ピノキオ
私はいつの間にか寝てしまったらしい。ソファの背に頭を載せ、口からよだれが流れ出ていた。あわてて手で口をぬぐった。テレビは下らぬサスペンスを始め出していて、妻は息子をスマホから引き離そうとしていた。
「それを買ってあげるときに約束したでしょ。ちゃんと時間を決めて使うって。約束が守れないなら、解約してしまうわよ」
息子はうだうだと言い訳めいたことを言っているが、妻は聞く気など毛頭ない。もう少し優しく言い聞かせた方がいいと思うが、私が介入すれば矛先はこっちに向けられるだろう。そんならお父さんが言って下さいなと、どうせ出来っこないのだから余計なことは言うなという口振りで。
妻はいつからあんな風になったのだろうか。若い頃は違っていたように思えた。それがいつの間にかステロタイプの教育ママになっているのだ。夫の代わりに息子に希望を託そうというのだろう。彼女が私に失望したのは仕方がない。彼女が見込み違いをしたように、私も予想を過った。私の勤めた企業が社会の急激な変化でこれほど早く衰退するとは思っても見なかった。専門的な知識と技術を見につけて優秀な企業の正社員となったからには、一生安定した暮らしができるはずだった。自分がリストラの対象になるなんて、今でも信じられないくらいだ。
貯金や退職金などで、いましばらくは金銭的に困ることはない。だがいつまでもこうしているわけにはいかない。それは分かっていた。分かっていながら、次に進めなかった。妻は私には何も言わないが、私が打ち倒されたまま立ち上がろうとしないのを許せないのだ。妻が常に傍らにいるのを意識させられながら、事態が傾斜にそって滑り落ちていくのを眺めているのは、冷酷な喜びのようなものを与えてくれる。
妻は息子からスマホを取り上げてソファに戻ると、私に一べつをくれ、黙ってテレビを見だす。この冷淡さの責任は私にある。だから私は怒りはしない。暗闇の中で定かならぬお互いの体を抱き合うとき、私たちは結びつく唯一のものを見出すのだ。
深夜、廊下の物音で目がさめた。時計を見ると二時過ぎだ。私は妻を起こさぬようベッドから抜け出し、ドアを開けた。身支度をし、デイパックを持った息子が外へ出ようとしている。遂に来るべきものが来たと私は思った。この幼い身で家出とは。
私はそっとドアをしめ息子に近づく。見上げた不安そうな目が一瞬やわらぎ、それから困惑に変わる。私は黙って傍にひざまずき息子の視線の高さに合わせる。だが、何を言えばいいのか。何もしようとしなかった自分の責任を差し置いて。
「どうしたんだい」
「ううん、どうもしないよ」
「こんな真夜中に、どこへいくの」
「ちょっとね」
「お父さんに話してくれないか」
「大人には話せないんだ」
私は気づいた、息子が少しも悪びれていないのを。すると、家出ではないのか。何かちょっとした仲間同士のいたずらに参加するだけにすぎないのか。
「こんな時間に外へ出てはいけないよ」
「僕、行かなきゃならないんだ」
「わけを話してごらん」
「‥‥‥‥」
「わけを言わないと出してあげることはできない」
「わけを言ったら行かしてくれる?」
私は間をおいた。約束するのは簡単だ。しかし、彼を騙すことになるかもしれない。
「わけを話したら行かしてあげよう」
「きっとだね。約束する?」
「約束する」
「それじゃ話したげる。今日の夜、いつでもスマホで遊べる国に連れてってくれる馬車が来るんだ」
「何、それ」
「詳しいことは分からないけど、そうなんだ」
「そんな馬鹿な話、誰から聞いたんだ」
「スマホが教えてくれた。みんな知ってるよ。みんなと行くんだ」
「お前ももう大きいんだから、そんな話が嘘っぱちだということは分かるだろう」
「本当だよ。信じてくれなくてもいいけど」
私はその悟りぐあいにぎくりとする。言い方を変えなければならない。
「馬車にはどこで乗るの」
「あっちの方だよ」
「あっちって、公園の方か」
「よく分からないけど、行けば分かるんだ。さあ、もう行かしてよ。約束したろう」
「もう少しお待ち。お前、お父さんやお母さんを放って、一人で行ってしまうのかい」
「しばらくの間だよ。みんなが一緒だからさびしくないよ」
そうか、私たちには引き止める力もないのだな。
「分かった、行っておいで」
息子の顔が信じられない戸惑いから、すぐに明るく輝いた。
「本当。本当だね」
「ただし、少し待っておいで。お父さんが見送りに行くから」
息子が何か言いかけるが、私は断固として言う。
「見送るだけだ。それならいいだろう」
これぐらいな嘘なら許してくれるだろう。もし許すものが存在するならば。
私は手早く着替えると、息子と一緒に外へ出た。ひどく寒く、見上げれば星がきれいだ。息子の後について歩いていくと、たくさんの小さな影が同じ方向へ歩いている。深夜の通りに子供達の群れ。私は恐怖をおぼえ、息子に話しかける。
「ピノキオの話を聞いたことがあるだろう」
「知らない」
「お母さんから聞いていないのかい」
言ってから、いつも妻に責任をかぶせようとする自分に気づかされた。私自身も、おぼろげな筋は知っていたが、ピノキオの話は読んだことがなかった。
「ピノキオはロバにされちゃったんだよ」
だが、息子は耳もかさず、走るように先を急いでいる。公園の向こうの小高い丘を子供たちはぞろぞろと登っていく。私は不確かな足もとに気を取られているうちに息子を見失った。あわてて滑り転びながら息せき切って登ってみると、驚いたことにそこには金色に光る巨大な球体があった。底部の小さく見える黒い穴に子供たちが列になって入って行く。
近づいてみると入口にはクリップボードのようなものに鉛筆のようなものでチェックをしている男がいた。つなぎの作業着のようなものを着た、中肉中背の中年男だ。途切れなく続く子供たちの顔とクリップボードに交互に素早く目をやり、まるで身元を瞬時に判別しているかのようだ。私はその作業を邪魔しないように傍に立って、話しかける隙をうかがった。男は一瞬私に目を向けたがそのまま作業を続けた。
「大人は駄目だよ」
突然男が言った。クリップボードのリストらしきものと子供たちを比較することを続けたままで。
「息子が入ったようなので」
「誰」
私は息子の名を言った。男はクリップボードに一秒ほど目を止めた。
「来ているな。よし、入りたければ入ってもいい」
「本当に」
「もちろん。ただし、二度と帰っては来れない」
その言葉に私は立ちすくんだ。どういうことだろう。息子は「しばらくの間」と言っていたが、そうではないのか。この物体は子供たちをどこへ連れて行くのだろう。男はそういう疑問には答えてくれそうにない。
私はどうすべきなのか迷った。もし男の言うことが本当ならば、息子とともに行くべきだろう。そこがどういうところか確認するために、そこがどんな場所であれ息子を保護するために、そして、可能であるならば元の世界へ息子を連れ戻すために。だが、私自身がそこへ連れ去られたままになってしまうのは困る。今の生活が惜しいというのではないが、少なくともそれは馴染みのある世界で、未知の恐ろしさはない。
男は私の決断をせかすことなく、子供たちのチェックを続けている。やがて子供たちの列が途切れ出し、集まってくる子供たちがまばらになった。間をあけて何人かの子供たちが来た後、男は腕にはめた時計のようなものを見て言った。
「どうする」
私はひるんだ。男は私の顔を見つめてから身をひるがえして穴の中に入っていった。穴の中から男の声がした。
「出発するから、離れるように」
穴が収縮するようにしてなくなった。私は言われた通りに丘を下った。金色の巨大な球体は音もなく浮かび上がり、急速に上昇し、星々の間に消えてしまった。私は空を見つめてたたずんでいたが、仕方なく、しばらくして家に帰った。