池のほとり
私は公園の池のほとりのベンチにすわっていた。
こういう描写で人は何を思い浮かべるだろうか。よくある街中の平凡な小さな公園の風景かもしれない。
実はそうではないと言いたいのだが、まず、言葉による描写がそれの扱う風景を変えてしまうということを私の経験から述べよう。「菩提樹」という歌の冒頭の日本語訳は「泉にそいてしげる菩提樹」となっている。幼いときの私は森の中の風景の描写だと思っていた。しかし、大学のドイツ語の授業でこの詩を習い、原文は「泉の傍、門の前、そこに立つ一本の菩提樹」であることを知った。つまりこれはヨーロッパの都市の風景なのだ。泉は広場にある噴水であり、門は都市を囲む城壁の出入り口である。そこで育ち生活することの情感を歌っているのだ。
さて、今度はこの文章の冒頭に戻ろう。私のいた公園は郊外の山を切り開いて作られたものだ。谷間を平らにし、池を作り、平地には芝生が植えられている。谷を取り巻く山々は草原を取り巻く森のような感じになっている。日本的ではない不思議な風景だ。
私がこの公園にいるのはコロナ禍が原因である。政府の外出自粛要請があるので、出かけるのは躊躇するが、公園なら野外でもあるし、また、いわゆる「密になる」ことはないので、かまわないと判断した。しかも、県境は越えないようにする。もちろん、外出すれば店で食事をすることが多く、自粛要請に完全に従うことにはなっていない点は認めざるを得ない。しかし、家にこもっていると精神に不調をきたしてしまう。ワクチン接種はすませているので、さほど無謀なこととは思えない。
県内に公園や植物園は結構ある。行ったことのある主なところを挙げてみれば、県立フラワーセンター、県立宝塚西谷の森公園、県立丹波並木道中央公園、県立一庫公園、県立甲山森林公園、県立有馬富士公園、県立播磨中央公園、県立淡路島公園、県立あわじ花さじき、国営明石海峡公園(淡路地区)、六甲高山植物園、森林植物園、布引ハーブ園、須磨離宮公園、神戸総合運動公園、石ヶ谷公園、キーナの森、荒牧バラ公園、昆陽池公園、北山緑化植物園、尼崎市農業公園、元浜緑地、ふれあい公園(猪名川町総合公園)、甲子園浜海浜公園、ラベンダーパーク多可、みとろフルーツパーク、青垣いきものふれあいの里、日岡山公園、日本へそ公園、ひまわりの丘公園、多可町余暇村公園、西脇公園、加古川ウェルネスパーク、芝桜の小道(ヤマサ醤油本社工場)、たじま高原植物園、など。
県内の主だった公園は行きつくしたと思っていたのだが、調べてみると近辺でさえ行ったことのない公園がまだまだあった。あいな里山公園(国営明石海峡公園神戸地区)、県立やしろの森公園、県立三木山森林公園などの大きな公園も見つかった。順番に行ってみることにした。
そして、ここは三番目に訪れた三木山森林公園である。他の二つの公園でもそうだったが、暑い時期なので日なたを歩くとまいってしまう。広すぎてとうてい回り切れない。レストランで休憩しようとしたが、バイキングシステムなので喫茶はできず、仕方なくテイクアウトのかき氷を買って池のほとりのベンチで食べた。
そのとき、私の心は平穏とでも言うべき状態になった。過去へのこだわりも未来への不安もなく、ただ景色に見とれていた。自然がこのように優しく引きつけるように感じ出したのは最近のことだ。老い先短いということが関係しているのだろう。もうすぐ永遠に去らねばならないこの世界。惜しむとしたらこのような風景とは無縁になってしまうことだ。そんな気持ちをはっきりと持つことはないが、世界が名残り惜しげに見えるのは分かる。
そういういい方はおかしいかもしれない。消えてなくなってしまうのは私の方だから、名残惜しいと思うとしたら自然の方だが、自然は私のことなど気づきもしないだろう。それでも、名残惜しいというのが私の気持ちを一番適切に表している。そういう気持ちがこうじると、自然が私を呼んでいて、私は自然の中に引き込まれるように感じにもなる。どの辺りだか忘れたが、山の中の高速道路を走っていて、まわりの木々の緑があまりにも美しく見え、トンネルに入る際に山に吸い込まれていくように思えた。
死の予感ないし予想はそれほど大きな影響を心に与えるのだろうか。伊藤整の文学論に死を前にしたときの認識の特異性という観点があったが、そういうことが一般にあるのだろうか。
しかし、私が達観した境地に到達したわけではない。日常の中ではつまらぬことにこだわり、感情の動きに流され、人を嫌ったり憎んだり、あるいは見境もなく異性に興味を持ったりしている。死ぬまでこの状態は変わらないだろう。
でも、この瞬間、谷の大きな空間の中、頭上に広がる空と池の平らな水面、その二つを区切っている周りの森の帯状の緑、傍らには一本のケヤキの木があって影を作ってくれている。風はないが、日差しが熱気を伝えてくることは何とか免れている。私はぼんやり景色を見ている。考えなければならないこともなく、禍や幸運の予想もない。悲哀もなければ歓喜もない。嫌悪もなければ愛着もない。ただ平穏。こういう時間を得られることが老いることの意味であるならば、それも悪くない。もうしばらくこうしていよう。