由化・規制緩和にではなく、自由化・規制緩和の不十分さや市場への国家介入にあると主張するだろう。FRBが手出しをしなければ、多少の不況はあっても、これほどの危機は起きなかったのかもしれない。経済を人為的にいじると、しっぺ返しを受けるのかもしれない。あるいは、彼らの主張とは逆に、政府が何をしようが、どの道起こることは起こったのだろうか。
サッチャーの言ったように(そしてたぶんランドも同意すると思うのだが)、社会などというものはなく、あるのは個々人だけかもしれない。しかし、システムは存在する。私たちは他人の行動の結果に影響を受けざるを得ない。たとえ見ず知らずの他人であり、その結果に対して私たちには何の責任がなくとも。私たちは一蓮托生なのであり、個々人の努力や才能や運によって多少の差が付いても、全体として見れば大したものではない。ランドの信頼する個人は、順調な市場では努力や才能や運によって自らの道を切り開けるかもしれないが、経済危機は個人ではどうしようもない。ただし、政府が何かをできるかというと、それも怪しいのだが。