遭難
彼はどのくらい歩いているのか分からなかった。たぶん、時間的にはとても長く、距離的にはほんのわずか。方向も分からぬままに歩くことがはたして対処法として何らかの意味を持つのかも分からなかった。ただ歩くことだけがなしうる唯一のことだというだけの理由かもしれなかった。体温が奪われ感覚は失せていた。雪とともに疲労が体の動きを妨げる。
不思議と思考だけはそれらの状況とは関係無しに自動的に続いていた。内容はとりとめもなく、前後の関連が顧慮されることもなく。もしここからぬけ出だせたら二度と山には登らないことにしようと決心した。そういう決心ができるように早く帰りたいと思った。駅前の屋台で食べたそばのことが気になった。登山口行きのバスが出るのであわてて半分ほど食べ残してきてしまったのだ。こんなことなら全部食べておくのだった。月曜日に帰れないとしたら、あの書類の提出期限が守れなくなる‥‥
彼は機械的に左足を出した。予想した雪の抵抗がなくてよろめいた。左足は何か堅いものの上で止まり、彼はふんばったが、勢いで二、三歩進んだ。風がやんだ。物陰に入ったのかと彼は目を上げたが、その前に足元の雪がなくなっていることに気づいていた。
視界は回復していた。しかし、そこに見える風景は予期せぬものだった。彼がいるのは雪と岩の世界ではなく、繁華な街のまん中だった。彼は最初幻覚かと疑った。幻覚にしては細部にいたるまであまりに明瞭だった。彼はこの街には見覚えはなかった。もし幻覚であるならば記憶にあるはずだ。あるいは意識のあずかり知らぬ記憶が作用しているのかもしれない。
彼の異様な姿をじろじろ見ながら脇を人が通り過ぎていく。装備に着いた雪が溶けて流れ出す。足元の敷石に水がしみていく。暑い。
彼はようやくこの街の実在を信じた。理由は分からないが、山の上からこの街へ瞬時に移動したらしい。彼は助かった。
しかし、なぜ人々は彼に一べつするだけの関心しか示さないのだろう。彼はまさに死にかけていたのだ。せめてなぜ彼がそこにいるかぐらいは問いかけてくれてもいいのではないか。そして、彼をねぎらい保護してくれるべきではないか。
ここにいる人たちには大気が人を殺す世界など思いもよらぬのだろう。彼の陥っていた困難などとうてい知ることはないのだろう。安堵の気持ちが次第に違和感に変化する。馬鹿にされたような怒りがこみあげてくる。
彼は回れ右をして一歩踏み出す。二歩、三歩、すると彼は深い雪の中にいる。彼は再びラッセルしながら進む。体温が急速に奪われていく。相変わらず思考は勝手に滑り出ていく。彼はもはや何も見ていない。疲労した体がものうげに動かされる‥‥