井本喬作品集

白峰三山

 塩見岳の頂上は雲海に囲まれていたが、下るにつれて雲が消えていき、白峰三山がよく見えるようになった。以前に白峰三山の縦走を試みたときは天候が悪くて間の岳の辺りで引き返した。北岳と間の岳は重なって鞍部が見えないが、間の岳と農鳥岳の間は結構大きなアップダウンのようだ。それを眺めているうちに、白峰三山の稜線を完全にたどっていないことが、何か懸案を残したままでいるような落ち着かない気持ちをもたらした。

 それで、今年(2008年)中に白峰三山の縦走をやり遂げることにした。8月の下旬は集中豪雨があちこちで発生して天候が不安定のため、様子を見ながら計画を立てた。一泊目が北岳肩の小屋か北岳山荘、二泊目が農鳥小屋か大門沢小屋というのが標準の行程である。一日目に農鳥小屋まで行ければ一泊で済ませられそうだ。コースタイムは一日目が9時間、二日目が8時間だ。登山口の広河原にはマイカー規制で入れないので、車は芦安か奈良田に停めてバスを利用しなければならない。下り口が奈良田になるので、奈良田からバスに乗るのが便利だが、夏期は5時30分であった始発が、8月25日から平日は7時55分になった。広河原着が8時45分であり、それから登り出すのでは農鳥小屋まではとうてい無理である。

 9月に入ってしばらくいい天気が続きそうなので、どうしようかと迷っていたら、ウェブで農鳥小屋の評判が悪いのを知った。農鳥小屋を避けるのなら、一泊目は北岳山荘にすればいい。北岳山荘から奈良田まではコースタイム11時間弱なので、多少無理すれば翌日に下山することもできそうだ(同じ行程を取った人の記事もウェブで見た)。

 奈良田発7時55分のバスに乗るためには、0時頃に家を出なくてはならない。それでは全然眠れない。前夜に現地近くに泊まってもいいが、いっそのこと車の中で仮眠した方が手っ取り早い。仮眠では翌日の行動が不安だが、初日は無理のない行程だから何とかなるだろう。そう決めたのが9月8日。急に思い立ったのでぐずぐず準備しているうちに日が暮れて、結局奈良田に着いたのは深夜2時過ぎになってしまった。集落を通り過ぎたところにだだっ広い空き地があり、行事などに使われるテントが二張り立てられている。ばらばらに数台の車が停まっている。空き地の端、離れた二台の車の間に停めた。後部座席に横になりすぐに眠った。足元が寒くて4時頃に目が覚めたが、上着をかけてまた眠る。

 起きたのは6時頃だ。いつの間にか横に車が並んで停まっている。昨夜からいたのか、朝着いたのか、何人かがうろうろしている。まだ眠いので再び横になって目をつむるが眠ることはできない。7時前に起きて準備をする。ここは丸山林道前というバス停になっていて、始発の奈良田の次の停留所らしい。テントの中の椅子に座ったり、その近くに立ったりして全部で八人ほどがバスを待った。シーズンの週末にはこの駐車場が埋まるぐらいにぎわって、このテントには整理をする係員がつめるのだろうか。バスが来て、無愛想な高齢の男の車掌に料金を払って乗り込む。睡眠不足のせいか、蛇行する道に酔いそうな感じが起こったが、幸い広河原の直前だったので、無事着いた。

 思惑通り、今日はよく晴れている。野呂川を渡る吊り橋の手前から北岳が見えた。大樺沢を登る。しばらくは林の中だが、やがて眺望が開けて振り返ると早川尾根に続く鳳凰三山が正面だ。二俣の手前で八本歯のコルやバットレスの辺りを低くヘリコプターが飛んでいるのが見えた。「こちらは‥‥(よく聞こえなかった)ですが、ただいま行方不明者の捜索をしています」というアナウンスが聞こえた。

 二俣は白根御池や小太郎尾根への分岐となっていて、十数人の人が休憩していた。二俣からは左俣を登る。草付きにはまだ花が咲いている。前回はこの登りでまいってしまった。昼の弁当が手配できず、無謀にも昼食抜きで登ったので、シャリバテしたのだとずっと思っていたが、この登りで無理すればまいるのは当たり前だった。あのときは二俣を過ぎた辺りでガスの中に入ってしまい、しゃにむに登ったのがいけなかったのだろう。見上げるとバットレスが頭上にそびえ、右の肩から甲斐駒の白い頂が現れている。

 八本歯のコルまで登ると、南東には雲があって、間の岳にガスがかかり、隠された富士山がときどき姿を見せる。バットレスが側面になった北岳は近すぎて頂上がどこなのか分からない。さらに尾根を登って1時間ほどで頂上へ着く(14時)。ガイド付きの三十人ほどの団体がいたが、彼らが肩の小屋の方に下りてしまうと十人程度になった。すぐ傍の大きな仙丈岳、ピラミッドそっくりの甲斐駒が岳、鳳凰三山、中央アルプス、御岳、乗鞍岳、北アルプス、八ヶ岳などがきれいに見えるが、南方には相変わらず雲がかかっていた。十分眺望を楽しんだ後、北岳山荘に向かって下りる。吊尾根分岐を過ぎて岩稜を右に巻いて下りる道の途中に、摘まれた高山植物の花の束が置いてあった。誰がこんないたずらをと思ってよく見ると、傍に燃えさしの線香が何本かある。遭難者の慰霊なのだろう。

 北岳山荘に着いたのは15時20分。9月に入っての平日だからすいているが、それでも多い方ではないかと登山者たちは話していた。天気がいいことが大きな要因のようだ。私のように、天候を見計らって登るという人は案外多いらしい。必ずしも引退した人ばかりでなく。

 夕食までにまだ時間があり、することもないので缶ビールを買って飲んだ。しばらくうとうとしたかもしれない。夕食の時間になって食堂で席につき、料理に手をつけようとしたとたんに吐き気がした。あわてて席を立ってトイレに行こうとしたが入り口近くの廊下で意識が薄れて倒れてしまった。山小屋の人がその場で寝かせたまま枕を当て毛布で足を高くしてくれる。すぐに意識は回復し、山小屋の人の声かけに応える。山小屋の人は凍らせた水の入ったペットボトルをタオルにくるんで渡してくれた。しばらくそのままでいた後、夕食は断って、部屋に戻って横になった。

 あまり眠れた気はしなかったが、翌朝には完全に回復して朝食も食べた。ペットボトルを返しにいき、おかげさまで何とか行けそうですと礼を言うと、何とかじゃ困るけどと苦笑していた。以前にも一度、山でビールを飲んで嘔吐したことがある。睡眠不足のせいもあろうが、もう山の酒は懲りた。

 その日はさらに晴れて、南方もよく見えた。雲は富士の裾野の辺りまで下りている。6時前に出発。間の岳の頂上へ来て、前回はどうやら手前で引き返してしまっていたことが分かった。起伏がなだらかになった頂上付近は、ガスの中では位置がよく分からず、標識のようなものがあったのでそこが頂上と判断してしまったようだ。

 晴れた縦走路だから前方や後方に歩いている人が見える。バラバラに歩いていても、頂上では先に来て休憩している人に追いつき、後から来た人とも一緒になる。間の岳の急なガラ場を下った鞍部の農鳥小屋の前では、単独行者が四人ほど集まったが、何となく不安げで、小屋の評判について口に出す人もいた。売店窓口の奈良田の民宿取り次ぎの看板に、9時~10時にここを通過すれば、その日のうちに奈良田まで下れると書いてある。通常8時間かかる、とも。今は8時前。奈良田まで行くのは十分可能なようだ。

 薄い白髪頭の大柄の老人が、半ズボンにタイツという姿で、両手にストックを持って達者に歩いていた。この人はほぼ同じ頃北岳山荘を出発し、私よりやや遅れたが、間の岳の頂上でも農鳥岳の頂上でも一緒になった。引退していてよく山に登っているとのことで、このルートも何度も歩いているらしい。今日は農鳥岳まで行って引き返すと言っていた。農鳥岳の登りで、トレーナー姿でスニーカーのような靴をはいた若者に追い越されたが、彼とも頂上で一緒になった。彼は八ヶ岳の小屋で働いていて、休みをとって来ているとのことだった。北岳山荘にテントを張っているので、彼も農鳥岳から引き返す。

 農鳥岳の頂上からは塩見岳が間近だ。その左に荒川岳。富士山。振り返ると巨大な間の岳の右に三角形の北岳、左に台形の仙丈岳。赤石岳はどれだろうとちょっとした議論になった。タイツの老人は、赤石は荒川の右肩に隠れていて、ほんの少し見えていると主張した。スニーカーの青年は、荒川が三つの峰を持っているように見えるが、真ん中の峰が赤石で、荒川が双耳峰のように間をくぼませているところから赤石がのぞいているのだと主張した。「赤石から農鳥が見えますからね」と青年は証拠立てた。老人は納得し難いようだった。大門沢から登ってきた夫婦が地図で確かめて、青年の主張が正しいと言った。

 私は聞いているだけだったが、塩見岳に登ったとき小屋から見えるピークのことで論争したことを思い返していた。塩見小屋から下りて行くときに、何であんなことにこだわったのかとずっと自己嫌悪に捕らわれたのだ。自分の意見に固執することで、どれほど人に嫌な思いをさせてきただろうとそのときも反省し、今も他人の中に自分の姿を見ていた。そうだ、たかが山の同定に過ぎない。そのことが命の問題になることもあるだろうが、そんなことはめったにない。人生で意見の分かれることは、ほとんどはどうでもいいことなのだ。どちらが正しかろうと、間違っていようと、それを決めることで事態は改善されることはないのだ。だとすれば、そんなことにこだわらないで、人生をもっと楽しいものにできたのに。だが、反省はいつも遅すぎる。

 大門沢から登ってきた夫婦はしんどい登りだと言っていた。そのコースを取ったのは農鳥岳を登り残してしまっていたかららしい。二百名山か三千米峰完登を目標にしているのだろう。農鳥岳を下ると山々は隠れて見えなくなり、富士だけが常に視界にある。大門沢下降点には黄色く塗られた鉄パイプ製の三角垂の標識が立っていた。中には鐘がつるされ、てっぺんには「大門沢」「ヒロゴウチ岳」の打ち抜きの標識がつけてある。これを設置した人の息子が、吹雪で下降点を見つけられずここでビバーク、沢に下るときに遭難死したと記してある。

 ここからの下りは急だった。確かに登りはしんどいだろう。登って来る何人かとすれ違った。世の中、楽をしようという人ばかりではないようだ。大門沢小屋着12時。奈良田の駐車場には15時前に着いた。

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