井本喬作品集

八経が岳への道

 八経が岳(八剣山、仏教が岳とも)1914.9mは近畿の最高峰である。とはいっても、私がそれを発見したわけでも、確認したわけでもない。いたるところにそう書かれているから確かなのだろう。比良の武奈ヶ岳が1214.4m、鈴鹿の御池岳が1242m、兵庫県の最高峰である氷ノ山が1510.5mであるから、大峰の山々がこの辺りではいかに高いかが分かろうものだ。ちなみに、加賀の白山(2702m)以西で一番高い山は四国の石鎚山(1982m)だそうである。

 この山には1988年10月29日に登ったことがある。怪しい空模様だったのだが、行者還トンネルの入口付近から取り付いて奥駆道に出ると雪が降っていた。周りの空間が漂い落ちてくる雪でみたされている頂上というのは、今思えば幻想的な風景として印象に残りそうだが、八経が岳の記憶はない。雨や霧などで周りがよく見通せないままに登った山は、頂上に到達したという実感が得られないままになっているので、八経が岳にももう一度登ってみたいと思っていた。

 同じ道は避けたいので他のルートを検討してみた。八経が岳へは川合から狼平経由の道もあるが、日帰りで往復するにはかなりハードだ。川合から川迫川を遡った熊渡というところから入るショートカットのルートがあることをインターネットで知った。そう言えば、169号線から行者還トンネルを抜けて309号線へ出る狭い道の途中に、「頂仙岳、双門滝経由弥山、登山口」という標示を見た記憶がある。弥山川を遡行するかなり危険なルートの登り口でもあるらしい。

 梅雨入り前の2009年6月2日、精一杯早起きし、近畿道、阪和道、南阪奈道を使って橿原へ、南下して下市から309号線で川合へ、川迫川沿いの狭い道を行く。工事のためかトラックが列をなして対向してくる。待避場所には誘導員が配置されている。登山口を探しながら川迫ダムまで行ってしまい、見過ごしたのに気がつき引き返す。

 川に橋がかかって林道が山に入っている地点が登山口のようだ。ここにも誘導員がいた。道の崖側(川の反対側)がけずられて道幅がやや広くなったところに車が二台停めてある。そこに私も車を並べる。登山口の標示はない。記憶違いだったのだろうか。

 午前8時半に出発。橋を渡ると車両通行止めの柵がある。そこを抜けて緩やかな登りの林道に入る。無舗装の地道だが普通車でも走れないことはない。しばらく行くと電力会社の軽自動車が停めてあった。その先の切り通しが崩れて、路面に岩屑が積み重なっている。そこを越えていくと、バイクに乗った人が下りてきた。何者だか判断つかない。三十分ほどで道が三方に分かれている地点に着いた。右の道路は大きくくねって斜面を登って行く。左側は川へ下りている。真ん中を取ると、小さな橋があり、その先で林道は終わっていた。ここから登山道だ。

 杉林の中のつづら折りの道を登る。やがて右手にブナ林が現れる。杉とブナの境界の尾根をしばらく行くと、道はすべりそうな斜面をトラバースする。ブナの疎林で下草はないが落ち葉に隠れて道がはっきりしない。谷の源頭を登りつめると川合からの道との合流点だった。そこはタワのようところで大きなブナの木の林になっていた。

 小バエがうるさくつきまとう。道を左に取り登って行く。杉林を過ぎると、ブナやモミの林の広い尾根になる。頂仙山の東を巻くと高崎横手の分岐だ。明星が岳への古道が復活されたという説明版がある。左へ行けば狼平経由で弥山への従来の道だが、右へ、明星が岳へ向かう。トウヒやシラビソの林になり、立ち枯れや倒木が目立つ。左手の弥山の方にヘリコプターが何回も飛来する。何かを運んでいるようだが、山小屋への荷揚げではなさそうだ。オオヤマレンゲ保護の立派な鋼鉄製の柵に出くわすと、奥駈道との合流点。

 道のはっきりしない明星が岳を適当に登り降りした後、柵に沿って奥駈道を八経が岳の方へ進む。少し登ると頂上。午後1時前だ。年配の男の人が一人いた。行者還トンネルから登ってきたと言っていた。頂上からの眺望は360度山また山だ。すぐ傍に弥山小屋が見える。

 男の人が弥山の方に下りてしまってから、入れ替わりにまた一人年配の男の人がそっちから登ってきた。その人は頂上への最後の登りで「虹か」とつぶやき、登り切って私に向かって「何か赤いものがあるので、何かと思った」と言った。振り返ると空に棒のような虹。中天の太陽からやや南、太陽を中心とした大きな円の一部のようだが、両端が途切れて、少し曲がった水平の棒のよう。こんな現象は初めてだ。吉兆を思うよりも凶兆かと無気味な感じがするが、単なる自然現象にすぎないだろう。

 食事をして下る。途中、柵の扉を二度通過。登り返して弥山小屋。弥山の頂上はその少し上、広場になっていて神社がある。小屋に戻ると、狼平からの道を工事関係者らしい数人の男たちが来る。先ほどのヘリコプターは彼らに資材を運んでいたようだ。

 左手に八経が岳を見ながら尾根を下る。林の中を木の階段(釈迦が岳や大台が原にあるのと同じような)で急降下すると、狼平の避難小屋がある。狼平は川べりの小さな草地。小屋が風景にアクセントを与え、いい雰囲気だ。小屋の中には男の人が一人いてラジオを聞いていた。行者還から来て、今日はここへ泊まるとのこと。

 吊り橋があり、渡ると双門滝への分岐がある。弥山川溯行のルートだ。登り返して高崎横手の分岐に戻る。頂仙山への道もはっきりしないのでまた適当に登って登山道に戻る。

 熊渡への下りは分かりにくく、下りだけに使おうとすれば迷うだろう。登って来た道だが案内のテープが頼りだ。杉林まで下りてきたところで迷った。杉林は人の跡がいろいろあるので迷いやすい。道を探してかなり下ったが見つからず、面倒だが最後に確認したテープのところまで戻るのが確実だ。引き返してみると、道はそこで急に左へ曲がっていたのに、まっすぐについている跡をたどってしまったのだ。思わぬ時間をくった。

 登山口に戻ったのは午後5時半。全部で9時間の行程だった。日帰りとしてはしんどいけれどいいルートだ。だが、行者還トンネルからの楽なルートがあるのだから、こちらを使う人はあまりいないだろう。

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