霧島
私は宮崎市の橘公園にいた。目の前には大淀川が流れ、川沿いにフェニックスの木が並んでいる。背後の通りの向こうはホテルだ。よく晴れ、十月に入ったというのに暑いくらい。私は木のベンチにすわり、四角い木のテーブルに手を置いている。鉄のポールの骨組みにカマボコ型のおおいをかぶせた日よけの下。このテントをロンブルというらしい。その名称がどの程度一般的かは知らない。
平日の午後のせいか、人気はない。ちょっといい気分である。缶ビールでも飲めたらさらによくなるのだが、あいにく酒屋も自販機も見当たらない。今日はえびの高原からバスで下りてきた。昼食は済ませた。列車の時間までまだ二時間ほどある。
昨日までのつらい行程を思い返した。高千穂岳から霧島を縦走した。無理な行程ではないのだが、宿代を節約するためにテントを持ってきたので、重い荷物にまいってしまった。最初からうまくいかない旅だった。当初はえびの高原から登る予定だった。フェリーで日向に行くつもりが、台風の影響で欠航になり、やむなく志布志行きに乗った。志布志行きのフェリーは大きいから欠航しなかったのだ。
フェリーに乗った時は雨が降っていた。岸壁の塔からのサーチライトの光が雨滴を闇から浮かび上がらせていた。落ちてくるたくさんの小さな点。私は誰もいないデッキに出てそれを見ていた。接岸しているのとは逆の舷側に二隻のタグボートが近づき、フェリーの船首と船尾からそれぞれロープを受け取った。タグボートが後退すると、たるんで沈んでいたロープが水の中から現れた。タグボートのサーチライトが動き、ロープを照らした。タグボートはエンジンを全開させ船尾の水をかきまぜ高く跳ね上げた。ロープのたわみが消えた。ロープから水が筋になって落ちた。二度、三度。ロープは硬いまっすぐの線になり音を立てた。動きはごくわずかずつだが、フェリーは岩壁から離されていく。雨にだいぶ濡れてきたので船室へ下りた。しばらくして船窓からのぞくと、力仕事を終えたタグボートが、足取りも軽く、といった様子で帰って行くのが見えた。
あれから三日たっている。台風とはすれ違い、翌朝晴れた志布志港に降り、バスで志布志駅へ行き、志布志線で都城へ出た。都城からバスで霧島神宮へ、着いた時にはもうバスはなかったので、タクシーで高千穂河原へ行った。暮れかけた高千穂河原には誰もいない。ビジターセンターのような建物があったが、そこも閉まっていた。建物から少し離れた林の際にテントを張った。簡単な食事をすませてテントに入り、エアマットをふくらませシュラフにもぐり込む。人里離れたこんなところにたった一人でいるのが心細い。テントの外の暗闇を何かが徘徊しているような感じがする。赤ん坊のような泣き声におびやかされたが、鹿の声らしいと見当をつける。そのうち眠ってしまった。
翌日、朝食後テントをたたみ、荷物は建物の壁に立てかけておいて、空身で高千穂岳を往復する。ガラガラして歩きにくい道だった。高千穂河原に戻り、荷物をかついで、中岳、新燃岳、獅子戸岳、韓国岳を縦走する。いくつか火口のあるいい景色なのだが、苦しくて楽しむ余裕はない。途中、登山道の脇に寝転がって目を閉じてしばらくあえいでいた。通りかかった子供が見つけて親に知らせているのが聞こえた。親がかまわないからと言っていた。人間の体力というのは絞り出せば限界と思われるところを超えて出て来るものらしい。山の中でのびてしまうわけにはいかないから、何とか歩き通した。
ようやく韓国岳へたどり着いたのが3時半。火口壁がそそり立ち底はガスの中で見えない。風が強く、反対側に見下す大浪池には波が立っている。左から右へ、白い波頭の筋が次々に動いていく。直接えびの高原へ下りる道はあったが、大浪池を近くで見てみたかったので、そっちへ行く道を選んだ。しかし、鞍部まで下りたときには最後の力も出し切ってしまっていて、火口壁にはとうてい登れない。あきらめてえびの高原へ下りる。遅くなって誰も残っていない山をのろのろ下り、着いたのは6時になっていた。テントを張る気力はなくなり、国民宿舎に泊まった。そういう経過がはるかな昔のようでもあるし、ついさっきのような気もする。
ぼんやりと景色を見ていると、あのつらい歩行のとき一刻も早く手に入れたかった快適な状態に今いるのだけれど、実際にはまだそうなっていなくて、想像の中においてそうなっているにすぎないような、奇妙な感じがしてくる。苦しいとき、私はある心理的な操作をする。あとしばらくしたら、この状態からぬけ出て、今を振り返ることが出来る。だから、そういう将来の時点にいるつもりで、今を見ればいい。今の苦しみが過去のものであり、既に終わりを経験したかのように。そうすると少しは耐えやすくなる。そのうちに、時はたち、架空の視点が現実のものとなるだろう。今のこの気楽な状態はそういう操作のせいかもしれない。本当の自分はまだ苦しさにあえぎながら歩いているのではないか。
いや、それはもう済んだこと。困難なことは終わったのだ。後はもう帰るだけだ。今日は1985年10月8日。これから宮崎駅15時45分発の列車で日向まで行き、17時30分発南港行きのフェリーに乗る。間違いなく順序立った時間の経過の中で。それまでもうしばらくここにいよう。この無為の時間を楽しもう。それぐらいの報酬はゆるされるぐらいに苦労したのだから。