北八つの憂鬱
2013年9月14日、雨池から麦草峠へ向かっていたとき、なぜか心細い気がした。山でそんなことはあまりない。ほとんどいつも一人なので、誰にも会わないからといって寂しいとは感じない。ただ、道に迷ったり、まだ先はあるのに日が暮れかかったりしたときには、特に初めての山の場合、そういう思いをすることはある。
林の中で見通しがきかないことや、それまでに多く見かけた登山者がいなくなってしまったせいもあるのだろう。高見石から雨池峠までの稜線は人が多かった。雨池峠から雨池への下りや雨池でもまだ人がいたが、雨池からは誰にも会わない。
はるか以前に、麦草峠から雨池まで往復したことがある。5月のことで、天狗岳から北八つを縦走しようとして残雪に難渋し、白駒池でギブアップしてしまった。連休中に一時開いた小屋を閉めて帰るという小屋の人が蓼科湖まで車に乗せてくれることになったので、麦草峠で待ち合わせる間にせめてもと雨池まで行ってみたのだ。忙しげに歩いたこと以外には記憶には何も残っていない。今回雨池を経由して麦草峠に戻るルートをとったのは、もう一度その道をたどれば記憶を呼び覚ませるかもしれないと思ったからである。
雨池は水が少なくて、底が広く現れている。池の水のない部分を歩いている人や、干上がった岩の上で休憩しているグループもいた。私も池に下りてみた。土は柔らかくてくっきりと足跡がつくが、沈み込む程ではない。
麦草峠へのルートに入る。稜線を外れたのでもう登りはすんだと思っていたが、まだ尾根を越さねばならなかった。ピークを目指すのでもなく、眺望もない、単なる連絡路である。こういうルートではただ歩いたという記憶しか残らないのは当然だろう。
いつもならば、広大な山中をちっぽけな自分がただ一人誰に知られることもなくのろのろと移動していることを不安に思うようなことはない。この山にいるのが自分一人だけであったとしても、それは豪勢なことであって、怯えるような理由にはならなかった。ところが、そのときは違った。自分のことを気にしている人間などたぶん一人もいないだろうと考えてしまい、こんな山中をうろうろしていることが無意味に思えて来た。
気分が晴れないのは、天候のせいもあるかもしれない。雨は降らないが、しょっちゅうガスがかかって日を遮ってしまう。高見石からはそれでもまだ白駒池を見ることができたのだが、進んでいくうちにガスが縦走路からの眺望を奪ってしまった。もっとも、森林限界を超えられていないこれらの山では、下界を見ることができるのは林の中にある頂上ではなく、ニュウや高見石や縞枯山展望台のように、木々から突き出た岩山である。
北八つのイメージは「森と湖」という言葉によって喚起される風景である。ただし、そこにある水の集積は湖と呼ぶには小さすぎるだろう。実際全て池と呼ばれている。白駒池、茶水池、雨池、七つ池、亀甲池、双子池など(高校のときの人文地理の時間に、池は人造のもの、沼は自然に生成されたものの呼称だと教えてもらった。だとすれば、沼と呼ばれるべきなのかもしれない)。それらの池をめぐるのが北八つのコースの特徴なのだ。
あちこちに露出している岩や散在している池をつないで行くのは、一つのピークを目指すのとは違った趣を期待すべきなのかもしれない。苔むした倒木が目につく暗い針葉樹の林の中をさまようのは、隠された宝を見つけるための冒険行にでも擬せられるだろうか。だがそれは私にとっては取りとめのない話のように退屈だ。いや、それ以上に空しいあがきのように感じられてしまう。北八つの林は私の心を滅入らせる。それなのに、なぜこんなに人気があるのか分からない。
以前に麦草峠・雨池間を往復したときの記憶が空白であるのは、長い時の作用で徐々に剥落していったのではなく、最初から何の感興も呼び起こさなかったからのようだ。だから、同じことを繰り返しても欠落を埋めようがないのだ。とにかく、この道はなつかしむというような風情ではない。一刻も早く抜け出したい。
ようやく茶水池に着く。299号線を通る車の音。人がいる。やれやれだ。