山を選ぶ
2009年7月16日に、トムラウシ山で18人のツアーパーティが遭難し、8人が死んだ。他に単独行の1名が死亡し、また近くの美瑛岳では6人のツアーパーティのうちの1人が死亡しているので、このときこの山域での死者は10人であった。これらの事故の詳細や原因などについて触れるつもりはない。ただ、トムラウシ山が百名山であったことに関して、ブームにあおられた登山だと批判することには反対したい。私自身は百名山を対象とした登山をすることはないが、百名山にこだわる人を笑う気もない。人が山に登ろうとするとき、その山にこだわる何かがなければ、その山を選ぼうとはしないだろう。山には名前がつけられていて、他でもないその山に登るのだから、どの山でもいいということにはならない。いや、たとえ名前がなくとも、私たちはそのとき登るピークを選ばなければならない。私たちの時間、体力、資源に限りがあるからには、いくつもあるピークの中から選択をしなければならないのだ。その選択の手がかりとして、百名山は、その基準に問題があるにしろ、手頃なのである。深田久弥がそれを提唱したときには、百名山を登り歩くなどというようなことは、大多数の人には時間的金銭的に無理だったし、登山道や山小屋などもさほど整備されていなかった。深田久弥はこれほどの登山の大衆化・高齢化を予想できはしなかったから、百名山を目指して技術的・体力的に問題があるような人でさえ押し掛ける事態は想定していなかっただろう。しかし、大衆化・高齢化は私たちがいろいろな意味で豊かになり、長寿化したことの現れであって、嘆く必要などはなく、むしろ喜ぶべきことなのだ。百名山は一つのリストにすぎない。いずれにしろ、山に登ろうとすれば、どこかから情報を手に入れなければならないのだ。
こんなに多くの人が苦労して山に登るのは、登山が適当な達成感を与えてくれる貴重な機会だからだろう。世の中一般には、はっきりした達成感はなかなか得難く、自分がやりとげた結果は、組織や利害得失のからみの中で見失われがちである。自分が誇れる成果も他人から見ればどうか分らない。一体物事をやり遂げるということはどういうことなのか。区切りをつけ、物差を当て、記録をすることが、はたして個人にできることなのか。世の中では他人との関係でしか、評価を得ることができないのだから。
登山にはピークという客観的な目標がある。ピークまで達するのは自分一人の力による(実は、登山道を整備したり、山小屋を作り運営したり、アプローチの改善を図ったり、背後で多くの人が支援しているのではあるが)。その目標は、簡単に達成できはしないが、過酷なほど困難というのでもない(ときにそういうことが起こってしまうこともあるが)。技術的な鍛練が必要ではないということも大きな要因であろう(ロッククライミングや冬山でなければ、基本的に歩くだけなのだから)。しかも、その目標達成は、他人の目標達成と競合しないので、排他的ではない。競争による序列では、いかに個人が努力しても、他人の存在が目標達成を制限してしまう。登山は(一番乗り競争は別として)、個人がその精神的ないし物理的障害を克服しさえすれば、他人がどうであれ、達成可能なのだ。ちょっと思いついたのだが、多くの若者(若者だけではないだろうが)がゲームに熱中することと同じなのかもしれない。
確かに、登った山の数をひけらかしたり、他人がまだ登っていない山に既に登ったことで優越感を抱いたり、いかに短時間で早く歩いたかを誇ったりすることもある。しかしそれは付属的なことにすぎない。山の景色が美しいとか、高山植物が可憐だとかいうのと同じに、目標の達成に附随する経験でしかなく、本質的なものではない。そういう付帯物は別の企図によっても得られるのであるから、登山にだけ求める必要はないのだ。
それゆえ、登山の対象は、その地点が他から区別できる突起さえあれば、どんな山でもいいのであるが、だからといって(だからこそ?)選ぶということから免れているわけではない。なぜなら、目標は設定されなければならないからだ。単に結果として登頂がなされるというのではなくて、目指された山が登られなければならない。目標を自分に課し、そこから安易に逃げないことが、達成感にとっては重要なのである。
さて、登山の対象とする山を選ぶには、現物を見て回るわけにはいかないから、まず山に関する知識をどこかから得ねばならない。新田次郎の『劔岳 点の記』が映画化されたので剣岳に登る人が増えたというのも正常な反応なのである。私自身は、登る山を選ぶのに、ガイドブックに頼っている。最近はウェブサイトの山行記録を参考にすることもある。だから、現地に行って初めてその山を見るというのは普通のことなのだ。多くの場合、事前に情報を得ているから、直接見る前に既に想定された目標になっているのである。いわば山の存在は一種の記号のようなものに化しているとも言えよう。
異性に一目惚れするように、山の姿に憧れて、何としてもあの山に、とか、何となく忘れ難く、などという心の動きは必要とはされていない。だが、何かの機会に山を見かけて、あの山に登ってみたいと思い、その思いを実現するために登るということがないことはない。
2009年8月下旬に、私は飯田市上村のしらびそ高原にある宿に泊まった。そこからの南アルプス南部の山々の眺望に、平凡な表現ながら、まさに息をのんだ。荒川から、赤石、大沢、中盛丸山、兎、聖、上河内、茶臼、仁田、易老、光までの縦走路の稜線が間近に一望できるのである。一番左端の荒川岳は白っぽい三角形で、見なれない姿である。西南西から見ることになるので、前岳が正面になり、後ろに連なる中岳や東岳を隠してしまっている。緑っぽい他の山々と違った色をしているのは、大崩壊のせいだろうか。はるか彼方にそびえるあの峰に、つい最近登った事実が信じられない。残念ながら赤石岳の頂は大沢岳に隠れて見えない。そこから南(右手)に続く山並は私にとって未知の領域だ。
翌日、日本のチロルと称される(大げさだが)下栗の里へ行った。畑がひらかれ家屋が点在する急斜面から聖岳が見えた。しらびそ高原からは兎岳と重なっていたが、ここから見る聖岳はピラミダルな独立峰である。標高1,918mのしらびそ高原から千メートル近く下りてきたので(「下栗の里本村」の標示には標高979mとなっていた)、聖岳は遠く高い。ここから聖岳まで延々と続く道を思った。聖岳はその終点で誘いかけているようだった。最近、続けさまに南アの山に登ったのだが、赤石からすぐ傍に聖を見たときには、聖までは行かなくてもいいだろうと思った。百名山や最南の三千メートル峰にこだわることはない。これだけ登っておけばその辺りの山域の経験として既に十分なはずだ。だが、そのときのそんな私の思惑など無視して、聖岳は独自の存在感をもって呼びかけていた。
こうして聖岳は私の目標の山になった。そういうことがなければ、私は聖岳に興味を持つことはなかったろう。偶然とか気まぐれとか、どうとでもなるという経過だったのだ。ところが、いったんそのように「ロックオン」してしまうと、状況がどう変わろうと、心は決して離そうとはしなくなる(これは百名山を登山の対象として選ぶときも同じはずだ)。私たちの自由、するもしないも自分次第、気持ち次第という選択の自由は失われてしまうのだ。もはや山がどうであれ、ルートがどうであれ、日程がどうであれ、やめることはできなくなる。それは期待よりも義務となる。常に重苦しくのしかかり、忘れないようにと責め立てるのだ。逃れるには登るしかない。登頂することによってようやくその固執から解放されるのだ。
そういう風にして、山を選ぶことは宿命に化してしまう。登る山を自由に選べ、自由に変更できると考えるのは、登山もまた、私たち自身にもときに不可解となる人間の営みの一つであることを忘れているのだ。