井本喬作品集

道を譲る(横尾谷)

 2013年10月7日、涸沢の紅葉を見に行った帰りのことである。本谷橋まで下りてきて、あと横尾までは比較的なだらかな登山道だ。日帰りだったので急いでいたが、足が痛みだしてあまりスピードはあがらない。見通しの悪いところで突然女性の顔が見えた。そこは岩と木にはさまれて道が狭く、すれ違うのは困難だ。そのまま進もうとすると女性が突進してきたのであわててよけようとしたが、バランス崩して十分な場所を空けられないうちに彼女は私の体に当たって通り抜けた。女性はこう言い放って去っていく。

「登り優先でしょ。少し待ちなさい」

 アクセントがおかしいので日本人でないのが分かったが(顔を見たときはとっさだったのではっきりしなかった)、明らかに怒りと侮蔑の感情は表現していた。後から来ていたパートナーらしい男性(やはり西欧系)がその言葉を聞いてフフンと笑った。

 私は何も言えず再び歩き出したが、だんだん腹が立ってきた。まず「登り優先」ということでは、確かにコース全体として見れば彼女の方が登りになる。しかし、登山道はアップダウンがあり、あの場所は私の方も登りになっていて、坂の頂点で鉢合わせしたのだ。だから彼女の顔が突然現れたのである。どちらが優先とは言えないだろう。しかも、見通しのきく場所ならすれ違う場所の確保はできるが、出合頭の場合は両者が立ち止って対処を考えるしかないのではないか。

 ところで、「登り優先」は絶対的なルールと言えるだろうか。私が登りの時には、下る人に譲ることが多い。下りてくる人に待ってもらうと、気を使って急いで登ることになるのでしんどく、むしろ下る人を待って立ち止る方が好ましいからである。私が下るときでも、登りの人が譲ってくれることがままある。

 さらに、すれ違い困難な区間にどちらが先にかかるかというのも問題である。登って来る人が見えれば、たとえその区間の端に先に到達しても、その人が来て通り過ぎるのを待っていなければならないだろうか。先にその場所を通り過ぎてしまえば、少しは登る人を待たせることになっても、その方が全体として効率的ではないか。

 登る人がずっと続いたなら、下りる人はいつまでも待たねばならないということもあり得る。そのときは交互に、いわば先着順のようにする必要があるだろう。

 涸沢に行った翌日に八方尾根に登ったので、登山道でのすれ違いに注意していたが、「登り優先」は意外なほど遵守されていない。それよりはむしろその場所の状況や登山者の状態によってお互いに適当に判断されているのである。これは日本人の登山者に特有なことなのだろうか。西欧での山では違っているのだろうか。もしそうだとするなら、登山においても彼我の文化的な型の差というものが見出されることになる。仮に、一方を原理主義、他方を臨機応変主義と名付けてみよう。

 しかし、山での実情は彼我でそんなには違わないだろうという気がする。原理を厳密に当てはめるには、状況が多様で複雑すぎるのだ。すれ違いが効率的になされるなら、どんな形でもかまわないのである。問題は、すれ違いに支障が出たとき、つまり利害が衝突するとき、どう調整するかなのだ。相手がどうであれ原則を振りかざして権利を主張するか、相手のことも含めて状況により気を利かせるかという対応の違い。

 私は国や民族による性格や行動の違いということについてはあまり信用しない。国や民族の間より、個人間の差の方が大きいと思うからである。だから、私の会った女性についても、西欧人の一般化としてしまうには危険があるだろう。考えられることとして、例えば彼女が単に気が強い性格というだけなのかもしれない(連れの男性が笑ったのは、「またか」というようなニュアンスだった)。あるいは、彼女の経験(日本における、あるいは日本におけるのだけではない)が負けん気を形成したのかもしれない。女性であり、非日本人であることで、強く自己主張する必要がある環境にいたというような。彼女のような人が西欧人の多数を占めているかは疑問であるし、少数派としてなら日本人にもいるのである。私はせっかちな方だから、せっかちどうしがぶつかり合っただけなのかもしれない。

 他に考えられることとして、彼女が西欧流のレディファーストを期待し、私に日本流の男尊女卑的な期待があったとしたら、文化的衝突が具体化したということになる。

 ただ、登山という文脈でのそういうトラブルの場面に際して、ルールによる権利の主張や行動の正当化は日本人にはなじみにくいことなので、西欧的特徴とみなしうるようでもある。私は、道を譲ってもらったら「どうも」とか「ありがとう」とか声をかけるようにしている。たとえ登りだから譲られるのが当然だとしてもである(私は当然だとは思わないけれど)。これは日本人登山者なら誰もがしているということではないので一般化はできないが、行動の決定を権利関係に基づくのではなく、その都度その都度の状況判断によって行う場合の潤滑剤なのだ。つまり、一方にのみ権利があると認めるのではなく、同等の権利を一方が放棄してくれたことに感謝するのである。感謝の言葉は譲り合いに必然的に伴うものだ。もし、彼女のような原理主義が西欧の特徴であり、それとは異なる型であると私が想定した臨機応変主義が日本の特徴であるとするならば、日本に住んでいてよかったとつくづく思ってしまう。それは私の日本人的性格を表わしているのだろうか。

 午後2時を過ぎると、雲が出て来たせいもあるのか、日の光が弱くなり、風景に寂寞を感じる。横尾から上高地バスターミナルまでの緩やかな道を機械的に歩きながら、そんなことを考えていた。

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