ヒグラシ(伯母子岳)
高野龍神スカイラインから東へ折れると野迫川村に入る。2009年の夏、スカイラインで龍神へ行こうとしたが護摩壇山から先が通行止めのため、大塔村に抜けるつもりで野迫川村を通った。山の中のところどころに小さな集落があり、大股もその一つである。流れ下ってきた川がそこで直角に曲がる。川沿いの道もそれに従って曲がっている。曲がり角に橋がかかっていて、橋を渡った対岸(右岸)に集落がある。曲がり角には四、五台が停まれる駐車スペースがあり、ちゃんとしたトイレもある。そこは深い谷の底で、夏の晴れた日でも涼しい。川は崖の下を流れていて、のぞき込むと水がきれいだ。
橋のたもとに案内板がある。それによると、ここから伯母子峠へ登る道は熊野古道小辺路の一部である。同時に伯母子岳の登山道にもなっている。
伯母子岳には登ったことがある。大股からの登山ルートがあることは、ガイドブックで知っていた。しかし奥千丈林道を使った方が車でのアプローチが容易なようだったので、牛首山を経由する尾根道から登り、大股ルートは使わなかった。
大股にいて、私はそのことを後悔した。こういう場所から登っていくルートはとても魅力的に思えた。いつかここから伯母子岳へ登ることにしようと、そのとき決心した。
翌年(2010年)の七月、梅雨が明けた週末に出かけた。天気予報では晴れだったが、山添いでは雷雨があるという。多少の雨なら涼しくていいと安易な判断をした。高野山を登ると夏休みに入ったせいか車も人も多い。高野龍神スカイラインに入り、野迫川への最初の分岐で左折、坂を下ったT字路を右折して南下する。平の集落を過ぎてキャンプ場に出れば、大股はすぐだ。
それまで雲は多いものの青空を隠すほどではなかったが、正午近いこの時間になると一面に広がり、色も黒ずみだした。だがまだ光はあって明るい。車を停め、準備をして歩きだす。橋を渡って、集落の中の急傾斜の道を登ると墓地に出る。見下ろすと十軒ばかりの屋根がかたまっているのが見え、川筋が左方(西、上流)へのびている。墓地から山道になるが、軽トラなら通れそうな幅で、伯母子峠までずっとそれが続いていた。世界遺産になったこともあって整備されたのだろう(やや荒れていて、石が出ている)。登山道としてはつまらない。
ヒノキの林を登っていくと萱小屋跡につく。ちょっとした広場になってログハウス風の小屋がある。便所かと思ったが作業用らしかった。そこからヒノキの植林とブナやカエデの混じった広葉樹林が交互に現れる登り。雲にさえぎられて日が直接射さないのでそんなに暑くはない。ただし風はない。
登り始めたときはヒグラシが鳴いていたが、登っていくと聞こえなくなった。ヒグラシは低いところにしかいないのかと思ったが、さらに登るとまた聞こえだす。道が単調なせいもあって、ヒグラシの鳴くところと鳴かないところがあるのはなぜだろうと考えてみた。ヒグラシが鳴いていたのはヒノキ林のようだった。そういえば、過去にもそういうことがあった。ヒグラシはヒノキを好むのだろうか。
ところが、広葉樹林でもヒグラシの鳴き声が聞こえる。鳴いたり鳴かなかったり、規則性はあるようなのだが、木の種類とは関係ないようだ。そのとき、登ってくる道々、雲の動きによって辺りが一時暗くなり、また明るくなることが繰り返されていたことに気がついた。ひょっとすると、ヒグラシは薄暗さを好むのではないか。ヒグラシが鳴くのを聞くのは夕暮れ時だ。ヒノキやスギ林の中は昼間でも暗いから、ヒグラシがよく鳴くのだろう。
桧峠を越えて山腹をトラバースする道まで来たとき、急に雨が葉に当たる音がした。林の中なので雨は落ちてこず、濡れない。先を急ぐ。牛首山方面と伯母子峠の分岐の三叉路に出る(前に来たときの見覚えがあった)。そこから伯母子岳に登る細い道もあるが、雨が次第に強くなってきたので、頂上は経由せずに伯母子峠の小屋を目指す。もはや木々は雨を防いでくれず濡れてしまうが、あとわずかなので雨具は出さずに歩き続ける。
伯母子峠の小屋に着いたのは14時前になっていた(出発が遅かった)。小屋は何の飾りもない粗末な作りで、隣のトイレの方が小振りだが立派だ。中央の土間の通路の左右が高い床になっている。一つだけの窓は明りとりには小さく、扉を閉めてしまうと暗くなってしまうので、開けたままにして、遅い昼食を食べる。雨は降り続き雷も鳴っている。天気予報は正しかった。
雨の勢いがやや衰えたので、やむまで待って伯母子岳に登るつもりだった。雷は遠去かるようだったが、雨はやまず、雲も途切れない。この辺りは広葉樹林だが、小雨の中、ヒグラシが鳴き続けている。私の推測は当たっていたようだ。ヒグラシは薄暗さを好むのだ。
雨がまた強く降りだしてきたので、登頂はあきらめて帰ることにした。雨具を着て、小屋の扉を閉め、出発する。雨は大降りになり雷が近くで鳴る。出発するタイミングが悪すぎたが、引き返すのは面倒だ。それにいつまでも待っていては日が暮れてしまう。天気予報を甘く見た自分を責めるが、今さらどうしようもない。ひんぱんに雷がなり、ガスも出てきた。雷雲の中を歩いているようだ。道は林の中なので落雷のおそれは少ないと(いいかげんに)思っていたものの、恐怖心は抑えられない。
ヒグラシはもはや鳴いていなかった。