紅花(月山)
私の部屋のタンスの上の花瓶にドライフラワーになった一茎の紅花がさしてある。この花は、2001年6月に天童で開催されたある集まりの際の土産として、主催した地元の人たちから出席者に送られたものである。会場となったホテルから出る時に私も手渡されたのだが、貰ってからどうしようかと迷った。私は寄り道をして月山に登るつもりだった。肩にかけた小さなザックにはおさまりきれない長さであり、おさまったとしても押しつぶしてしまうだろう。だが、返してしまうには惜しく、とりあえず資料を入れている紙袋に差し込んだ。
数年に一度ぐらいの頻度で参加するこのような集まりのときには、終了後に開催地の近くを旅行することにしていた。いつもは数人で行動するのだが、今回は適当な仲間がいなかった。一人なら山へ行こう、天童の近くなら蔵王か月山、蔵王はスキーで行ったことがあるから月山にしよう、そう思って登山の用意をして参加した。
一緒に参加した同僚の一人のOさん(中年女性)が山好きで、彼女も月山へ行く予定をしていた。彼女からの情報で、羽黒山と月山八合目を結ぶバスが、山開きの7月1日には動くが、運行の開始はその一週間後になるということを知った。私は姥沢から月山に登り、羽黒山へ抜けるつもりだった。会議は6月29日の午前中に終わるので、30日を山登りに当て、7月1日に帰阪する予定を立てていた。しかし、30日に月山から八合目へ下りてきてもバスはない。Oさんは羽黒山側から入り、月山八合目まではタクシーを使うと言う。私はOさんに同行を頼んだ。二人で行けばタクシー代を折半できる。
会議終了後、山形から山形交通の高速バスで鶴岡へ出た。鶴岡のバスターミナルに着くと、羽黒山センター行きのバスがすぐ出るというので、その先のことを調べる間もなく乗る。Oさんは国民休暇村に宿泊の予約をとっていたが、羽黒山センターに着いてみると、休暇村行きのバスはもうなかった。たまたま同じバスに乗り合わせた夫婦も休暇村に行くことが分かり、三人でタクシーに乗って行った。休暇村には空きがなかったので、私は宿を探さねばならない。駐車場の横にあった庄内交通の小さな事務所を訪ね、宿を手配してもらう。泊ることはできるが夕食は間に合わないとのことなので、向かいの食堂でカツ丼を食べた。宿は道の両脇に並んでいる宿坊の一つだった。息子さんとお母さんで経営しているらしい。
翌朝、食堂へ行くと二組の同宿者がいた。朝食は山菜ばかりでいささか閉口する。荷物を全てザックの中へ入れ、紅花はザックの横に差し、出発する。宿を出ようとすると、宿のお母さんが、紅花の原種を栽培しているからと、入口脇に咲いている花を見せてくれる。
Oさんとは駐車場で8時15分に待ち合わせた。Oさんは休暇村の車で送ってもらってきた。昼食としておにぎりを、私の分も含めて休暇村の職員に買ってもらっていた。宿坊では保健所の指導で昼食を作れないと断わられたので助かった。タクシーを予約し、羽黒山の駐車場に10時に来てもらうことにする。
羽黒山への階段の道を登る。山中に五重の塔があった。階段の道が続く。Oさんが苦しさを表明したので、私は「何キロあるんですか」と聞いた。Oさんはむすっとして黙っていた。私はすぐOさんの誤解に気づき、「体重ではなくてザックの重さです」と弁解した。Oさんは小太りしている。羽黒山に着き、神殿や鐘突堂を見る。屋根の形が面白い。Oさんはゆっくり見物したかったようだが、私はタクシーが待っているからとせかした。Oさんは月山頂上の山小屋に泊る予定だが、私は今日中に山を降りてしまうことにしていた。
タクシーに乗り月山八合目へ行く。朝から曇り空が続いている。運転手の話によると、晴れる日は少ないとのこと。遠方はかすんで日本海は見えない。あれが月山と示してくれたがよく分からなかった。観光シーズンにはバスや車が押し寄せて八合目の駐車場が一杯になるので交通制限をするらしい。道は狭く、バスとすれ違いができないので苦労するそうだ。
八合目の駐車場には結構たくさんの車が止まっていた。観光客や登山者たちに混ざって御田原(弥陀が原)の湿原を歩く。御田原参籠所を経て登山道をたどる。いろいろな花が咲いているが名前が分からない。花を指して名前を口に出しながら登る人もいる。シラネアオイ、ハクサンチドリなどの名が聞こえる。左手に大きな雪渓が現れ、スキーをしている人が一人いた。
仏生池小屋をすぎ、木道になっているところにかかる頃、雨が降り出し、ガスって視界もきかなくなる。Oさんは雨具を着るが、小雨だし面倒なので私はそのままの服装でいた。Oさんが木道の脇にウスユキソウを見つけて、エーデルワイスだと喜んだ。なかなか山頂につかないのにいらだって、Oさんが遅れがちになるのもかまわず急ぐ。ガスで全貌の見えない雪渓の上をかなり長く歩いてようやく山頂直下に着き、そこでOさんを待った。山頂の神社を参拝し、小屋へ行く。小屋の手前にクロユリが咲いていた。
小屋で食事をし、小屋で泊るOさんと別れ一人で下山する。雨が強くなってきたようなので雨具を着る。ザックにもカバーをかけ、紅花は長すぎるので茎をまげてカバーの中に入れる。小屋の人から、たいていは姥沢へ下り、湯殿山へ抜ける人は少ないので、雪渓に気をつけるようにとアドバイスを受ける。
雨とガスの中を歩く。牛首で姥沢への道を分け、雪渓を何度も渡る。最初の二つの雪渓には道しるべのロープが張ってあったのでルートが分かったが、それから下の雪渓ではロープはなく足跡も見当たらない。適当に見当をつけて雪渓のつきたところから現れる道を探す。幸い、ガスを下り抜け、雨は降っているが視界がきくようになる。灌木で見通しの悪いなだらかな雪渓で道を見失いかける。二股に分かれたところまで引き返して周囲を見渡すと、岩のように思えたのがコンクリート製のケルンだった。ケルンに導かれて道を見つける。
雪渓帯を抜けて装束場へ、装束場からは急坂。ハシゴをいくつか降りる。二度足をすべらせ尻もちをつく。最後は水の流れとともに砂防ダムのある谷に降りる。そこから川に沿って少し下ると湯殿山神社だった。
湯殿山神社では靴を脱ぎ裸足にならねばならない。お祓いを受け、ご神体を拝観する。ご神体は湯を吹き出し赤茶けた色になった大きな岩。ご神体については「語るなかれ、聞くなかれ」とされているとのこと。バスがあったので参籠所まで乗る。大きな鳥居がある。参籠所にいた、たぶん庄内交通の人に近くのホテルに問い合わせてもらい、泊ることができた。ホテルの夕食は、鯉の煮物、鯉のあらい、ヤマメかイワナを竹の葉で包んで焼いたもの、名物らしい小さなタケノコ、タケノコ飯、タケノコの味噌汁。
翌朝、ホテルの前のバス停で9時41分の山形行き高速バスを待ったが、10時になっても来ない。ホテルの人が庄内交通に問い合わせると、バスがホテル前のバス停に寄るのを忘れたらしいという返事。バスは6月まではホテル前のバス停には寄らず通り過ぎ、7月から寄るようになっている。今日は7月1日。運転手は7月からのコース変更を忘れていたらしい。宿の人は一般のバスの通るところまで送ってくれると言ってくれたが、腹が立ったので庄内交通に電話する。電話に出た人は、次の12時台のバスにしてくれと言い、私が怒ると、今から車を出すが鶴岡からは1時間ぐらいかかると言う。私は納得せず、近くからタクシーを出せと怒鳴り、朝日村からタクシーを出させることを承知させる。電話の人の口調はおびえたようになっていた。私はむしろ引っ込み思案の方なのだが、我慢のある限度を越えると(いわゆる「切れる」と)爆発してしまう。同じバスを待っていた男の人にタクシーへの同乗を勧めたが、私の剣幕に恐れをなしたか、もう少しここら辺にいますと辞退されてしまった。
タクシーで山形へ、山形には12時前に着いた。山寺を観光するつもりだったが断念、新幹線を乗り継いで帰った。紅花の茎は折れて短くなってしまったが四つの花に損傷はなく、家へ帰って吊るしておき、ドライフラワーにした。この旅行は事前の手配をせず行き当たりばったりだったのにうまく行程をこなせた。宿の手配は庄内交通の人にお世話になり、帰りのバスのミスについても、運賃がただになったのだから、あんなに怒らなければよかったと、紅花を見るとときどき思う。