井本喬作品集

またたび

 Mと二人で帝釈峡へ行った(2003年6月15〜16日)。一泊で旅行をしようと行く先を探していて、よく名を聞くがまだ行ったことがないこの名所に思い当り、紅葉の時期ではなかったが訪ねてみることにした。地図を見てルートを考える。帝釈峡は中国自動車道の東城ICの近くだが、手前に満奇洞がある。(井倉洞は行ったことがある。)地図のその辺りには以前に何かで知って行きたいと思っていた鯉が窪湿原の書き込みがある。帝釈峡の北には比婆山があり、さらにその北ではタタラが見られるはずだ。(司馬遼太郎が『街道を行く』の「砂鉄の道」でこの地方を取り上げていたのを読んだ。)どこまで行けるか分からないが、現地へ行って決めよう。

 中国自動車道を津山で下りた。津山に寄る予定はなかったが、あと一分もしないうちにインターチェンジを通り過ぎるところで、私はMに津山に行ったことがあるかと聞いた。Mがないと答えたので、Mに津山を見せたくなった。私は高速道路から外れて料金所へのカーブへ車を入れた。どっちにしろどこか手前で高速道路をおりるつもりだった。目的地に着くまでに時間は十分あった。

 私は津山を馴染みのように感じていた。しかし、よく考えてみると、私は津山に住んだこともないし、しょっちゅう訪ねたわけでもない。一時岡山に住んだことがあって、仕事で近くへ来ることや、山陰に遊びに行く時に通り過ぎることが時たまあった。それで何となくよく知っている気がしているだけなのである。吉井川をわたって津山の市街地へ入り、鶴山城を目指す。ずっと以前、人形峠に行った帰りに鶴山城の夜桜を見て、その印象が強く、数年後の桜の時期に母を連れて行ったことがある。そのとき、城内の一画にある小さな動物園で孔雀を見た記憶がある。文化センターの駐車場に車を停めて城内に入ると、まだ動物園はあり、孔雀もいて羽を広げていた。(もちろん以前に見た孔雀ではないだろう。)普通の孔雀だけではなく白孔雀や孔雀バトがいた。孔雀の他にはキジなどの野鳥、たぬき、アライグマや、いのししも一匹いた。しかし、そんなに多くない檻のいくつかは空いていて、いまいたるところ起きているこのような小さな施設の消滅の気配を感じさせる。城は石垣だけが残っているのだが、楼閣の一部を復元する工事をやっていた。

 衆楽園を見物して西へ向かう。181号線、313号線で北房へ、北房から井倉洞への道をとり、満奇洞に寄る。もとは槙洞と表記していたのだが、与謝野晶子が「奇に満つ」と詠んでから満奇洞としたらしい。いい改名とは思えない。満奇洞の少し先に羅生門というのがあるので行ってみた。駐車場から谷を下っていくと巨大な岩の門がかかっている。崩れた鍾乳洞の一部が露呈したものという解説がある。帝釈峡にも同じ形態のものがあるが、訪れる人も少ない山の中にあるこの岩には、私たちの勝手な思い込みではあるけれど、人間の観賞などに影響されない超然としたものを感じてしまう。そこからさらに西へ、井倉洞は通り過ぎ、新見を通って哲西町へ。

 哲西町に入ると182号線の両側に黄色い花がずっと植えられている。名前は分からないが、派手な色の背の高い花。(追記:後に調べてみると、この花はオオキンケイギクらしい。現在は特定外来生物に指定されているが、ワイルドフラワー緑化として道路の法面などによく使われていた。)

 鯉が窪湿原は哲西町にある。182号線沿いに道の駅が出来ていて、そこが湿原への分岐で、しばらく走る。駐車場と管理棟のあるところから鯉が窪池の堰堤までの谷は湿原を回復する整備がされている。鯉が窪池は江戸時代に作られた農業用水池で、湿原の大部分を沈めてしまった。湿原は池の周辺に残っている。池をめぐる回遊道を一周する。花の時期にはまだ早いせいか、ハンカイソウらしき(パンフレットの写真と照合して)花しか見つけられない。花の種類は多く、サギソウや町の花となっているオグラセンノウも咲くらしい。

 私たちは見に行かなかったが、哲西町の二本松峠には若山牧水の歌碑がある。牧水は、明治40年6月から7月に、岡山から高梁を経て新見に、新見から東城へと二本松峠を越え、南下して福山方面へと国道180号線、182号線のルートを歩いたようだ。(ただし、二本松峠は旧道にあり、182号線は通っていない。)牧水が新見に寄ったのは、田山花袋の『布団』のモデルとなった女性の出身地であるという興味から、福山方面を目指したのは、恋人である園田小夜子の居住地である沼隈郡鞆町の地を踏みたかったからということだ。園田小夜子は夫と子供を置いて上京し、牧水と出会った。

 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴らしつつあくがれて行く
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく  

 牧水は岡山と広島の県境にある二本松峠でこの歌を詠んだ。私はその場所が鳥取か島根だろうと思っていた。「中国を巡りて」という前書きで、何となく山陰地方だと思い込んでいたのである。

 その日は国民休暇村に泊まり、翌日、小雨模様の帝釈峡に行く。季節はずれであるのと朝が早いせいか誰もいなかった。降ったりやんだりする中をソーメン滝まで往復した。川に沿って下っていく道。白雲洞、鬼の唐門、鬼の供養塔、雄橋などの石灰岩の造形がある。雨に濡れた木々の緑にうすいもやがかかっている。すんだ鳥の声が聞こえる。カジカも鳴いている。淵を見下ろすと大きな魚影が見えた。

 駐車場に戻る手前で白い葉を見つけた。中国自動車道を走っているときから白い花のようなものが目につき、気になっていた。中国道を降りて山中の道を走ると、度々見かけ、それが花ではなく葉の一部が白くなっているのが分かった。私たちが白い葉をながめていたとき、先ほど周遊路で見かけた公務中らしい三人連れ(ヘルメットをかぶっていて、技術者のようだった)が通り合わせた。観光地で仕事をしている公務員なら知っているだろうと変な期待を持ち、「これは何という植物ですか」と私が聞くと、そのうちの一人が「またたびです」と答えた。受粉期になると葉が白くなると説明して、葉に隠れた花や実を見せてくれた。またたびという植物をそれと知って見たのは初めてだった。

 駐車場の隅に観光用の馬車を引く馬がいた。御者らしき人が馬の鼻をなでるように私たちに勧めた。ばん馬のような体格の馬は頭に吊られたプラスチックのタライのようなえさ入れからえさを食べていた。馬はおとなしく鼻をなでさせた。御者らしい人は紅葉のときの混み様を話してくれた。車に戻ると、Mは馬具の当たるところに縟創のようなものが出来ていたと、馬の取り扱いについて憤慨した。私はその傷を見なかったが、一概に責めることはできないだろうと思った。「馬車を引く仕事がなければ、馬肉にされてしまうだろう」と私が言うと、Mは「馬車を引かなくても、馬肉にされなくてもいいような、別の生き方があるはず」と答えた。

 比婆山に寄る時間はなさそうだったので、帝釈峡から北上して横田へ行った。横田の「奥出雲たたらと刀剣館」は休館日(月曜)だった。日刀保タタラに行ってみたが、事務所の女の人に聞くと、タタラはその度に壊してしまうので今は建物しかない。タタラを作るのは冬だが、観光用ではないので見学は難しいとのこと。さらに奥にあるはずのかんな流し場を探してみたが、見つけることができなかった。

 西走して日南町へ出、伯備線に沿って新見まで南下する。新見から中国道に入って帰った。

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