井本喬作品集

スゴ乗越

 薬師岳には太郎兵衛平からピストンで登ったことがある。縦走したいという気はあったが、なかなか実現できなかった。理由はいろいろあるが、山小屋泊まりを敬遠していたことが主である。室堂からにせよ、折立からにせよ、通常山小屋に三泊する必要がある。

 2007年、行けるときに行かないともう行けなくなってしまうと思って出かけることにした。室堂から南下するコースの方がその逆よりも登りが少ないので順コースになっているようだ。山小屋に関しては、五色が原山荘から太郎平小屋までコースタイムで14時間ほどを歩き続ければ、二泊で済ますことができる。ただし、一日目に五色が原山荘まで行くつもりなら出発点の室堂にできるだけ早く着く必要がある。朝一番の特急に乗っても、富山から電車、ケーブルカー、バスを乗り継いで室堂に着くのは13時を過ぎる。室堂から五色が原までコースタイムで6時間ほど、日が暮れてしまう。夏で日が長いと言っても17時が行動の限度だろう。

 早い時間に室堂に着くためには夜行で大阪を立たなければならない。夜行バスの確認をしたが既に満席である。23時27分発の急行「きたぐに」に乗るつもりで、8月6日の晩に家を出た。大阪駅に23時過ぎに着いて切符を買おうとすると、中越沖地震で運休中だった。 仕方がないので、翌朝に改めて大阪駅へ行き7時11分発の「サンダーバード一号」に乗る。京都の手前で踏切侵入があったとのことで停車、7分ほど遅れる。富山での乗換時間が5分しかなく、遅れたら折立からのコースに変更しようかと考えたが、電車は時間を取り戻して定時(10時25分)に富山駅に着いた。富山地鉄の駅まで走って10時30分発の電車に乗る。立山駅11時28分着。11時40分のケーブルカーで美女平駅へ。室堂行きのバスが出るのは12時40分なので次の便でもよかったのだが、何があるか分からないから早い目に乗っておく。

 美女平駅は改装されたのかこの前来たときよりはきれいになっている。二階の展望台のある休憩室で持ってきたコンビニ弁当を食べる。誰もいなかった部屋に観光姿の若い女性が二人来て、ここでは食事になるような物を売っておらず、立山駅で食事をしてから次の便で来ればよかったと嘆いていた。かつて似たような経験で教訓を得ていた私は、準備に怠りはない。

 バスは臨時便なので直行、室堂着13時25分。安全を考えれば室堂か一の越泊まりだろうが、コースタイムは縮められるはずと踏んで、思い切って五色が原を目指す。室堂までは薄曇りだったが、山の頂には雲がかかっている。一の越は経由せず直接浄土山に取り付く。登り出すとガスの中へ入る。雪渓を横切って急な登り。14時30分、頂上。すぐに縦走路を南下する。ときどきガスが晴れて黒部湖が見下ろせるが、立山方面も五色が原も見えない。竜王山をトラバースするようにどんどん下り、鬼が岳との鞍部から雪渓を三つほど越え、さらに下る。

 獅子岳、15時45分。浄土山からここまで誰にも会わなかったが、二人の中年男性がいた。スゴ乗越小屋を5時に出たそうだ。これからの登りがきついので室堂に着くのは遅くなるだろう。獅子岳を下り出すとすぐ一人の中年男性を追い越す。相当バテている様子。室堂に着くのが遅くなって、一の越でどうしようか迷ったが、つい来てしまったとのこと。小屋に着いたら名前を伝えておいてくれと頼まれた。もしたどり着けなかったら捜索してもらいたいということか。

 獅子岳の下りで五色が原の東半分が雲から現れた。水晶岳らしき山も見える。ザラ峠、16時25分。ガスと風。行く手に西側の赤っぽい崩壊壁が見える。少し登って五色が原の木道に取り付く。五色が原山荘が見える頃にはガスが消えた。青空の下、緑の原の中の一筋の木道を小屋目指して歩く。17時、思いのほか早く小屋に着いた。

 六畳の部屋に同宿者は一人だけ。写真が趣味の人で連泊して近辺の写真を撮るつもりと話す。東京を車で早朝に出て扇沢に車を置き、室堂から来たとのこと。立山は関西の方が近いと思い込んでいたが、黒部立山アルペンルートのおかげで東京からはそういう便利な方法があるのだ。

 夕食をすましてもまだ明るく、18時半頃薄暗くなる。山の頂を照らしていた光が消える。獅子岳で追い越した人がようやく着いたようだと同室者が教えてくれた。食堂で一人で食事をしているのを見たそうだ。ケガをしたのか、膝に何かを塗ってもらっていたらしい。

 その晩は二人だけなのでゆっくりできたのによく眠れなかった。同室者に、写真を撮るので4時頃出かけることと、イビキをかくことを先に断られたのがかえって気になってしまったせいか。4時半頃モルゲンロート。上空は雲。

 昨日の夕食は二組に分かれたが、朝食は一度で済んだ。食堂にはざっと見渡して四十人ほど。既に出発した人もいるから宿泊客は五十人ほどか。ほとんどが中高年者である。

 5時45分出発。昨日のペースで自信がつき、今日は太郎平小屋までいくつもり。前半は飛ばさなくてはならない。鳶山へ登ると陰になっていた薬師岳が姿を現す。笠が岳も見える。越中沢岳、7時20分。先行した人がかたまって休憩している。

 越中沢岳の下りはいやらしいところがあった。大きな薬師岳の下方にスゴ乗越小屋が見える。空は薄曇り、富山県側からの風がある。鞍部付近でスゴ方面から来た数人とすれ違う。スゴ乗越の手前にスゴの頭の登りがある。頂上には中年女性五人のパーティーがいた。スゴ乗越小屋を6時に出たとのことだがずいぶんゆっくりしている(もう8時半になっている)。もっとも今日は五色小屋までだろうからあわてることはないだろう。昨夜はスゴ乗越小屋は盛況で五十人超が泊まったとのことである。越中沢岳の登りに気をつけてとアドバイスして別れ、スゴの頭を下りる。

 シラビソ(と思うが)の林を通って、スゴ乗越、9時。このすぐ上にあるスゴ乗越小屋が薬師岳を越える長いコースの唯一の中継点なのだ。とうとうここまで来たという感慨がある。乗越というからには峠の機能があるはずだが、今は稜線を横切る道はない。東へ下りれば黒部川の上廊下の渓谷、西へ下りればスゴ谷から常願寺川に出る。かつては猟師や山師が利用していたのかもしれない。

 さあ、これから薬師岳頂上まで登りが続くのだ。再びシラビソの林になって、道が湿地のようになるとスゴ乗越小屋。この辺りは小さな平原状になっていて池塘もある。スゴ乗越小屋は小さくてまさしく小屋という感じだが、雰囲気はよさそう。入口の前にシンクと蛇口があるが水が出ない。ポンプの調整中だったらしくやがて出るようになったので使わせてもらう。小屋の前のベンチで三十分ぐらい休憩した。目の前のスゴの頭と越中沢岳が立派。薬師岳は木々に隠されて見えない。このペースなら今日中に薬師岳を越えられそうだ。10時出発。

 石の道の登りになる。ガスが出て来た。大きな池塘とその上に雪渓があった。お花畑になっている。間山を越えるとガスを抜けた。左手に雪渓がある。道の脇にすわりこんでいる中年の男の人がいた。これを登った上は何かとたずねられたので、北薬師ではないかと答え、だがまだ先だろうと付け加えた。男の人はかなりまいっているようだった。しかし、スゴ乗越小屋に戻っても、結局は薬師を越えるか立山方面へ行くかしかない。

 累々とした岩の道となり、やがて傾斜はゆるくなるが、岩は続いている。大きなザックをかついだ学生らしい男女のパーティー二組(七人と五人)とすれ違う。七人組のうちの女性一人は後ろの男性にザックを持ってもらっている。自分のザックを背負い女性のザックを片腕にかかえているのでさぞかし歩きにくかろうと思った。頂上らしきものは見えているのだがなかなかたどりつけない。ようやく北薬師岳、12時15分。

 薬師岳本峰が鋭い稜線の続きの彼方に見える。はるか下にエメラルドグリーンの黒部川。反対側には有峰湖。太郎兵衛平と小屋も見える。雲の平の向こうの山々は頂に雲がかかっている。水晶岳と赤牛岳が大きい。裏銀座、後立山の山々にも雲。北方、立山方面には大きな入道雲。

 高価そうなカメラを持った女性が一人いた。スゴ乗越小屋から来たのだが、同宿の男の人が遅れているようなので心配だと言った。さっき追い抜いた人に違いない。女の人がスゴ乗越小屋の人から聞いた話として、五色が原までの道が比較的やさしいのでスゴ乗越小屋まで足を延ばそうとする人がいて、越中沢岳の下りでまいってしまうらしい。

 五色が原山荘で作ってもらった弁当を食べる。女の人から本峰までは大したことはないでしょうねと聞かれて、ええ一時間もかからないでしょう、三十分ぐらいではと答えた。しかし、私はここから見る稜線の鋭さと高度感にびびっていた。女性が先発し、弁当を食べ終わってから私も続く。

 北峰と本峰の間のカールの傾斜はすごい。道は稜線から少し下を通っているので助かるが、両側が切れていやらしいところもある。結構時間がかかり(五十分ぐらいか)13時35分、薬師岳。先行した女性が写真を撮っていた。彼女の写真を撮るためにシャッターを押してあげる。女性は今日は薬師岳山荘泊まりとのこと。下方に小屋が見える。ここまでくれば安心だからゆっくりしていくと言う女性を置いて先を急ぐ。

 ここからは来たことのある道だ。東南稜の頭を経由して石だらけの広い尾根を下り、薬師岳山荘へ。すでに泊まり客が小屋の前で休んでいる。太郎平小屋が見えているのになかなか着かない。薬師平の林に入り、沢を下ってようやく薬師峠へ。テントが十数張り。登りかえすと太郎兵衛平の木道に取り付く。日が照り、開けた景色。四十年前、友人と二人で薬師岳を往復したときの記憶を呼び覚まされてなつかしく感じた。槍が次第に手前の山の陰に入っていき、これで見納めだという会話をしたことも思い出した。何人かテントから小屋へ買い物に行っていたような人とすれ違う。太郎平小屋、15時半。

 薬師岳に登るときに追い越した男の人のことが気になったが、何とか薬師岳山荘にはたどり着けるだろう。前日獅子岳の下りにいた人といい、ヘタすると遭難してもおかしくない。そういう人に出会っても冷たいようだが何もできない。たとえ事故にあった人を見かけても連絡するぐらいのことしかできない。自分の身を守るだけで精一杯なのだ。体調が悪かったり疲労したりしてまいってしまったことは私もある。そういう場合でも自力で切り抜けるしかない。登山というのは利己的な行動だとつくづく思う。

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