六甲山の一日
私の住んでいる宝塚の近くで名前の知られた山といえば六甲山である。宝塚は六甲山の東の端になっているから、すぐに東六甲縦走路に取り付ける。表六甲の登山道の起点である芦屋や神戸、裏六甲の有馬温泉にも近い。だから、六甲山には登ったことはもちろんあるし、一時はかなり頻繁に登っていたが、ここしばらくはご無沙汰している。理由はいろいろあるが、要は飽きてしまったのだ。あまりに近すぎるので、そして慣れ親しみすぎたので、魅力があせてしまったのだ。人間関係でもよくあることではないか。
車ではときどき行ってみる。六甲山のドライブウェイはほとんど無料である。宝塚から東六甲ドライブウェイに乗り、六甲山を縦走する。最高峰近くの道脇に一軒茶屋があるが、山頂には自衛隊の電波塔があるだけで他には何もない(以前は米軍のレーダーがあって山頂は立入禁止だった)。施設がかたまっているのはもう少し西に行ったところ。以前は十国展望台という回転する施設があったが今は撤去され、六甲ガーデンテラスという施設になっている。傍には六甲カントリーハウスがある。さらに西へ行くと高山植物園、記念碑台、六甲山牧場、森林植物園などがある。
最近、誘われて摩耶山から布引まで歩いた。ケーブルで摩耶山まで登り、トゥエンティクロスと呼ばれている道を下りた。このコースは初めてだった。登山というよりハイキング気分だったが、印象はよかった。また六甲山に登ってみてもいいと思った。手始めに、ポピュラーなコースとして、東六甲縦走路から最高峰を経て魚屋道を有馬に下った。途中雨に降られて濡れてしまい、一軒茶屋で体を温めるためにうどんを食べた。日曜なので歩いている人は多かった。有馬で温泉に入った。なかなかいい気分である。どうしてこの山を敬遠していたのだろうか。
使い古した地図を見てみると、いろいろなルートを登ったつもりでも、行っていないコースがまだまだあった。それらのコースを歩いてみることにした。思いのほかハードなコースもあり、林道歩きの退屈なコースもあった。見捨てられようとしているのではないかと思えるような寂しいトレールもあり、この山にもこういうところがあるのかとその雰囲気に感嘆する場所もあった。人間との交流を仕方なく受け入れているようでありながら、下界とは隔絶した静寂な空間を秘め保っている。六甲山にはまだまだ私の知らなかった姿があり、様々な表情を見せてくれる。
ぼろぼろになった地図にそれらのコースをマークしていると、シェール道をまだ残しているのに気づいた。この異国的な名前は、行楽地としての六甲山を開発した神戸居留の外人が名づけたもので、他にも前出のトゥエンティクロスや、シュラインロード、アイスロード、カスケード・バレー、ベルビューアリマロードなどの名が残っている。シェール道は杣谷峠とヌクトゲートロック(ヌクトというのは地名らしく、かつて登攀されていた岩壁がある)を結ぶ短い道で、トゥエンティクロスに続いている。前述の摩耶山からトゥエンティクロスを下りたハイキングでは、ヌクトゲートロックまで桜谷を歩いた。もう一つ、徳川道が杣谷とトゥエンティクロスを結んでいる。つまり、ヌクトゲートロックで三本の道(シェール道、徳川道、桜谷)が合流してトゥエンティクロスに続いているのだ。
徳川道というのは、幕末、外人が居留している神戸を迂回するために作った参勤交代用の道である(正式には西国往還付替道。ただし時代転換に間に合わずにその用途としては使用されなかった)。石屋川で西国街道(山陽道)と分かれ、杣谷(カスケード・バレー)をそのルートの一部とし、トゥエンティクロスの手前から森林植物園の辺りを抜けて小部峠方面へ向かい、最終的には大蔵谷で西国街道に合流していた。今では一部が徳川道というハイキングコースとして残っているだけである。
杣谷峠から徳川道でヌクトゲートロックまで行き、シェール道を通って戻ってくるというのは散歩程度の循環コースだ。春のある日、歩いてみた(2008年4月20日)。車を杣谷峠の休憩所の横に置き、まず穂高湖まで少し下りる。山上の小さな人工湖であるが、木に囲まれて不自然さはない。十艘近くのカヌーとカヤックが浮かび、乗っている子供たちに指導員らしき人が声をかけていた。傍にある青少年自然の家の利用者と関係者らしい。道標に従って奥へ進み、穂高湖のダムの下の広めの道に出たが、どうやらシュール道の方に続いているようだ。先に徳川道を通るつもりだったので、笹の中に見つけた細い脇道を登り返すと、合流点に徳川道の道標があった。
徳川道を下っていく。山道としては道幅があり、ところどころに階段もあるが、作られた頃のままではないらしい。途中、ルートから少しはずれたところに昔の石垣が残っていた。コース自体は何て言うことのない林の中の道だ。元のままではないとしても、こういうところを大名行列が通れるものかと不審に思う。昔の街道は、山の中はどこもこんな細い道で、傾斜もかなりあったのだろうか。駕籠を担ぐのは大変だったろう。日本に馬車が発達しなかったのは当然な気がする。
ヌクトゲートロックの手前でシェール道を合わせて、小さな谷川に出る。桜谷の道もここへ出てきている。ヌクトゲートロックがどこにあるかは分からない。道は川を渡って続いている。向こう岸に二人の男が休憩している。私はこちら岸に座って昼食を食べた。トゥエンティクロスの方からアベックが来て川を渡り、桜谷の方へ登って行った。いつの間にか向こう岸にいた人もいなくなっていた。
来た方へ少し戻ってシェール道に入る。谷川沿いのいい道だ。何回か川を渡る。山桜が咲いていた。ツツジはもう終わったのかまだなのか咲いていない。えん堤を高巻くと、マムシ谷への分岐がある。さらに行くと林道のような広い道に出た。その道を右に行き、穂高湖のダムの下に戻る。四阿のような休憩所に親子三人連れがいて、猫のような動物が一緒だ。よく見るとフェレットが三匹、リードにつながれていた。一匹はテーブルの下で穴を掘っている。別の一匹がリードを延ばして近づいてきた。女の子も来て、「抱いてかまわないから」と言う。なでて抱いてやる。
えん堤の横を登り、穂高湖を一周する。もうカヌーもカヤックもない。車のところに戻る。さっきは気がつかなかったが、傍に大きな山桜とこぶしが一本ずつ、それぞれ花盛りだ。この前ダイアモンドポイントから地獄谷西尾根を下りたとき、三国岩を見つけ損ねたので、探してみることにした。車でドライブウェイを東に戻り、適当な脇道に入る。別荘地帯の狭い道を行くとカフェテリアの看板がかかった門柱があり、その少し先に三国岩があった。
三国岩に登った後、狭い道で苦労して方向転換して戻り、カフェテリアに入ってみる。小さいけれどしゃれた感じの店で、親子らしい女の人がやっているようだ。窓際のテーブルを選んだが、外の景色は矮小木の林が広がっているだけであまりいい眺望ではない。メニューを見て少し高いがケーキセットを注文した。コーヒーとケーキを持ってきた娘さん(といっても中年女性)と会話をする。店は以前はもっと奥の方にあったのだが、三年前に別荘だったここを買い取って移った。店の前の道は全縦走のコースなのだが、今はみなドライブウェイを行くので、人が通らなくなってしまった。でも、口コミで伝わるのか、登山者の常連客が結構来てくれる。この辺りでは桜やつつじはまだ早く、ゴールデンウィークの頃が見頃である。そんなことを話してくれた。
まだまだ六甲山には驚きが隠されているようだ。