井本喬作品集

籾糠山

 紅葉がきれいだというので、UさんとOさん(いずれも中年女性)を誘って籾糠山へ行く。籾糠山があるのは岐阜県、白川郷の東の天生峠の近く。白川郷まで高速道が使えるので、日帰りは可能である。天生峠は『高野聖』の舞台とされているところのようだ。籾糠という奇妙な名前は飛騨の匠伝説によるものらしく、匠の作った人形が耕作して脱穀した稲の籾殻が飛んで山になったという。

 2007年10月7日(日)、6時半に千里中央で待ち合わせ、名神経由で東海北陸道に入り、北上する。連休なので道は混み始めている。観光バスも見かける。天気はよく、絶好の観光日和だ。白川郷ICで高速道を降りて、三六〇号線に入り、新緑の山の中を登って行く。国道といっても林道のような狭くカーブの多い道で、しかも時おり対抗車が来るので気が抜けない。林が切れているところからは谷と向かいの山並みが見える。

 峠の駐車場にはかなりの車がとまっていたが、空きスペースはあった。テント張りの臨時の店が二つ設置されていて、地元の人が産物を売っていた。協力金(500円)を徴収する人によると、今日は70人ぐらいが入山しているとのこと。10時45分、出発。

 案内図によれば、湿原までは道は一つで、そこから三つに分かれ、右がブナ探勝路、左が水平探勝路、真ん中が平凡に籾糠山登山道となっている。三つのコースは頂上の下で再び合流する。

 なだらかな山道を登ると、三十分ほどで湿原に着いた。湿原までは観光客が来るようだ。枯れた草におおわれた平面が広がっている。湿原を取り囲む木々は、紅葉には早いのかまだ緑だが、下部の藪は赤らんでいる。ナナカマドの実が赤い。湿原とか池は、凹凸の斜面からなる山の中に平らな部分を形成しているので、考えてみれば不思議な景観だ。それが人を引き付けるのだろう。

 湿原から少し下って小さな流れを渡るとカラ谷分岐で、道が分かれる。中央の道を行く。道は深い森の中の谷を登っていく。川は道とはやや離れているようだ。枝を広げた背の高いブナが点在し、シダなどの下草や灌木が地をおおっている。10人ほどの団体がいて、年配のガイドが、ブナの木の幹に地衣類のついていないところまで雪が積もると説明していた。地表から三、四mはあっただろうか。その先に、カツラノの大木が五本あって、その二本の間を通るようになっているところはカツラ門と名付けられていた。

 人手のほとんど入っていないこのような森の中を歩いていると、個人としての人間の卑小さを感じずにはいらない。大昔、縄文時代の人々はこのような森の中で生活していたのだろう。森は恵みを与えてくれるものとして親しげな相貌を見せていたのだろうか。それとも、今私に対してそうであるように、小賢しい人間どもに対して畏怖すべきものとして立ちはだかっていたのだろうか。

 この森の中を登って行く道は、誰が何のために作ったのだろう。ひょっとすると、縄文人たちが食べものを求めてたどった道が、連綿として受け継がれて、登山者に利用されるようになったのだろうか。あるいは、測量技師や登山者たちが作るまでは、頂上へ到るどのような道もなかったのだろうか。そんなことも考えてしまう。

 12時、水平分岐に到着。ここで水平探勝路と合流する。金沢から来た女性二人が休憩していた。大阪方面から来たと告げると、驚き、(どうせなら)白山に登ればいいのにと言った。遠くからわざわざこの山まで来たのを不審がっていた。関西にはいい山がないとも言っていたが、反論するのも大人げないので黙って聞いていた。

 そこから少し下ると籾糠分岐でブナ探勝路と合流する。再び上りになり、モミやダケカンバが目立ってくる。頂上近くなると、幹の白いダケカンバの巨木が、紅葉した蔦を幹にまとわらせていた。妙な風に白い幹をくねらせたダケカンバの木を、Uさんはエロチックだといった。

 13時、頂上に着く。大きな岩が露頭している狭い頂上には、緑の腕章をつけた管理員と二人の男の登山者がいて、話をしていた。東方と南方は雲に隠されて眺望はきかない。白山は西南の山にさえぎられて見えないらしい。西方は木が邪魔をしている。北方には、木平湿原のある尾根と、登って来たカラ谷が見下ろせる。西北には小さくダムが見える。管理員が天生峠の場所を教えてくれた。

 管理員は登山道の整備をしているのだが、今日は登山者が多いので控えている。冬にも山に入る。冬には背の高いブナを残してみな雪に埋もれる。雪が積もるとどこでも歩けるから、登り2時間、下り1時間で行ける。管理員はそう話した。カンジキを使うのかと聞くと、長靴(そう聞こえた)のまま歩くと答えた。雪が陽に溶け、夜に氷ると、その上に乗っても落ち込まずに歩ける。昔は冬に木を切ったので乾燥していたからよいマイタケがとれたが、今は夏に木を切るのでしめっていていいマイタケがとれない、とも言っていた。管理員は14時30分まで頂上に残るとのこと。ときどき持っている無線機が交信の声を出す。

 私たちは昼食をすませてから、13時40分に下山開始。籾糠分岐を経由して水平分岐まで戻る。帰りはここから水平探勝路に入る。最初は登り。笹が現れてくる。木平湿原に着く。小さいが水面が見えて、いかにも湿原という感じ。「ダケカンバの大木」という標示があったのでそっちへ行ってみると、幹の上方が折れてなくなっていた。

 ブナとダケカンバの林の中を下り、カラ谷分岐に戻る(15時20分)。あとは来た道を引き返し、15時50分、駐車場に着く。テントの販売所は既に店じまいしていた。今年は紅葉が一週間ほど遅れているようで、人出はまだ少ないらしい。帰りは白山スーパー林道を通って福井へ出て、北陸道に乗った。

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