赤石岳と荒川岳
百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだ。このことはガイドブックに典型的に当てはまるであろう。ガイドブックは、旅行先で肝心なことを見落としたり見逃したりすることを防ぎ、あるいはその地方での慣習を知らずにやり方を間違えるということのないようにするためには重宝する。しかし、そのような有効な情報でさえ、本当に理解できるのは経験してからである。ましてや、その場所についての私たちの印象形成に関しては、予備知識は役に立たず、むしろ邪魔になるだけだ。逆説的ではあるが、ガイドブックはそれが案内する土地から帰ってきてから読むと、効果を発揮する。ガイドブックの著者が何を言いたかったのかが、そのときになって初めて分るのだ。
農鳥岳の頂上からは、先日登った塩見岳がよく見えた。塩見岳の左には荒川岳。頂上にいる人の中には荒川岳に登った人が何人かいて、なつかしそうにしていた。塩見岳からは荒川岳がもっと近く見えたけれどどうということもなかったのだが、いまここでそういう話を聞いていると登ってみたくなった。
古い私のガイドブックでは、荒川岳に登る最短のコースは小渋川を溯行することになっている。これは難コースのうえ、二日がかりであり、途中の広河原小屋は避難小屋でしかない。ネットで見てみると、椹島から登るルートが一般的になっている。椹島は畑薙ダムから徒歩5時間の奥地で、もともとはこの地域一帯を所有する東海パルプの木材業の基地だった所だ。今は東海パルプの関連会社である東海フォレストによって畑薙ダムからバスが運行され、宿泊施設も整備されて登山基地になっている。椹島から千枚岳、荒川岳、赤石岳という周回コースが人気のようだ。小屋も整備されて、食事や寝具の提供も当たり前になされている。今やこの辺りの山々は北アルプスや南アルプス北部と同じように手軽に登れるようになっているのだ。
2009年、最新の登山地図(解説付き)を買って、登山の計画を立てた。朝一番の畑薙ダム8時発のバスで椹島に入り、一日目は千枚小屋、二日目は赤石小屋に泊まって、三日目に椹島14時発の最終バスまでに間に合うように下山という行程にした。ところが、6月30日に千枚小屋が焼失してしまった。どうするかいろいろ考えたが、逆コースで一日目に赤石小屋泊まり、二日目に赤石岳と荒川岳に登って荒川小屋に泊り、三日目に来た道を椹島まで降りることにした。かなりハードだけれど、山中二泊となればこれしかない。高速道路料金休日割引が8月6日(木)・7日(金)にも適用されることになったので、その週末に日を定めた。今年は梅雨が明けるのが遅かったが、ようやく晴れが続きそうだ。
6日の晩に出発した。県道南アルプス公園線が畑薙ダム手前で交通規制をしていて、18時から翌朝の7時までは通れないので、千頭の道の駅まで行って車の中で寝た。7日の朝、畑薙ダム7時発の臨時バスに間に合い、8時過ぎに椹島に着く。そこで千枚小屋に仮小屋ができて営業を再開したという情報を得て迷ったが、予定通り赤石小屋を目指す。順コースの千枚小屋へ行く人が多い。
樹林の中をひたすら登り、赤石小屋には12時過ぎに着いた。途中私を追い抜いていった高齢の男の人(短パンにタイツ、トレッキングポールというスタイル)は、私の次のバスで椹島に着いて、今日は荒川小屋まで行くと言っていた。私も荒川小屋まで行ければと思っていたが、赤石小屋の前で食事をしている間にガスが下りてきて雨になった。展望のない道を無理して行ってみてもつまらないので、予定通り赤石小屋に泊まることにした。暗くなる前に雲が切れて、聖岳、赤石岳、荒川岳が姿を現わした。
翌朝の食事のときに、隣の高齢の婦人に千枚小屋のことを聞いた。その婦人は千枚小屋から赤石小屋まで来たということを前夜の食事のときに話していたのである(単独行のようだった)。彼女は私に千枚小屋まで行くつもりかと問い、それならばもっと早く出なければと遅まきながらの忠告をした。彼女自身は9時間余りかかったが、こちらからは登りが多いから1時間は余計にかかるのではないかと言うのだ。彼女は口には出さなかったが足に自信があるようで、自分と同じようには歩けはしないだろうと私を危ぶんでいるのだった。私も口には出さなかったが、この女性が9時間で歩けるなら、たとえ逆コースでも、もっと縮められるだろうとタカをくくった。
赤石小屋を出発したのが5時半、30分ほどで富士見平に着く。名前通りに富士山が大きく見える。富士見平から馬の背という小赤石岳に続く稜線をトラバース気味に行ってからきつい登りになった。登りきったところが赤石岳と小赤石岳のコルで、左へ稜線をたどると赤石岳頂上。赤石岳は晴れていた。富士山も聖岳も中央アルプスもよく見えた。ただ、荒川岳の背後には雲があって、南アルプス北部の山々や、北アルプスははっきりしなかった。赤石岳から見えるはずの農鳥岳も確認することはできなかった。
赤石から小赤石を経て大聖寺平に下る。大聖寺平はだだっ広いコルというだけで、名前から想像されるのとは違って何ていうことのない場所だ。大聖寺平から荒川小屋へ水平に近い道が続いている。森林限界を越えているので大きな尾根をトラバースしていく経路がはっきり分かるのだ。この印象的な風景の写真はよく見かけ、私の持っているガイドブックにもある。
荒川小屋に着くと、小屋の前で男の二人連れ二組とアベック一組が休憩していた。みな千枚小屋に行くらしい。話をすることなく、ばらばらに出発する。水場を過ぎるとお花畑の中の登りになる。先行する人が頭の上に見えるほどの急な登りだ。すれ違う人も多くなる。ようやく稜線に出るとガスっている。眺望は全くきかない。前岳を往復。ガスが切れて、標識が立っているのはものすごいガレの際であるのが分かった。中岳はガスの中。東岳の登りはまたきつく、ようやく登った頂上もガスの中だった。東岳の頂上付近は大きな岩を寄せ集めたようなところで、深田久弥が悪沢岳の名前にこだわったというのが分かる風景だとガイドブックにある。アベックは先行し、男二人の一組は遅れ、もう一組とは千枚岳まで同じようなペース。千枚岳の頂上で話をすると、彼らは聖岳を経由してきて、昨夜は百間洞山の家に泊ったとのこと。
ダケカンバの林の中のオタカラコウの黄色い花が咲く緑の斜面を下ったところに千枚小屋はあった(ここまでやはり9時間かかってしまった)。千枚小屋の焼跡(といってもその痕跡は隅にあるすすけた礎石のようなもので伺われるだけだが)は更地になって、行事用のテントが張られ中に机と椅子が設置されてある。その一段上にプレハブの仮小屋があり、受付、売店、食堂、厨房になっていた。登山客は月光荘と百枚小屋(素泊まり用)という別棟に泊まるのだが、これらが焼けた小屋とは離れて増設されていたので営業再開が早かったのだろう。独立したトイレも焼けずに残っていた。夕刻に雲が切れ、正面に富士山が現れた。百枚小屋の前からは赤石岳と聖岳も見えた。
翌朝、小屋の受付の人に椹島からのバスの時刻を確認し、10時30分発に乗りたいと言うと、彼は「コースタイムでは4時間になっていますが、人それぞれですから、5時に出た方がいいでしょう」と、微妙な言い方をした(案内地図のコースタイムは5時間になっていた)。コースタイムというからには余裕が含まれているはずで、短縮できるだろうと私は考えた。早く出て早く着いても仕方がないが(一つ前のバスは8時発であるが、そんな早い便に間に合わせる必要はなかった)、あるいは臨時便がでるかもしれないので、5時に出発することにした。ところが、山小屋の人が言い、道標にも書かれてあったコースタイムは不思議に正確で、椹島に着いたのは9時15分になっていた。
山から帰ってきて、ガイドブックを、古いのも新しいのも、読み直す。ガイドブックが伝えたかったことがよく理解できる。私たちの経験は、現象を取捨選択することで得られる。つまり、経験とは現象の評価なのだ。ガイドブックは、読者に必要な評価を記すことを筆者に課すという点で特異ではあるが、やはり一種の評価なのだ。山から帰ってきてガイドブックを読むことは、ある山域における登山という現象に関して、ガイドブックの筆者たちの評価(経験)と私たちの評価(経験)を比較することができるということだ。むろんガイドブックの筆者たちには限られた紙面という制約があるから、その記述は私たちの経験の記憶に比べれば貧弱ではある。しかし逆に、その記述は私たちの記憶を呼び覚ますきっかけにもなる。ガイドブックの素っ気ない記述は、私たちの想起の邪魔をすることなく、私たちの追憶を自由にさせてくれるのだ。