井本喬作品集

両端の山(宮之浦岳・利尻山)

 屋久島の宮之浦岳(1935m)は九州で一番高い山である。九州本土の南方の海上にある島にそんなに高い山があるのは不思議だ。ふもとは亜熱帯の植物が茂っているのに、山の上は冬になると雪が積もる。降雨量が多いため島は森林におおわれ屋久杉が育つ。屋久島の東に並ぶようにして種子島がある。屋久島は丸い形をし、洋上アルプスといわれるほどに山が高いのに、種子島は細長くて、高い山はなく平である。

 似たような島のセットが北の端にもある。稚内の西方にある利尻島と礼文島だ。丸い利尻島には利尻山(1719m)があるが、細長い礼文島は平べったい。もっとも、北のセットは南のそれに比してずっと小さな面積である(屋久島504.88平方km、種子島444.93平方kmに対して利尻島182.12平方km、礼文島80.95平方km)。それゆえ、屋久島には多くの峰々があるが、利尻島は利尻富士と呼ばれる利尻山が単独峰として屹立している。

 日本列島の両端にあるともいえるこの二つの山に登れたのは、勤務先のおかげだった。

 屋久島には慰安旅行で行った。創立何十周年かの記念として、旅行会社が売り込んできた屋久島・種子島のツアーが採用されたのだ。いい機会なので宮之浦岳に登ることにした。

 1982年4月26日、大阪南港を夜立つフェリーに乗り、翌朝志布志に着いた。海は荒れて、みな船酔いを起こした。私は朝食時に食堂へは行ったのだが、やはり食べられなかった。志布志からバスで鹿児島へ行き、14時発の屋久島行きの船に乗る段取りだった。志布志に着くのが遅れたので、予定していた昼食をカットしなければならなかった。朝食を抜いた者が多く、みな腹を空かせていた。添乗員が買い込んだパンとバナナを桜島から鹿児島へ渡るフェリーの上で食べた。

 鹿児島から4時間船に乗って宮の浦に着いた。船は大阪からのフェリーよりも一回り小さかったが、甲板で景色を見ていれば気分は悪くない。錦江湾を出て陸地が遠ざかると、屋久島までは海と空だけになる。屋久島は意外と大きい。宮の浦からバスで安房へ行き泊る。

 翌日はバスで島内をめぐるツアーが組まれていたが、私は単独行動を取った。タクシーで淀川小屋近くまで行く。運転手は迎えに来ようかと言ったが、反対側に下りるつもりだったので断った(後から考えるといささか無謀なプランだった)。9時10分出発、淀川小屋のつり橋を渡り、花の江河には10時30分に着く。湿原に木道が作られてある。あまりきれいな景色ではない。岩のあるピークの間を行く。小雨が降り出したのでポンチョを着る。頂上への登りの笹原でジーパンが濡れてしまう。12時10分宮の浦岳登頂。ガスで眺望はきかない。ジーパンを脱いでしぼる。初めて登山者と出会う。彼も単独行で私の来た方へ降りていった。

 食事などで30分ほどいた。山頂直下の急傾斜を水の流れの作った溝をたどって滑りそうになりながら下りる。道は樹林帯に入る。高塚小屋(避難小屋)には14時40分着。縄文杉、ウィルソン株などを見ながら小杉谷までどんどん下りる。楠川歩道分岐に16時55分着。小杉谷から安房へ出るには林道が長いため、白谷雲水峡へ行って泊る予定をしていた。明日は種子島へ渡るので、早立ちで安房のホテルに帰るつもりだった。白谷雲水峡への道は登りだった。出発から8時間近く、体力は落ち、はかどらない。ようやく山小屋に着いて泊めてもらおうとしたが、自炊だというのであきらめて宮の浦まで行ってしまうことにした。19時頃林道に出た。道だけが定かな暗い中を歩く。道ばたに猿のようなものがいたが暗闇でよく分らない。宮の浦に着いたのは21時だった。

 宮の浦からタクシーで安房のホテルへ戻る。食事はとっくに済んでいて食べるものはない。外へ出てうどんを食べる。次の日は船(屋久島に来た船よりもさらに一回り小さい)で種子島へ、種子島で一泊して飛行機で帰阪。

 北海道は遠く、その最北端にある利尻島はさらに遠く、利尻山に登るような機会はあるまいと思っていたが、2000年に定山渓での業界の大会みたいな催しに参加することになったので、思い切って利尻島まで行くことにした。ときどき一緒に山に行くOさん(中年女性)も催しに参加するので誘ってみる。OさんはUさん(やはり中年女性)を誘って三人で行くことになる。

 7月7日午後5時22分、スーパー宗谷で札幌を出発、稚内に向かう。列車の旅は久しぶり。本州とは建物や林や畑の形状が異なる車窓の風景に見とれる。旭川から宗谷本線に入る。OさんとUさんは並んですわり、私は通路の反対側の席にいたが、隣にすわった中年女性が話しかけてくる。彼女は夫の勤務の関係で稚内に住んでいるらしい。もともとは道南の人で、積丹半島の景色が素晴しいことを話してくれる。塩狩を過ぎ、和寒を過ぎる。隣の女性は和寒の寒さと雪の深いことを言う。やがて夜になる。7時20分稚内着、宿泊。

 翌朝、防波ドームを見て、フェリーで利尻島へ向かう。かすんでいて島は見えない。近づくとようやく山容が見え、雲の中から山頂も現れたが、島に着くと再び隠れてしまう。鴛泊港近くの宿に荷物を預け、登山口の駐車場まで送ってもらう。台風が近づきつつあるので明日は天気が崩れるらしい。甘露泉まで若い男と相前後して歩く。彼は仲間と待ち合わせして明日山に登ることにしているが、天気の持っている今日登れないことを残念がった(しかし、翌日は山頂の雲がなくなりいい登山日和となった)。

 ダケカンバの森の中を登る。登るにつれ眺望が広がり山裾が海に連なる景色が見えてくるが、山の上部は雲におおわれている。7合目付近からガスの中。Oさんの調子が悪く、遅れ気味になっている。8合目の山小屋で昼食。既に午後1時を過ぎていて、このままのペースでは頂上への往復は無理。Uさんと相談して、Oさんを置いていくことにする。Oさんも了承、一人で行けるところまで登ってみると言う。

 小屋で待ち合わせることにして、Uさんと二人で出発。時おり雨つぶがかかるが、雨ではなく、ガスの水滴が葉に着き、風で落ちてくるのだ。風が強くなる。9合目からは地面がざくざくになり、設置してあるロープに捕まらないとすべって進めない。必死でただただ登る。ようやく頂上につくが眺望は全くきかない。すぐに下山する。

 小屋にはOさんはおらず、先に下りたようだ。急ぐがなかなか追いつかない。ガスを抜け下が見えるようになってOさんの姿を見つける。声をかけると返事をするが、待つことなく先に下りていく。置いていかれたことを快く思っていないのだろう。ようやく追いついて三人で歩く。傾斜がなだらかになったところで休憩したときに、Uさんが嘔吐した。山頂へ登る時に無理をし、さらに下りを急いだことで変調を来したようだ。Oさん、Uさんの体力も考えず、自分の登高欲のみを満たそうとした狭量さを反省する。

 その日は利尻島で泊まり、翌日礼文島に渡った。礼文島からは利尻山がよく見えた。礼文島から稚内に渡って南稚内で泊まり、次の日スーパー宗谷で帰る。三浦綾子記念館に寄るというOさん、Uさんと旭川で別れた。

 宮之浦岳も利尻山もガスのため頂上からの眺望は得られなかった。できればこの二つの海の中の山にもう一度行ってみたいと思っている。

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