井本喬作品集

牛松山

 牛松山は亀岡盆地の北を限っている。山容は名前の示すように穏やかであり、麓から眺められないような位置にあったならばおそらく注目されることのない平凡な山である。2007年1月30日に、牛松山に登りに行った。天気がよく暖かい(3月なみの気温だということだ)。亀岡で保津川を渡ると愛宕山を示す道標(石灯籠)がある。

 亀岡からは明智越えという道が京都へ通じている。京都への本道は老ノ坂峠を越えるルートであり、現在国道九号線が通っている。明智光秀が本能寺を襲ったときは当然この本道を使用したが、別働隊が裏道の明智越えを通ったらしい。明智越えは水尾を経由して鳥居本へ抜けているが、途中分岐して愛宕山にも通じている。本能寺襲撃直前に愛宕山に参籠したときに、光秀はこの道をたどったはずだ。水尾の手前で京都への道と別れて明神峠を越え、地蔵の辻を経由して愛宕山に到る。水尾からは水尾ノ分レで清滝からの表参道と合流する登山道があるが、その道は古来の参詣道ではないようだ。

 明智越えではない方の道を行き、金比羅神社の道標に従って山の中へ入ると福住寺がある。その少し先で、道の脇の鳥居をくぐる山道が分岐している。鳥居の傍の空き地に車を停めて歩き出す。一メートルぐらいの幅の平らな道がゆるやかに登っている。距離を刻んだ石柱が立っている(全部で十八丁)。山名の通り松が多い。見通しはきかないがときどき林が切れて下方の景色が現れる。高い建物のない家並み。よく晴れて青空がきれい。

 光秀のことを考えてしまう。信長を殺すという機会が彼にはあまりにも魅惑的すぎて、他に何も考えることができなくなってしまったのだろう。信長に取って代わるというような気持ちはなく、ただただ殺したかったのだ。冷静に考えれば、そして光秀もことが済んでからそう思ったろうが、馬鹿げた行為である。だが、光秀は冷静にはなれなかった。事前に愛宕山に登ったのは迷いがあったからには違いない。だが、どっちにしろやらずにはいられなかったのだ。

 もし光秀が、愛宕山ではなく牛松山に登っていたら、と思った。愛宕山からは憎き信長のいる京都の街が見えただろう。だが、牛松山から見えるのは彼のいつくしんでいた街、亀岡だ。彼が治め、発展させた街だ。信長に取り上げられても、彼の統治の結果は残るのだ。その眺めは光秀の熱をさまし、妄念から解放させてくれたのではないか。

 牛松山の頂上には金比羅神社があった。社殿と休憩所のような建物と倉庫のような建物がある。休憩所の屋根裏には保津川下りの船頭が安全を祈願して奉納したという二そうの船の模型が飾られてある。三角点は別の場所にあるらしいので、社殿の裏手の林の中を登って行くとパラボラアンテナがあった。三角点は見つけられなかった。

 帰りは別の道を下った。かなり急なところがある。下りきるとこちらの登山口には愛宕(阿多古)神社があった。説明板には、この神社は元愛宕といわれていて、愛宕山の愛宕神社は光仁天皇の頃(780年頃)この神社の分霊を祭ったものだと記されてある。愛宕山は牛松山の隣にあり、そこの愛宕神社が全国の愛宕神社の総本社とされているが、本家はこちららしい。牛松山は神体とはされていなくともこの愛宕神社と何らかの関係があったのだろう。境内に大杉があり、胸高幹周5.7m、樹高29m、木のうろにムササビが住み夜間に飛び回ると解説にある。

 愛宕神社から丹波七福神めぐり散策の道というのをたどって元の登山口に戻る。車に乗り、平の沢池に寄ってみた。カモがたくさんいた。上空にパラグライダーが五つ漂っている。東の三郎が岳の頂上付近からもう一つ飛び立った。山の横に月がある。月を横切り上昇するパラグライダー。しばらく空を舞う色とりどりのパラグライダーを見ていると、白い色のが降りてきて頭上を旋回し山の麓に着地した。

 西日の中を帰る。

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