井本喬作品集

卒業旅行

 古い資料を整理していると、書きかけの紀行文が出てきた。小説にでもするつもりだったのかもしれない。読むとその時のことが思い出されてきた。この文章を完成させるにはもはや記憶があいまいになってしまっている。前後に簡単な経過を付け加えることで、放置されていた文章を何とか完成させてしまおうと思う。

 1965年3月、高校を卒業して大学へ進学する前に、私は同級生だったHと二人きりで四国を旅行した。それまで自分たちだけで旅行に行くという経験はほとんどなく、大学生になって独り立ちすることの、いわば手始めとしての行為だった。そのころ、北海道を中心としたいわゆる「カニ族」や、ユースホステル利用による旅行などが若者の間で流行していた。そのことに影響されていたのは確かだ。最初は信州の高原を歩く計画を立てたのだが、この時期には無謀であることが分かって、四国に変更したのである。

 関西汽船の別府航路の船で松山に上陸した。宇和島までは鉄道を使った。宇和島城に寄った。石垣の山を登った本丸に小さな天守閣があった。宇和島から南へはバスになる。たどり着いたのは西海町(現・愛南町)の船越というところだった。そこから今日の目的地である鹿島への船が出る。

島へ(残されていた文章)

 小さな港の集落のはずれで私たちはバスを降りた。そこから道は海を離れて上り坂になっている。バス停の傍の雑貨屋で船着き場はその方向にあると教えられ、私たちは坂道を登った。振り返れば、先程は家々の間から見えていた海が眼下にある。奇妙な気がした。船着き場に行くために海から離れていく。坂を登り切るとその疑問が解けた。反対側にも海があった。

 小さな入り江に突堤が一つ突き出ていて、石の浜には一軒の小屋がある。風雨にさらされて薄墨色になった板壁のあちこちが破れていた。雲の垂れこめた暗い空と入り江の閑散とした風景は適切な組み合わせには違いなかったが、見知らぬ土地に不安を感じていた私たちはいっそう気が滅入った。私たちは海を眺め、そこから見える三つばかりの島のうちどれが目的の島なのか見当をつけようとした。あれこれ言ってみても確かめるための根拠は何もないのだが、そういう会話を交わすことでお互いを元気づけたかったのだろう。

 風がきついので、私たちは小屋の中に入った。漁具の置き場らしく、網が積んであり、艤装の一部か廃材か分からぬようなものが重ねてあった。私たちは板の上に腰を下ろし、迎えの船が来るのを待った。

 しかし、予定の時刻を過ぎても船の来る様子は一向になく、日暮れにはまだ少し早いとは思うのだが心細くなり、私たちはバス停まで戻った。雑貨屋で電話を借り、島の宿に連絡した。すぐに船を出すという返事だった。船は定期的に動いているのではないらしい。私たちは再び坂を越え、入江で船を待った。

 見える範囲のどの島からも船の出発した様子はなく、あの返事は気休めでしかないのかと次第に腹立たしい思いがふくれあがってくる。突然、左手の陸の陰から船が現れた(後で知ったが、目指す島はここからでは陰になって見えないのだった)。

 客は私たち二人だけなので、折り返して船が出ようとしたとき、「待ってえ」という女の声がし、二人の若い女が坂道を危うげに走り降りてきた。船は二人が乗り込むのを待って出発した。

 船は小さな木造船だった。客室は、立てば頭がつく低い天井、両側の壁の上方に小さな四角い窓の列、ゴザをひいた何もない床、まさに箱で、閉じ込められたような気分になり、私たちは寒いけれど外へ出て景色を眺めることにした。客室の屋根の上に座り足を外に投げ出した。あとから来た二人は、窓に私たちの足を見るはずだった。

 海の色は空と呼応して暗く、ところどころ色が変わって、何かがうごめいているような妙になめらかな水の動きを示している部分があり、気味悪かった。もう船がどの島を目指しているか分かった。その島は、おかしな言い方だが、取りつくシマもない、といった形で海面からそそり立っていた。

 島に近づくにつれ、小さな浜がその根元にへばりついているのが見えてきた。浜には一本の突堤がある。そこに船は着いた。私たちは突堤に這い上がり、案内のないまま道らしきものをたどって浜の奥に進んだ。宿は浜が行き止まる崖の前にあった。そこは海が運んだ砂ではなく島がすべり落とした土の領域であった。

 ガラスの引き戸を開けて声をかけると、老人が帳場らしき部屋から現れた。私たちはハガキで予約しておいた旨を告げた。老人は出てきた部屋をのぞき込み、何かを確認したうえで、上がるように言った。二階に案内され、食事は六時からだと告げて老人が去ったあと、わびしげな部屋ながらようやく落ち着いた気分になった。

 私は窓を開けて外を見た。松の向こうに海があった。左右を見渡しても浜のほかには何もなさそうだった。外へ出る時間はなかったが、その気にもなれなかった。

「鹿がいる」

 窓を離れずにいた連れが言ったので、私はもう一度外を見た。視野の隅を何か走ったようだが、その姿ははっきり捕らえられなかった。薄暮の景色の中で動いているのは渚に打ち寄せる波だけだった。

 私は窓を閉めた。

 風呂へ入ったあと、六時に私たちは一階の食堂へ降りて行った。帳場の前を通ったとき、壁にかかった小さな黒板が見えた。私のほかに三つの姓が書かれていて、それぞれの横に人数と部屋の名があり、丸印がついているのは投宿のチェックらしい。一組は未着らしいが、今日はもう来ることはないだろう。

 食堂にいた同宿者は、黒板にあった通り、私たちと一緒に船で来た二人の娘と、既に宿にいた三人の中年の男の二組だった。食事のあと、男たちと娘たちが話し合うのを私たちは引き上げかねて聞いていた。娘たちは北条にある同名の島を間違えて訪ね、それで遅れてしまったと言っていた。

「でも、あそこもよかったわね」

 娘の一人はそう言った。

 男たちは麻雀のメンバーが一人足りないからと娘たちを誘った。娘のどちらかが少し知っているらしい。私は麻雀に参加したいという気が起こったけれども、黙っていた。私は麻雀ができるが、連れはできない。連れを疎外するわけにはいかない。それに、男たちが私を歓迎しないように思えた。私が加われば娘たちは引き上げてしまうだろうから。

 私たちは外へ出てみた。すでに暗くなっていいて、景色はただ黒い塊でしかなかった。浜を歩いた。棒のようなものが転がっているので、よく見たら死んだ魚だった。私は蹴ってみた。死んでから時間がたっているらしく硬くなっていた。(文章はここで途切れている)

 旅は期待とは違っていた。記述に青春の明るさが見られないのは、この旅が人生の実相とでもいうべきものを私に突き付けたからだ。高校生までの私たちは、親や教師の庇護と監督の下で、限られた狭い世界に生きていた。私たちはその世界の中でのみ通用するような感情や知恵に頼ってきた。単純化していえば、本当の他人という存在を知らなかった。他者は自我の延長でしかなかったのだ。その世界の殻が破られようとしていた。

 この島の宿を予約したのは他に見つけられなかったからだ。この頃の学生たちの旅はユースホステルか国民宿舎のような安くて安心できる宿を利用していた。春休みや夏休みなどの期間はすぐに予約で埋まってしまう。ようやく見つけたこの島の宿は不便なところにあった。乗り継ぎの連絡も悪く、たどり着くだけで時間がかかる。宇和島からのバスも途中で乗り換えねばならなかった。乗り継ぎのバス停で一時間以上待った。移動に時間を取られて満足に観光もできていない。待つのは全く無駄な時間の過ごし方だった。

 待合室には誰もいなかった。待合室の隣の事務所にレジがあった。レジには崩した形のアルファベットが書かれてあった。手持無沙汰の気持ちのまま、私はHに言った。

「あれは何て書いてあるのかな。CHANGEかな」

「CHARGEだよ」

 Hはそれで話が終わったと思った。しかし、私は文字を見直して言った。

「CHANGEのようにも見えるけど」

 Hはうんざりして言い放った。

「しつこいやっちゃな」

 思いがけないHの態度に私はショックを受けて黙り込んだ。

 Hの気持ちを理解できたのはずっと後になってからだ。それ以前から、Hは私にいらつくことがあったのだ。

 少年期の友情は恋愛に似ている。というより、恋愛の代替物なのかもしれない。常に一緒にいることを好み、自分の思いを相手につぎ込み、相手にもそれを求める。会えるのは学校にいるときだけだから、毎日が出会いであり別れなのだ。私たちの時代には男女交際は制限されていて、デイトなどしたことがないのが当たり前だった。家族以外の誰かを愛するという経験は友情が与えてくれたのだ。毎日、ほんの短いときだけの、繊細であるけれど表面的な感情の交流が、幻想を生む。

 そもそもこの旅行の具体的な計画は私が立てた。私は最適な旅程を選んだつもりだった。しかし、Hにしてみれば、私の主張に引きずられて、余裕のない強行軍をさせられていると感じられただろう。見知らぬ土地での移動という試練での緊張と疲れが私たちを不機嫌にし、その感情のはけ口は一日中一緒にいる相手しかない。相手が好ましい者ではなく憎むべき者となる。相手が自分の延長ではなく、私たちを圧迫する他人となるのだ。

 他人というのはそういうものだ。愛情は自分と他人の境を取り払ってくれるものではない。他人は自分の思いたがるような存在ではない。他人は不可解なのだ。

 翌日、私たちは船で島を離れ、バスで来た道を戻り、乗り換えて、足摺岬を目指し南へ向かった。宿で一緒になった娘たちと少し会話をし、彼女らが京都のミッション系の女子大に通っていることを知った。彼女らも足摺岬に行く。

 バスに長い間乗らねばならなかった。途中でどこかへ寄ったのかは憶えていない。乗客は学生の旅行客がほとんどだった。とうとうHが酔ってしまい、私が介抱していたが、次には私が酔ってしまった。窓を開けて冷たい風に当たってしのいでいた。後ろの座席の男が寒いと文句を言った。

 ようやく足摺岬に着くと、一緒のバスだった例の二人の女子大生が宿はあるのかと声をかけてきた。彼女たちは宿を予約していた。私たちは予約できていなかった。今から探すと答えて、二人と別れた。宿は見つかった。

 次の日は高知を経て室戸岬に行った。室戸岬に着いたのは夕刻で、そこからまたバスに乗り、夜の闇の中を甲浦まで行き、甲浦から夜行の船に乗って帰った。二泊三日プラス船中二泊のまさに弾丸ツアーである。

 朝になって船が港に着くころ、船内放送が時計の忘れ物があると告げた。私は洗面のときに外した時計を洗面台に置き忘れていたことに気がついた。放送の指示に従って私は航海士の部屋へ急いだ。船を降りる準備で船内はごたついていた。何も知らされなかったHは、私の後を追いながら、事情を聞こうとした。

「時計。時計だよ」

 それだけ叫んで私は先へ進んだ。私の狼狽ぶりに気おされたようにKは黙って私の後に従った。部屋にいた航海士は私の申し出に対して、時計の特徴を尋ねた。私が答えると、彼は手首にはめていた時計を外して私に渡した。

 その旅行以来、Hと会うことはなかった。この旅行が影響したのかもしれないが、一般に学校での交友は卒業とともに失われていくのだろう。学校が別ならば会う機会がなくなり、新しい友人関係が次のステップとして私たちに与えられる。とはいえ、少年期から青年期への移行には何らかの断絶が感じられるのは事実だ。Hとの旅行はそれまでの友情からのまさに卒業旅行だった。この旅の印象が残っているのはそのせいなのだ。

 後日談がある。大学に入った年の夏の終わりに、四国で一緒になった娘たちの一人と出会った。ターミナル駅の雑踏で声をかけられたのだが、私は顔を覚えるのが苦手なのですぐには誰か分からなかった。娘は四国旅行のことを言い、私はようやく彼女が誰であるかを理解した。彼女は夏休みに北海道を旅行したと言い、私もどこかへ行ったかと尋ねた。私はどこも行かなかったと答えた。会話はそこで終わり、私たちは分かれた。それから彼女たちと会うことはなかった。

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