中高年の山(太郎兵衛平)
2007年8月9日、太郎兵衛平から折立への道を下っていると、何人もの登山者とすれ違った。登山道は歩きにくい石ころだらけの乾いた道から針葉樹の森の中のしっかりした道に変わっている。きつい日差しも木陰になった。登山者たちは数人のパーティーで、あるいはアベックで、また単独で、ばらまかれたように不規則な間をあけて続いている。彼らはたぶん7時10分から8時30分までに折立に着く四台のバスに乗って来たのだろう。一台四、五十人として二百人弱、だが、そんなにいないようだ。今日は木曜日、週末ほど混まない。
彼らはきつい登りにあえいでいた。そう見えたのは私の精神状態が反映していたのかもしれない。私は下山する身、もう辛い登りはないという状態を楽しんでいた。もし、引き返して彼らの列に加われと言われたら、その対価がどれほど大きくともちゅうちょするだろう。一方、彼らは登り始めたところで、期待に満ち、元気一杯のはずなのだから(ウォーミングアップするまでは苦しいかもしれないが)。
大きくて重そうなザックをかつぎ、苦労して登っている(と見える)彼らと何度もすれ違うと、何でそこまでして山に登るのだろうという疑問が湧いてきた。
久し振りに山小屋に泊まって、私は日帰りのできない山を敬遠するようになった理由を思い出した。山小屋の混雑を嫌ったのだった。食事の粗末さ、水の制限、便所の汚さ(いずれも最近は改善されているが)などはさほど気にはならないが、耐えられないのは雑魚寝である。太郎平小屋で私の割り当てられた部屋では三十畳ほどの広さに二十五人が寝た。入口に続く壁際の五畳はザック置き場と通路になっているので、残りの場所で一人一畳である(これでもましな方だろう)。敷き布団と毛布と掛け布団のセットを敷き詰めてある。枕は二つあって、混むときには一つの布団に二人が寝ることになる。
私の頭の方は壁だったが、左右と足元に隣接して人が寝ている。隣の男が早速イビキをかき出す。私は寝付きが悪いので、他人がイビキをかき出すともうダメだ。その日にかなり歩いたので疲労が眠らせてくれるはずだと思っていたが、その見込みは外れた。反対側の隣は珍しいことに小学生らしい男の子で(父親と一緒だった。母親もいたのかもしれない。昔は男女がごっちゃに寝たが、今は別室になっている)、寝相が悪く一夜に三回ほど私の方へのしかかってきた。眠れないので半分方あきらめ、ただひたすら起床時間になるのを待った。一睡もできなかった(主観的にはそうである。客観的には途切れ途切れに寝ているようでもあるらしいのだが)。
その経験が、小屋泊まりでの登山を敬遠させる気持ちを、再びもたらしたのだった。着替えもせず脱ぎもせずに横になり、そのまま起きて出かけようとする男たちが部屋一杯にいるのを見ていると、他人と一緒に寝られないような人間は場違いであることを感じてしまう。個室までは望まないものの、一人分のベッドは欲しい。それが無理ならテントにすればいいのだが、重い荷物をかつぐのは嫌なのである。私はできるだけ楽をして、そして快適に山に登りたい。
登山者の多くは中高年である。男性だけのパーティー、女性だけのパーティー、男女混淆のパーティー、アベック、単独行など、形態は様々である。まるで若い人のいなくなってしまった世界で、中高年者が若い人の代わりをしているかのようだ。そのことを揶揄するつもりはない(私自身も中高年登山者なのだ)。中高年の男女が登山という趣味を持てるほど経済的時間的体力的余裕を得られていることを喜ぶ。彼らが楽しみに来ているのは間違いない。
だが、何が楽しいのだろうか。風景だろうか。確かにここでしか見られない景色はある。だが、それだけではなさそうだ。山の景色が素晴らしく感じられるのは、それを見るために苦労しなければならないからではないだろうか。私たちは山の景色を見るためには苦労をいとわぬのではなく、苦労があるからこそ山の景色を見ようとする。それだけの苦労をかけたのであるから、それは単に美しいだけでなく、特別なものになるのだ。
だから目的は景色そのものにあるのではない。苦労して登ると言うこと自体が喜びなのだ。その達成感に付随するものとして景色がある。風景はいわばオマケである。
もっと言えば、何かを成し遂げたという気持ち自体も決定的に重要なのではない。単に頂上に登るだけなら、歩こうと車やロープウェイを使おうと、結果は同じである。安易に手に入るものでは満足を得られず、それゆえそのようなものを望もうとはしない。苦労して手に入れるからこそ、達成感があるのだ。苦労して得たものこそ、貴重なのだ。だから、私たちが何か貴重なものを得たいと思うなら、苦労しなければならない。そして、そこから倒錯が始まる。苦労して得たものは、貴重なものであるはずだ。貴重なものでなければならない。その貴重さは苦労によって保証されている。
そうだ、苦労して山に登ることは、確実に何か貴重なものを獲得できることを意味しているのだ。苦労が報われるという幻想を山は与えてくれる。世の中はそれほど単純ではない。費やした苦労が成果に比例することなど滅多にない。もっと違ったいろいろの要素が介入して、成果へ到る経路を複雑で分かりにくくしている。山は違う。登ることの苦労が成果に直接結びつく。成果ははっきりしている。目的の山頂にたどり着くこと。目的のコースを歩き通すこと、そして山の景色を見ること。
これは年齢には関係なく、山へ登る人の普遍的な傾向だろう。ただし、若い人は山にもっと冒険的な要素を求めるのかもしれない。だから、中高年の登山者には世俗的なものを感じてしまう。下界の趣味の延長でしかない、物見遊山としての安全な登山。しかし、中高年者も下界では得られぬものを求めて山に登っているのである。彼らもまた巡礼者なのだ。聖なるものに憧れてひたすら自分の身を責めているのである。
さて、折立まで降りてきた。都合よく九時半のバスに乗れた。富山駅まで直行してくれる。バスは渓谷の高いところを走る。見下ろすと深い谷だ。やがて平野に出る。剣岳などの山々が見える。いまもあそこにはたくさんの登山者がいることだろう。けれどもいつまでも山に留まっているわけにはいかない。にわか巡礼者には故郷が必要だ。平穏な日々があるからこそ山は憧れの対象になるのだ。
駅に着いたら一番早く乗れるサンダーバードで大阪へ帰ろう。