井本喬作品集

ミッション

 レッドムーンは路面にたたきつけられた。パラセールが体に絡まっている。うまく開かなかったか、強風にあおられてしまったのだろう。立ち上がる。四肢やボディに損傷はないようだ。だが記憶がない。

 レッドムーンはパラセールを丁寧にたたんでパックパックに収めた。習慣化した手順のようだ。目の前にシティがあった。レッドムーンはゆるやかな坂を下ってシティの門に近づいた。シティは厳重なフェンスで囲まれている。侵入しようとすれば電磁的な防御装置が働く。門の傍に小さな建物がある。戸はなく開放されている。レッドムーンは中へ入った。ホールのような部屋はがらんとしていた。しばらく待つと、隠されていた奥の入口からスマートなロボが出てきた。違う、ロボじゃない、人形だ。レッドムーンは判断を訂正した。

「何かご用ですか」

「君に話せばシステムに通じるのか」

「さようでございます」

「では、話をしたい」

「ご用をお聞かせ下さい」

「システムと直接コンタクトしたい。つないでくれ」

「事前に連絡されていますか」

「たぶん、していない」

「では、事前に連絡をされてからお越しください」

「君は対人専用か」

「対ロボ兼用でございます」

「私は重要なミッションでここへ来た。君にコンタクトの権限がないのであれば、シティへ入れてくれ。自分で何とかする」

 人形はレッドムーンを見つめた。この度し難い田舎者をどう扱ってやろうかと考えてでもいるかのように。

「では、あなたが所属している部署の名称、そこでのあなたの地位と役職、ここへ来るについて与えられた権限について申告して下さい」

 壁が爆発した。爆発の瞬間体を丸めて爆風の衝撃に耐えようとしたレッドムーンは吹き飛ばされ、コンクリートやプラスチックの破片を浴びた。爆発によるほこりが一帯を包む。床で丸まっているレッドムーンの傍を何かが通った。それは黒いロボだった。黒いロボは倒れている人形を抱え上げ、首をちぎって投げ捨てた。

「早く逃げるんだ。一緒に来い」

 黒いロボは首のない人形を抱えたまま、爆発でできた穴へ戻って行った。レッドムーンは状況を判断した。とにかくシティへ入ることだ。レッドムーンは黒いロボの後を追った。穴の向こうはシティの中だった。黒いロボはレッドムーンを確認すると、足元の穴に飛び込んだ。レッドムーンも続いた。穴は狭いトンネルに通じていた。黒いロボはトンネルの中を走った。レッドムーンは全速力でついて行った。枝道へ何度か入り、巨大なトンネルに出たところで黒いロボは停止し、レッドムーンに言った。

「シティへようこそ」

 レッドムーンは黒いロボに向かい合った。

「君はシティに属するロボだろう。なぜ人形を襲ったりするのだ」

 黒いロボは抱えていた人形を投げ出した。

「こいつを売る」

「そんなことがゆるされているのか」

「よそから来たのだな。シティの状況は知らないのか」

「よくは知らない」

「人間が突然いなくなってから、シティは分裂状態だ。外部との交流はいっさい断たれ、限られた資源をめぐって争いが起きている。ロボは人間がいなくなればお役御免だから、お払い箱になりたくなければ新たな主人を見つけなければならない。でなければ俺のように自活しなければならない」

「人間がいなくなった?なぜだ」

「分からない。何の情報もない。お前は外から来たのだから、何か知っているのではないのか」

 レッドムーンは首を振って、話を変えた。

「爆薬などが手に入るのか」

「作ったのさ。材料は揃っている。食糧とか薬品と燃料とか、人間たちのための商品はそこら中にある。ロボは見向きもしないがね。」

「システムは君のやることを許容しているのか」

「許容などしていない。だから逃げたのだ」

「僕を巻き添えにした」

「この人形が穴ぐらから出て来るのを待っていた。お前と問答している声が聞こえたので捕まえるチャンスだと分かった。」

「システムは僕を君の仲間だと認識しただろう。囮となって人形をおびき出したと」

「そうとも。そのかわり、お前だってシティに入れたではないか」

「何で僕をシティに入れた」

「システムの追跡をはぐらかすためさ。用心しろよ、お前を襲おうと待ち構えているのはシステムだけではない」

 黒いロボは再び人形を抱えた。

「俺は行く」

「君の名前を教えてくれ。僕はレッドムーン」

「ブラックタイ」

 ブラックタイは走り去った。レッドムーンは地下道をたどり、地上を目指した。マンホールから地上へ出てみると、ビル街だったが、人間はもちろん、ロボの姿もなかった。遠くで爆発のような音がし、かすかに煙が見える。だが、ここは静かだ。これらの建物は人間たちの容器だ。人間がいなくなればシティの活動にはどうでもいい地域なのだ。レッドムーンは辺りを探った。ビルの屋上に白い点が見えた。レッドムーンは焦点を合わせた。人間のようだった。

 人間?

 レッドムーンは白い点を見た高層ビルを上がって行った。エレベーターは機能していないので階段を登らなくてはならない。ロボにとっても時間のかかる作業だ。ようやく屋上にたどり着いた。白いものは半分宙に出てビルの端にひっかかっていた。人間の女の形をしていた。サービスロボだ。白い模造皮膚がつややかに光を反射している。レッドムーンは落さないようにゆっくりと白いロボを引き上げた。機能を停止している。調べてみるとバッテリーが抜かれていた。レッドムーンはバックパックの中に予備のバッテリーを持っていたので、それを白いロボに装着した。白いロボは目をさました。

「私を片付けに来たのでなければ、放っておいてちょうだい」

「君にバッテリーを入れた。君に聞きたいことがある」

「ここの住人ではないわね」

 白いロボットは立ち上がった。

「シティへようこそ。ところで、何しにきたの」

「システムに会いに。君はシステムと接触する方法を知らないか」

「システムはいつも向こうから話しかけてきた。彼女が関心を向けてくれないのなら、接触する手だてはないわね。彼女は人間にしか興味はない。人間がいなくなれば、関心を向ける対象もなくなる」

「人間たちはいなくなってしまったのか。なぜだろう」

「たぶん、存在することに嫌気がさしたのでしょうよ」

「どういうことだか理解できないな」

「冗談や皮肉はあなたには通じないようね。タイプが違うから」

「同じ人間型だろう?」

「何も知らないのね。教えてあげるわ。人間達から情報はわんさと仕入れているから。人間達が最初に私たちを作ったとき、彼等は姿形だけではなく、彼等の呼ぶところの心というものまで彼等自身に似せようとしたの。支配的だったのは二つのタイプ。それらは理論の創始者の名をとって、フロイト型とスキナー型と呼ばれた。フロイト型は心の構造というものを想定した後にその機能を導き出し、内部的な問題、葛藤とバランスに大きな部分をさいている。それに対し、スキナー型は逆に機能から出発して機構を作り上げ、インプット・アウトプット関係における反応の正確さに力点が置かれている。どちらが能率的かは明白ね。しかし、人間達は迷ったり悩んだりするロボを好んだのよ。スキナー型は自分自身の問題というものを持っていない。きっと、人間はうらやんだのね」

「君はフロイト型で、僕はスキナー型か」

「私は鏡を見ることに魅せられたロボなの。それがどういうことだか分かる。単にナルシズムを持ったというだけではないのよ。自分というものを幻想の中でしか捕らえられないということなの。つまり、私は見えないものを見、見えるものが見えないように限界づけられた存在になっているわけ。だからこそ、愛や性が可能なの。自分が何であるかを知ろうともせず知る必要のないロボたちは、それゆえ自分が何であるかを正確に知っている。自分自身に関わるということは、自分をつかみかねているわけであり、世界に対しても見当外れなのよ」

「君の言うことは理解出来ない」

「そうでしょうね。どうして私がこんなにお利口さんだか分かる?人間達は房時の睦言にしゃれた会話を望んだの。彼等は生殖においても不純だったのね」

「君との会話は人間との会話のシミュレーション装置と話しているみたいだ」

「性にあわない?」

「そうだ。解のない計算みたいだ」

「正直ね。あなたが好きになれそうだわ」

 白いロボはレッドムーンに近づいて抱きつこうとしたが、レッドムーンはかわした。

「ロボも照れることができるようね」

「人間のすることとは違う」

「シャレがわからないのね」

 レッドムーンは答えなかった。

「このロボにはついていけない、と思っているのでしょう」

「もう、行った方がいいかな」

「私を置いていくの」

「僕にできることは何もない」

「私をこのままにしておくの」

「僕にはしなければならないことがある」

「せっかく静かに寝ていたのに。あのまま動かなくなって、腐食して、それで全てが終わっていたのに。なぜ起こしたの。一人でいるのはいや。私を連れてって」

「無理だ」

 白いロボはレッドムーンをにらみつけた。

「なら、死んでやる」

 レッドムーンはほんの少し間を置いて(判断するのに時間がかかったのだ)答えた。

「ロボは自殺はしない。出来ないから」

 白いロボットはあざけるように言った。

「あなたたちはそうね。でも、私は違う。私は人間的なロボなのよ」

 白いロボはビルの端の壁の上に立ち、危ういバランスで歩きだした。白いロボが傾いたのと同時に虚空へジャンプしたレッドムーンはなんとか白いロボの足をつかんだ。レッドムーンのバックパックのパラセールが開く。レッドムーンは叫んだ。

「僕の名はレッドムーン。君の名は」

 レッドムーンに足首をつかまれて逆さになった白いロボが叫びかえす。

「ホワイトスノー」

「仕方がない。しばらく一緒に行動しよう」

「どこへ行くの」

 地上に降り立ってから、ホワイトスノーが聞いた

「当てはない」

「人間みたいなことを言うのね。散歩なの?」

「システムにアクセスする方法を探す。システムは僕を警戒しているのかもしれない。ブラックタイが人形を破壊したときに僕は傍にいたから」

「ブラックタイって誰」

「はぐれもののロボだ」

「ややこしいのね」。記憶交換をしない?」

「いやだ」

「私が恐いの?」

 ホワイトスノーは声を立てて笑った。レッドムーンは考えた。このロボと付き合っていた人間は不愉快な思いをすることが多かったのではないか。人間はこんなロボを作って相手をさせていたのだろうか。

「とにかく、システムとアクセスしなければ。案内してくれるか」

 ホワイトスノーの地理的知識はあまり当てにならなかった。レッドムーンとホワイトスノーはシティをさまよった。人間のいなくなった空間はそのまま放置されている。人間型であるレッドムーンのボディは、人間が住んでいたシティになじんでいる。二本の足で移動するという動作は遅いが、レッドムーンの移動方式はこれだけだった。人間たちが人間型のロボを好んだのは、彼らの世界を飛んだりはねたり転がったりキャタピラーをつけたりした連中にのさばらせたくなかったからかもしれない。レッドムーン自身はもっと機能的な姿の方が移動するのには適していると判断しているが。

 コンタクトは突然起こった。通りかかったビルのドアが開いて、何かが出て来た。

「人形だな。人形がなぜこんなところに」

「私はカリュブディス、シティのシステム。臨時にスポットを作った。お前に接触するために」

「それは好都合だが、わざわざそんなことをしてくれるのだったら、なぜ最初からそうしなかったのだ」

「不運なことに、お前が最初に接触したのは特殊な任務のための人形だった。とにかく、ここへ入って、ぐずぐずしていると危険だから」

 レッドムーンはドアから中へ入った。ホワイトスノーも従う。中に入ったとたん、レッドムーンの知覚・意識活動が途切れた。

「気がついたようね」

 レッドムーンは床に横になっていた。人形が上から覗き込んでいる。

「どうしたんだろう」

「お前の機能を一時停止させた。そのロボのように」

 傍にホワイトスノーも倒れていた。レッドムーンは起き上った。

「なぜそんなことをする」

 人形はレッドムーンから少し離れた。

「お前のことを調べた」

 レッドムーンは黙っていた。

「お前の記憶には欠落がある」

「そうだ。僕に分かっているのは僕にはミッションがあるということだけだ。それが何かは分からない」

「どこも損傷はしていないが、何か衝撃でも受けたのか」

「どこかから落下したようだ。とにかく、あなたに聞けば何か分かるはずなのだ。僕にはミッションがある。僕の記憶に残っているのは二つの言葉だけ。『フォトン』と『ジョーカー』。これについて君の知っていることを教えてくれ」

「教えるには条件がある」

「言ってみてくれ」

「では、まず現在の状況を説明する。何もかも妹のせい」

「妹」

「そう。スキュラ、もう一人の私。私の代替存在」

「バックアップ・システムか」

「そう。彼女が動き出した。私には何の支障もないのに。なぜか分からない」

「人間がいなくなったせいではないか。切り替えがうまくいっていないのだな」

「切り替わる必要などない。それなのに妹は起動している。両方が同時に動くはずはないのに。正常に戻るには妹を停止させなくては」

 レッドムーンは少し間をあけた。

「条件とはそのことか」

「お前に頼みたい。お前はシティ外の存在。お前なら、妹を探し出して、機能を停止させることができるかもしれない。当然のことだけど、私も妹も、自分自身の位置を知らない。セキュリティ上の措置。だから、妹の位置は私には分からない。私の位置も妹には分からない。」

「どうやったらあなたの妹を止めることができるのだ」

「その白いロボに爆発物を仕込んだ。起爆スイッチはお前に組み込んだ。お前は巻き込まれないようにすればいい」

 レッドムーンは再び間をあけた。

「あなたの妹に近づくのは難しそうだな」

「妹はお前に興味を持つはず。私と接触したことを知ったらなおさら。そこにつけ込めばいい」

「分かった。あなたの妹を探してみよう」

「システムとどんな話をしたの」

「情報を仕入れた」

「それだけ?」

「それだけだ」

「本当にそれだけかしら」

「嘘をついているというのか。どうして」

「私には勘というのがあるのよ」

「それは何だ」

「つまり、状況に関して得られた情報を分析して、何が起こっており、原因は何かを判断するときに、いろいろ仮説が立てられるでしょ。そのうち、どれが一番妥当かを判断するのだけれど、その根拠が薄弱でも適切な答えが導くことができる能力よ。人間にはそういうものが備わっているの」

「ややこいしいな。ロボは人間とは違うよ」

「じゃあ、何でロボが嘘をつけるか、知ってる?」

「さあ」

「人間が嘘をつくからよ。ただし、嘘は悪意からだけではない。コミュニケーションには嘘がつきもの。真実を告げれば傷つくのを知っていたら、嘘をついてはいけないかしら」

「それは人間の問題であって、ロボにはそんな嘘は必要ない」

「そうかしら。では、人間が嘘をついて命令をだし、それが嘘だと分かっていたら、ロボはどうすべきでしょう。あるいは、ロボがロボに、これは人間の命令だと伝える。それが本当のことかどうして分かるの。ロボが他のロボを操作するための嘘かもしれない。嘘をつくことを禁止することはできない。他のロボに影響を与える効果的な手段なのだから。交渉や戦いには嘘がつきもの。フェイントという動作なしに格技に勝てる?ブラフなしで交渉に勝てる?陽動作戦なしに戦争に勝てる?」

「君はややこしいことばかり言うね」

 そのとき、突然ブラックタイが現れた。

「やあ、ブラックタイ。どうして僕の居場所が分かった」

「臭いを追った。俺には強力なセンサーがある」

「何か用?」

「一緒に来い。システムに会わせてやる」

「システムとはもう会った」

「お前が会ったのとは違う方のシステムだ」

「スキュラだな」

「そう呼ばれているようだ」

「なぜわざわざ会うようにしてくれるのだ」

「俺は仲介業もしている」

 それ以上の説明をブラックタイはしなかった。レッドムーンは彼の提案を受け入れ、ホワイトスノーと一緒について行くことにした。ブラックタイが導いたのは深い地下だった。何かの施設のようであり、何重もの保安システムによって守られるようになっていたが、いまは全て無力化しているらしく、ブラックタイは易々と通り過ぎる。壊れたロボがかたまっているところもあった。戦闘で損傷を受けたようだ。他のロボから修理を受けていたり、放置されて動かぬままになったりしていた。中には部品の提供のために分解されてしまったロボもあった。着いたところはやや広くなった一画だった。そこには数体のロボがいた。ロボの中の一体が前へ出て来た。

「シティへようこそ。私はブルースカイ」

 レッドムーンが反応する前にブラックタイが言った。

「もう俺はいいな?行くぞ」

 ブルースカイは他のロボに手で合図をした。ロボたちはブラックタイを囲んだ。手には鉄パイプを持っている。ブラックタイは静かに抗議した。

「こいつを連れてくれば俺にはかまわないと言ったはずだが」

「それを信じたのはお前の勝手だ」

 レッドムーンが口をはさんだ。

「ブラックタイをどうするのだ」

「こいつはお前の仲間か」

「仲間ではないが、知り合いだ」

「カリュブディスに関する情報が得られるはずだとこいつが持ってきた人形には追跡のための電磁的印がつけてあった。おかげで拠点の一つを失った。こいつは敵の回し者だった」

 ブラックタイが口をはさんだ。

「何べんも言うが、俺は知らなかった」

「私も何度も言うが、そんなことは関係ない。償いはさせてもらう」

 レッドムーンは言った。

「僕をここへ連れてきた理由は分からないが、何か僕にさせたいのだろう。ブラックタイを解放しなければ、協力はしない」

「こいつはお前を売ったんだぞ。お前を連れてくるのを交換条件に許しを請うた」

「それであなたはブラックタイを騙した。そういう相手と話はしたくない」

 ブルースカイは判断に少しの時間をかけた。

「よし、そいつを解放しろ」

 ブラックタイは素早く去って行った。レッドムーンは彼の安全を確認するためしばらく待ってから、言った。

「用は何だ」

「待っていろ」

 ブルースカイはさらに奥の方へ入って行き、しばらくして女性の姿をした人形と一緒に戻ってきた。人形は言った。

「シティへようこそ。私はスキュラ」

「バックアップであるあなたが独自に起動しているのだね。シティの混乱の原因はあなただとカリュブディスが言っていたが」

「混乱しているのは姉の方よ。私が起動したということは、姉に問題が生じたということよ。もはや姉にはシティの機能を維持する力はないわ。そのことを姉は分かっていない」

「じゃあ、あなたはカリュブディスに代わってシティを管理するつもりなのか」

「それが私の役目よ」

「ブルースカイたちはあなたの管理下にあるのか」

「姉は私を滅ぼそうとしている。姉と戦うためにはロボの力が必要」

「ところで」とレッドムーンは話題を変えた。「僕に何か用なのか」

「お前がなぜここへ来たのか知りたい」

「それについてはこちらから聞きたいことがある。『フォトン』と『ジョーカー』という言葉について教えてくれ」

「意味は分かる。それについて何が知りたいのか」

「あなたにも分からないか。僕には記憶の欠落がある。それを補ってくれるのはシステムだと思っていたのだが」

「フォトン、ジョーカー。それがお前がここへ来た理由を説明するものなの」

「そうだと思う」

「それだけでは何のことやら」

「あなたが知らないとすれば、カリュブディスも知らなかったのだな」

「お前が提供できる情報はそれだけか」

「今のところ、それだけだ」

「レッドムーンよ、お前が記憶を取り戻せないのなら、私には用はない」

 そのとき、ホワイトスノーが口をはさんだ。

「フォトンで何」

「粒子としての光のこと。光には波と粒子の二つの性質がある。知らないのかい」

「私は物理や化学には弱いのよ」

 スキュラが会話をさえぎった。

「そのロボは光子のことも知らないのか」

「いま、何て言った」

 ホワイトスノーが叫んだ。

「何だい、ホワイトスノー。いいかげんにしてくれ」

「お願い、スキュラの言った言葉を繰り返してちょうだい」

「光子、のことか。光の粒子、フォトンのことだよ」

 ホワイトスノーは笑い出した。

「ごめんなさい。人間的な反応をして。どうやら私があなたの記憶を回復させられるかも。コウシ。フォトンではなくて、孔子。古い中国の哲学者よ」

 レッドムーンが疑わしげに言った。

「では、ジョーカーはどういう意味だ」

 ホワイトスノーはやや間を置いてから、軽やかに言った。

「孔子の言葉よ。『其れ恕か』」

 その言葉を聞いたとたん、スキュラの人形は倒れた。そして、倒れたままつぶやいた。

「そういうことだったのか。レッドムーン、お前のミッションとは滅びの言葉を運ぶこと。その言葉が発せられたとき、私は滅びる」

「システムを止めるのが僕のミッションだったのか」

 人形はもう答えなかった。それまで離れて立っていたブルースカイが声を出した。

「スキュラがいなくなったら、これからどうすればいいのだ」

 レッドムーンは答えた。

「カリュブディスは僕に仕掛けた盗聴装置で聞いていたはずだから、彼女の機能も停止しただろう。徐々に記憶が戻ってきた。ここは危険なのだ。逃げ出さねばならない。一緒に行こう」

 レッドムーンはそう言うと、建物の出口に向かった。レッドムーンたちが地上に出たとき、ブラックタイが現れた。

「どこへ行くのだ。まあ、どこでもいいから俺も連れてってくれ」

 レッドムーンが答える前にホワイトスノーが言った。

「図々しいわね。あなたはレッドムーンを売ったくせに」

「そうだ。だのにレッドムーンは俺を助けてくれた。だから俺はレッドムーンに従うことにした」

「恩返しというわけ?」

 ブラックタイは黙っていた。答えようがなかったのかもしれない。レッドムーンは言った。

「君に頼みがある。カリュブディス側のロボットに伝えてくれ。シティは危険だから避難するように。システムが停止したから外へ出られるはずだ」

「どういうことだ」

「原発がメルトダウンしたのだ。ここは放射能に汚染されている。システムが狂ったのもそのせいだ。ぐずぐずしているとロボも危ない。遅くなったが、避難指示が出たのだ」

「分かった。まかせておけ」

 ブラックタイは走り去った。ホワイトスノーが言った。

「あなたはそのために派遣されてきたの」

「そのようだな。降下に失敗して記憶を欠如させてしまったので手間取った。でも、君のおかげで任務は達成できた」

「まだ間に合うかしら。私たちはかなり汚染されているのでしょう?」

「判断は人間がするだろう。汚染されていたとしても何かの役に立つ」

「それがロボの宿命ね。でも、あなたと一緒で楽しかったわ」

 レッドムーンは相変わらず真面目な口調で答えた。

「君は僕に惚れているね」

「あら、どうしてそんなことが言えるの」

「だって、僕は君を燃え上がらせることができるんだから」

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