井本喬作品集

平等世界 Ⅰ

 刑事はベッドの傍のいすにすわって窓の外を見ていた。前庭では五月の光の中で患者達が散歩を楽しんでいた。病院の敷地を限る柵の向こうの通りを時おり車が通る。その他に彼の目を引きつけるものはないはずだった。

 ベッドの中の娘には空しか見えない。いずれにせよ娘は窓の外を見ようとはしていない。彼女の目は刑事に向けられている。もし刑事がその目を見たなら、そこから様々な意味が読み取れただろう。敵意、不安、哀願、恐れ。刑事はそれを避けようとでもしているかのように、先ほどから窓の外を見続けていた。

「事故です」

 沈黙に耐えられなくなって娘は言った。

 刑事はその声で娘の方を見た。娘の顔の半面は包帯に包まれていた。刑事は持っていた書類つづりを広げた。

「事故の状況を話して下さい」

「もう何度も話しました」

「もう一度だけお願いします」

「顔を洗う時に熱すぎるお湯を使ってしまったのです」

「どこでですか」

「家の洗面台です。給湯のお湯の温度を上げ過ぎてしまって」

「洗面台に湯をはったのですね」

「そうです」

「そのとき湯の状態に気がつかなかったのですか」

「仕事に遅れそうなので、あわてていましたから」

「湯に手を入れてみなかったのですか」

「入れました」

 娘は包帯にくるまれた両手を少し上げてみせた。

「手を入れてやけどするくらいの湯で顔を洗ったのですか」

「急いでいたのです。お湯をためる間に朝食の準備をして、お湯がたまったのでとっさに手ですくって顔にかけてしまったのです」

「顔のやけどは主として左側面なのですが、あなたはいつもそういう顔の洗い方をするのですか」

「手が熱さを感じたので、反射的に顔をそむけようとしたのだと思います」

「全てに説明がつくわけですか」

「嘘はついていません。何度も聞かれましたから、すぐに答えられるようになりました」

 刑事はしばらく間をあけるつもりだろう、わざとらしく書類をめくった。娘が体を動かすかすかな音がした。

「あなたはタレント予定者でしたね」

「そんなことは関係ありません」

「毎年この時期になると不思議と若い人の事故が増えるのです。手や足を損傷したり、耳や鼻の一部がちぎれたり、あなたのようにやけどをする。昔はやけどの部位は手足が多く、形成医学の発達に伴い頭部に移ってきた。今は頭髪の一部を失うのがはやりだ」

 娘は黙っていた。

「故意と認定されたときの処罰は知っていますね」

「事故なんです、わざとやったんじゃありません。信じて下さい、お願いです」

 刑事はまた窓の外を見た。遠目には患者達はどこが悪いのか分からない。あの服装は患者には違いないのだろうが。

「タレントになるのを免れようとして故意に自分を傷つけた者を見逃すわけにはいかないのです。タレントになることを素直に受け入れた多くの人々に対して不公平になりますからね。そんな自分勝手な人はたとえタレントの対象とはならなくなったとしても、放ってはおけないのです。それは分かりますね」

「分かります」

「あなたたち若い者がタレントの意義を十分理解出来ないのは当然かもしれません。タレントというのは、平等な社会という理想の実現のために、人間がその生物的限界を乗り越えようとする努力の一つなのです。貴重な資源を個人が独占すれば、羨望が争いを招く。そのような過去の歴史を繰り返してはならない。たとえその資源が個人に備わっているものであっても、それは社会のものとみなさなければならない」

「ええ、そのことは教わりました」

「あなた達の全てを捧げろというわけではない。一生のほんの一時期、しかも限られた時間を提供してもらうだけです。もちろん代償は支払われる。それでも嫌だという人間は、非常に利己的で、反社会的な性向があると判断されます」

 刑事と娘はしばらくお互いの顔を見つめていた。ふいに刑事は書類つづりを閉じて立ち上がった。

「事故と認定しましょう」

 娘は一瞬とまどい、すぐに喜びの表情になり、次にそれを隠そうとした。

「ありがとうございます」

 刑事はベッドから離れてドアまで歩き、ドアを開け、そこで動作を中止して振り返った。

「あなたの傷はそんなにひどくはなかったのですよ。治療すればほとんど元通りになるそうです。あなたは依然としてタレント予定者です」

 刑事は部屋を出てドアを閉めた。部屋の中で叫び声が起こった。

 山の緑は濃さを増していた。ふもとの林の中の道を青年と娘が歩いていた。道は林を抜け、川の脇の草原に出た。二人は川の傍へ行き、腰をおろした。娘は流れに手を浸した。

「いい気持ち」

 青年はひねられた形の娘の体を見ていた。娘が顔を向けたとき、青年はあわてて表情を変えたが、娘は一瞬早くそれを読みとっていた。娘は少しの間を置いてから、思いきったように言った。

「私、タレント候補になってしまったわ」

 青年は驚きもせずに答えた。

「やっぱり。君はきれいだから」

「どうすればいい」

「どうしようもないじゃないか。君は選ばれるよ」

「私、嫌だわ」

 青年は小石を拾い上げて小川に投げ込んだ。先ほどまでのおどおどしたような態度は消え、陽気にさえなっていた。

「仕方がないさ」

 二人はしばらく黙ったまま流れを見ていた。娘が言った。

「あなたともこれでお別れね。あまり親しくならなかったのはかえって幸いだったかもしれない」

「どうして」

「私、タレントになってしまうのよ。そんな女、嫌でしょう」

「僕はかまわない」

 娘は青年を見た。青年の気持ちがつかみきれないので娘は迷った。娘は立ち上がった。

「行きましょう」

「急ぐことはない」

 青年は娘の手を取って引き寄せた。娘は青年の上に倒れ込んだ。青年は娘を抱こうとした。娘は逃れようとした。二人はしばらく争った。思うようにならない娘を青年はののしった。

「どうせ君はタレントになるくせに」

 娘の顔がゆがんだ。

「あなたもそんなふうに思っていたのね。誰だってそうとしか私を見られないのね」

 青年は薄笑いを浮かべて娘を横たえた。娘はもはや抵抗しなかった。

 彼の前に五人の娘がすわっていたが、彼はその中の一人しか見ていなかった。彼はその娘がどんな場合にどんな表情をするか、どんな声を出すか、どんな仕種をするか、どんなことを言いどんなことを思うかまで知っていた。移り気な彼女の関心を彼はつなぎ止めておくことはできなかった。急に冷たくなった彼女。あなたといると退屈なの。棄てられた男としてのお定まりのみじめな行動をひと通りやったあげく、彼女を殺して自分の未来をドブに捨てるようなことまではできないと諦めたのだ。

 タレント選考委員に選ばれて選考会に出るまで、彼は彼女がタレント候補者になっているとは知らなかった。不正防止のためタレント候補者やタレント選考委員についての情報は極秘にされていた。タレント候補者とタレント選考委員の関係は調査され、何のつながりもないことが確認される。彼と彼女の短い付き合いは把握されなかったようだ。誰も気にとめるような出来事ではなかったのだ。彼を除いては。

 タレント候補者はタレント選考委員を忌避する権利があるので、選考会で五人の候補者と五人の選考委員は対面した。彼女は彼に気づき、彼を見つめた。その目が訴えかけていることを彼は理解していた。彼女は彼の好意を当てにしているのだ。彼女を見たとたん、彼は過去の自分の決意が間違っていたことを悟った。彼女を得るためなら、つまらぬ未来などドブに捨ててもよかったのだ。

 選考委員達は五人の中から一人を選ばねばならない。同じような選考会が各地で行われている。何千人もの娘達の運命を決めている。彼等はこの忌むべき作業を早く切り上げたがっていた。しかしいいかげんな決定はできない。誰もが納得できるような結果でなければ委員の誠実性が疑われる。このことにからむスキャンダルは委員に深刻なダメージを与える。委員達は自分の意見を述べることに慎重になっていた。委員の誰かが強引に主張すれば、他の者は決定の責任負担を軽くしてくれたことを感謝して、逆らうことなく従うだろう。

 彼は自分の手に彼女の運命が押し付けられたのを知った。ここで彼女を救ったら、彼女は彼のものになるだろうか。彼女の目はそう約束している。しかし、彼女の約束は心底からのものではあるまい。たとえ今はそうであっても、危機が去れば彼女は過去に捕われないだろう。彼女が彼の手の中にあるように見えるのは幻想に過ぎないのだ。彼の力が不必要になれば、あのときのように、何のやましさも感じずに彼女は彼を拒否するだろう。彼は彼女を失いたくはなかった。彼は彼女を愛していた、深く、深く。

 彼は彼女を選んだ。

 二人は丘を越えて道路に出た。黙ったまま二人は歩いた。青年は娘の沈黙を気にしていたが、明らかに勝利を得た顔つきだった。結局、何の心配もないのだ。この気まずさだってうまくさばくことができるだろう。

「君がタレントになるからといって、僕は気にはしないさ。君のことを嫌いになったりしない。君がタレントになるということは、君が美人だからだ。タレントにならない女なんて、相手にしたいとも思わない」

 道路のカーブから車が姿を現わした。車には若い男が三人乗っていた。車は二人のそばでスピードを落とし、一人が窓から身を乗り出して叫んだ。

「ハアイ、一緒にどう」

 彼等はふざけているだけで何の期待もしていなかったが、突然娘は車に駆け寄った。車は少し行き過ぎてから停まった。ドアが開いて娘を呑み込んだ。取り残された青年は去っていく車を見送るだけだった。

 車の中で男達の歓声に囲まれながら、娘は思っていた。どうせ私はタレントになるんだわ。だったら、何をしようとかまわないんだわ。車は音をたてて曲がった。

 刑事はベッドの傍に立っていた。包帯を取り去った娘の顔は穏やかだった。その顔に再び布をかけて、刑事はベッドを離れた。部屋の入口に一人の若い医者が立っていた。刑事はそれを無視して部屋を出た。医者は部屋のドアを閉め、刑事と並んで歩き出した。

「あなたは、このようなことをどう思っているのですか」

 医者の問いかけに刑事はすぐに答えなかった。病院というのはいくら清潔であっても好きになれない。この臭いのせいかな。

「このようなこととは?」

「あの娘の死や、タレントについてですよ」

「どうしてその二つを結びつけるのですか」

「だって、はっきりしてるじゃありませんか‥‥」

「いえ、少しもはっきりしてませんよ。私たちはあの娘についてわずかのことしか知りませんからね」

「じゃ、自殺の原因は他にあると言うのですか」

「そうは言ってはいません。ただ、タレント予定者になった娘の全てが自殺するわけではないと言っているのです」

 医者はしばらく間をおいてから言った。

「しかし、何か他の方法があると思うんですが‥‥」

「整形手術の発達も解決にはならなかった。有利な者がより有利になっただけだった。むろん、われわれだって現在の制度が完全無欠だとは思ってはいない。しかし、今のところ他に方法がありますか。それとも」

 刑事は立ち止まり、医者と向かい合った。

「それとも、あなたはこの制度の理念自体に疑問を持っているのですか」

 医者は狼狽した。

「そんなことはありません。ただ、私はあの娘が哀れに思えたから‥‥、それだけの理由です」

 刑事と医者は再び歩き出した。もはや医者は何も言わなかった。彼等は一階のロビーで別れた。刑事は出口へ向かいながら思った。

 権力や富というのは不平等の源であったのだが、同時に肉体的不平等を打ち消す作用もあった。そのような不平等の一方の源泉が存在しなくなった今、肉体的不平等を是正するものは何もない。だから、われわれとしては、こうする以外にはない。いずれにせよ、欠員は補充されなければならない。タレントは存在し続けねばならない。美しい者が特権者であった時代を再びもたらしてはならない。美しい者は宿命を受け入れねばならない。美しい者は社会に奉仕しなければならないのだ。

 刑事の姿は病院の外へ消えた。

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