井本喬作品集

常念岳

 常念岳は安曇野から見える。そのピラミダルな姿は登行意欲をそそるが、北アルプスのメインルートから外れているために敬遠していた。私が持っている古いガイドブックでは、常念に登るのに、須砂渡からの長いルートか、上高地から蝶ヶ岳経由の周回ルートを載せている。常念から一ノ俣谷を通って上高地へ下るルートは今は使えないが、いずれにせよ、最低一泊は必要だ。

 ところが、最近になって調べてみると、日帰りでも可能なコースがあった。須砂渡からさらに上部まで車で行けるようになっているのだ(今の時代には当たり前のことだが、うかつにも気づかずにいた)。常念小屋経由の一の沢コースはヒエ平に、前常念岳経由のコースは三股登山口の手前に駐車場がある。どちらも常念岳まで6時間前後の同じようなコースタイムであるが、三股からなら蝶ヶ岳経由の周回コースも可能なので、登ってみることにした。

 2012年8月4日、深夜に三股登山口駐車場に着き、仮眠。5時ごろ起きておむすびの朝食を食べ、準備をして出発(5時20分)。駐車場には車がたくさん停まっていて、登山者たちが次々に繰りだしている。15分ほど歩くと着いた登山口には、長机を前に座った男の人がいて、登山者に登山届を書くように言っている。登山者が書いて差し出すと内容をチェックし、ノートに統計らしきことを記入する。そして、「このコースは初めてですか」「前に他の山にのぼったことは」「水や食料の準備は万全ですか」と問いかけている。この登山口からは蝶ヶ岳に直接登れるので、蝶が岳ピストンの日帰りが多いようだ。私の番になり、ここは初めてだと答えると、私の書いた登山届をじっと見て考えている様子。常念から蝶へ回って蝶ヶ岳ヒュッテで一泊としておいたが、危うんでいるのだろうか。「小屋泊まりですね」と確認したあと、「常念への登りはきついですから」と付け加えた。後にネットを見てみると、常念に登るには三股コースよりも一の沢コースを選ぶ人が多いようだ。

 登山口から歩き出してすぐに蝶との分岐。蝶方面に行く人が多く、一人になる。樹林の中の登り。後から来た何人かに抜かされる。日陰なのと、時おり涼しい風が吹き、暑さはそれほどこたえない。9時前に森林限界を超え、岩の堆積の斜面。風がいっそう涼しくなる。眺望が開け、東南方に八ヶ岳と南アルプスに挟まれた富士山が見える。ザレ場のまじった不安定なところもあり、ルートの印に忠実に従う。壊れかけたような小屋があり、その上のコブのようなところに男三人が休憩していた。何の標示もないのでそのまま進んだが、そこが前常念だった。岩を伝うような歩きにくいコース。左手に常念のピーク、その左に穂高が見えている。また何人かに追い越される。ハイ松の中の道で親子のライチョウに出会った。右手、横道岳から落ち込んだ常念乗越に、常念小屋の赤い屋根が小さく見える。常念乗越からの稜線の道に合流する手前で槍が見え出した。稜線の道に出ると、一度は常念に隠されていた穂高が姿を現す。頂上まで最後の登り。10時40分、常念岳登頂。二、三十人の人がいる。

 西方には大きな槍穂、その左には乗鞍、御岳。北方には横道、大天井、その背後に剣・立山、針ノ木・蓮華と後立山(同定はできなかったけれど槍と大天井の間には三俣蓮華、鷲羽、水晶)。東方は雲の上に山々が浮かんでいて、富士山以外はよく分からない(浅間、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス)。南方にはこれから行く蝶ヶ岳。一度下って登り返せばいいだけのように見える。この判断が甘かった。蝶ヶ岳は見当をつけた辺りよりもずっと先の山だった。

 午後3時までに蝶へ着ければ泊まらずにそのまま下山するつもりで、11時15分に頂上を離れる。岩とザレの危うい道をどんどん下る。小さなピークを過ぎてもまだ下り、振り返ると常念が壁のようにそそり立っている。登ろうとする者を意気阻喪させる姿だ。こっちから登るのには根性がいりそうだ。樹林帯に入り、登りになる。これを登ればあとは大したアップダウンはないはずだと頑張る(常念への登りでだいぶまいっていたのだ)。登り切ってみるとお花畑だった。ところが、もう一度大きく下がって登り返さねばならないことが分かった。

 このコースではすれ違う人がときどきいた。行き来が多いのだろう。ここで団体に追いついた。彼らももう一度登りがあることに驚いていた。前方の山頂にとがったピークが見え、その下の草地にジグザグの道が見える。あれが蝶ヶ岳か。私は休憩することにして団体を先に行かす。

 さて、下りにかかったが、道を間違えてハイ松の中に入り込んでしまった。同じような人がいるのだろう、ペットボトルやティッシュなどが落ちていて、苦労してその道をたどる。しばらくして草地を横切り本道に戻る。さっきの団体を追い越して、登りにかかる。ガスがかかり出して、振り返っても常念は見えない。ピークの手前で別の団体に追いついた。最後尾の男女が「先に行きますか」と気を使ってくれたが、ピークの頂はすぐなので辞退する。中程の人が「ガイドさん、足の置き方を教えて」と声をあげる。後尾の二人は「花のことなど説明するより、もっとメンバーの面倒を見てあげなければ」とガイドの批判をつぶやいていた。ピークの頂は団体に占拠されてしまった。会話を聞いていると、ここが蝶槍らしい。蝶はまだ先なのかとがっかりする。先を急ぐ。

 見晴らしのいい、なだらかな稜線をただ歩く。ガスが槍穂を隠しだしている。手ぶらの人に出会った。蝶ヶ岳ヒュッテの泊り客なら、蝶はもうすぐだ。ケルンがいくつかあった個所を通り越した。後で知ったのだが、そこが蝶ヶ岳の本来の山頂だった。そこより高いところに山頂を移してしまったので、今では蝶が岳三角点と呼ばれている。

 なかなかヒュッテに着かないのであせる。方位盤のある丘(瞑想の丘)の向こうにようやくヒュッテが現れる。ヒュッテの向こうの稜線のどこかが頂上だろうと少し登ると、標識柱があった。午後3時ジャスト。

 疲れ切ってしまったので蝶が岳ヒュッテに泊まろうかとも思った。しかし、ヒュッテの近辺には人がたくさんいて、テントも多い。この混み具合では眠るのは難しいだろう(山小屋の雑魚寝で満足に眠れたことがない)。下山を決める。

 大滝山へのコースから分岐し、お花畑を下り、樹林帯に入る。ところどころ急な部分もあるが、比較的なだらかな下りである。まだ登ってくる人がいる。

 一時間ほどして、女性一人が休憩しているのに出会う。心配なのでこれから登るのかと聞くと、下りるのだという返事。一応安心してそのまま過ぎる。4時30分ごろ、登ってくる男性が一人いた。「遅くなりますね」と声をかけたが返事なし。5時ごろ休憩していると、先ほどの女性が下りてきて、私を見つけてびっくりしたようなので、「お先にどうぞ」と声をかける。彼女の使っているストックの立てる音が聞こえていたので、誰かが近づいてきたのは分かっていた。

 持参した4本のペットボトルの水はみな空になった。下方で水音がするので、どこかで沢に出ることを期待して下っていく。ようやく水場(力水)に着く。あの女性が休憩している。私は水を補給しながら話しかける。女性が先に出発する。そこからすぐに三股登山口。駐車場までの道で女性に追いつき、一緒に歩きながら話をする。4時に登山口を出発し、私と同じコースを日帰りした。地元ではないが長野県に住んでいる。そう話してくれた。メガネをかけ、人見知りするような感じで、年齢は三十前後だろうか。私が話しかけるのを嫌うほどではないが、迷惑がっているようだ。以前の私ならば、若い女性登山者に話しかけるようなことはしなかった。今回は遅い時刻の下りで不安になり、誰かと一緒になれたことがうれしかったのだ。

 午後6時30分、ようやく駐車場に着く。13時間かかった。車は減っていたが、まだ半分ぐらい残っている。女性は四駆の小型乗用車に乗って出発していった。谷は暗くなり始めていたが、他はまだ明るい。昨夜、暗闇の中を登った道を下る。舗装されたいい道だ。「ほりでーゆ」という施設があったので、入浴と食事をする。その先に「ほりがね道の駅」があったので車を停めて仮眠して帰る。

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