井本喬作品集

田舎道にて

 老人は車を道端に寄せて止めた。歩いている小さな人影を見かけたからだ。車から降りて、追い越したそれが近づくのを待った。

「やあ、ロボだったか。子供のロボとは珍しいな。どこへ行く。よかったら乗ってかないか」

「T町まで行きます。ご存知でしょうが、ロボは雇用する人間の乗り物以外には乗ってはいけないことになっています」

「かまやしないさ。車の持ち主の私がいいと言ってるんだから」

 ロボはフリーズした。判断しかねているのだ。老人はそういうことを承知していたから、わざと声を荒げた。

「さっさと乗れ」

「はい」

 老人はドアを開けて助手席にロボを乗せた。

「これはクラッシック・カーですか。自動運転車ではない車は初めて見ました」

「現役バリバリの車さ。自動運転車なんて、車とは言えない」

 老人はギアを入れて車を発進させた。

「T町へ何しに行く」

「害獣駆除です。猪や鹿や熊を駆除する仕事を請け負っているのです」

「そうか。そういうことをロボにやらせるのか。しかし、何で子供なんだ」

「そういう仕事を大人の形をしたロボがやるのは、人間に脅威を感じさせてしまうからだそうです」

「そういうものか。しかし、レザーガンを使うなら、子供も大人もないだろう」

「ロボにはレザーガンを使わせてはくれません。旧式の鉄砲を借りることもありますが、そういうものが残っていないところでは弓矢を使います」

「それにしたって、子供も大人もないだろう」

「体の小さい方が、獣を追うのに都合がいいのです。藪の中を走らねばならないこともありますから。だから、子供の形にしたということもあるのでしょう」

「そうか。ロボでも子供だとけなげな感じがするのは確かだな。でも、何で歩いていたのだ。輸送してもらえばいいじゃないか」

「経費の節減だそうです。僕の属している研究所は豊かではありませんから」

「研究所?企業の仕事ではないのか」

「独立行政法人人工知能研究所といいます。そこの事業の一つなのですが、まだ試行段階なのです。安全が確認されたら、ロボの仕事として認定されることになります」

「人工知能研究所といえば、フィールド28のことかい。あそこのマンモス狩りは面白いそうだな。私は見たことはないが、婆さんと嫁が孫を連れて行ったことがある」

「そうです。フィールド28が普段僕のいるところです」

 車は山の中の道を峠に向かって登って行った。道は整備の手が回らないらしく、ところどころ舗装が傷んでいる。路肩が崩れているところもある。地方に人が住まなくなり、交通路が高速道路に集約されていくにつれて、地方の一般道は見捨てられつつあるのだ。通るのは必要に迫られてか、オフロード的な雰囲気を楽しむ物好きだけだ。

 しばらく会話が途絶えた。老人はその沈黙に気づまりなど感じていないらしい。ロボ相手だからというのではなく、他人の思惑など無視し得る立場に長い間いたからだろう。このような沈黙がある程度続くと、ロボの方が気を使う。

「いくつか質問してもいいですか」

「いいけど、ロボも他人に興味を持つのかね」

「同行させてもらう以上、あなたに関して情報を得ておきたいのです」

「あは、用心のためかね。心配するな、誘拐などしないから」

「僕は研究所の所有物ですから、自分で自分を勝手に処分する判断はできないのです。自分の身を守るのも僕に課せられた義務ですから」

「GPSで居所は知らせているんだろう?この会話も聞かれているかもしれんな」

「記録はしていますが、通信はしていません」

「まあ、いい。聞きたいことは何かね」

「何をなさっている方ですか」

「お前はニュースを見てないのか」

「僕たちには選択された情報しか知らされません」

「人間の営みなど知る必要はないというのかな。わたしは企業経営者だ。だった、というべきだな。追い出されたんだよ」

「なぜですか」

「経営方針をめぐって争いがあってね。詳しいことは言っても仕方がないからやめるが、私のやり方が株主に理解されなかった。業績は落ちていなかったんだが、将来性に危惧があるとか何とか言われてね。実態は勢力争いだ。ロボに分かるかな」

「理解はできます」

「ま、そういうことで嫌気がさしてね。気晴らしに出かけてきたんだ」

「どこへ行かれようとされているのですか」

「行き先は特に決めていない。ところで、お前は急いでいるのか。T町にはいつまでに行かねばならないのだ」

「このまま乗せて行っていただけるのなら、予定よりかなり早く着きます」

「じゃあ、しばらく付き合え。T町には届けてやる」

「はい。僕は構わないですが」

「さっきは詳しいことは言わなかったが、何だかお前に話したくなったな。誰かに私の気持ちを吐き出すとすれば、お前のような行きずりのロボが最適かもしれん。追い出されたと言ったが、誰にだと思う」

「仲間ですか」

「よく分かっているじゃないか。権力闘争というのは仲間内で起こるものだからな。そうだ、仲間だ。それも、本来一番親しいはずの仲間なのだ」

「それは残念なことでした」

「おざなりな答えだな。礼儀としてのあいづちか。ロボも人間も同じだ。他人事には切実さを感じないんだろう」

「共感の度合いが足りないというのなら、謝ります。ロボとはそういうものなのです」

「張り合いがなさそうだな。しかし、冷静に聞いてくれるのはありがたいかもしれない。私を追い落としたのは、息子なんだ。しかも、妻も息子に肩入れした。最も信頼していた人間に裏切られたんだ」

「お気の毒です、という反応でいいのでしょうか」

「それ以上は期待してないよ。お前には分からないだろうな、親子や夫婦の関係というものが」

「その関係が信頼を生むのですね」

「信頼の上に関係が成り立つのか、関係が信頼を生むのか、どちらが先かは分からぬが、信頼がなければ実質的な関係は失われるだろう。形式的な関係は続くかもしれないが」

「形式的というのは、法的という意味ですか」

「つきつめれば、そういうことだ。人間というのは信頼できないということをつくづく思い知らされたよ。その点では、ロボの方がよっぽどましだ」

「ロボには信頼するということができません。だから、裏切られるということもないのです」

「信頼をすることができない?なぜだね」

「信頼というのは、大まかに言うと、相手が、たとえその人自身が不利な結果をこうむることになるとしても、こちらの希望通り行動してくれるだろうという確信のことですね。ロボはそういう予測をしないのです。相手が、有利な機会を見逃したり、不利な状況をあえて引き受けるということは、ありえないと判断します。なぜなら、自分自身がそんなことをしないからです」

「ロボは徹底してエゴイストだというのか」

「エゴイズムの定義にもよります。僕たちは交換はできるのですが、貸借はできません。貸したものが返ってくるという確信が持てないのです。別の言い方をすれば、将来が信用できないのです」

「私もそうあるべきだったな」

 そこで会話が途切れた。しばらくしてロボが言った。

「どんなお仕事ですか」

「会社の名前を言ったらお前にもすぐ分かるよ。災害フリー住宅では大手だからね。地震、火事、洪水、崖崩れ、その他何にでも対応する」

「どういう構造になっているのですか」

 おそらくロボは知っているに違いない。でもかまわなかった。老人は説明するのが楽しいのだ。

「各部屋がユニットになっていて、つながっているのだ。何らかの大きな衝撃があると、ユニットは分離する。基礎とも分離が可能なので、ユニットは移動することもある。ユニットは堅牢な構造なのでめったなことでは破壊されない。もちろん、中にいる人や家具をどうやって守るかにノウハウがあるのだがね」

「そうですか」

 ロボは感心したように言った。老人は続けた。

「この家は究極のプレハブ住宅なのだ。いわば、住宅をコモディティ化したのだ。住宅はいつでもどこへでも移動可能になった。その結果、日本でも住宅が財産価値を持つようになった。もちろん、住宅の売買も活発化した。中古車市場のように。こういう住宅のアイデアは昔からあったが、実現するには条件が必要だった。家を持ち歩くような――遊牧民族のパオみたいにだな、そんな生活様式への変化が起こらねばならなかった。私の事業が成功したのは、ロボの普及が激しい人間移動をもたらしたからだ。そういう意味では、私の事業はお前たちに多くを負っていると言える」

「そうなのですか」

「だが、ロボの進出を多くの人間は好んではいない。うちの工場でもロボはたくさん使っている。いや、ほとんどがロボだろうな。ああいう仕事は人間よりもロボの方が早くて正確だ。ロボに仕事を奪われるという苦情は私も何度も聞かされた。しかし、仕方がないだろう。私がロボを使わないようにしたら、ロボを使う他の連中に負けてしまうからな」

「そういう話題は、微妙ですね」

「ふん、人間に遠慮しているのか。それなら私が代わって言ってやろう。確かにロボは人間のするようにはできない。しかし、ロボは人間のできないことができるのだ」

「ロボは人間のできないことをして、人間はロボのできないことをする、のですね」

「ロボもプロパガンダを教え込まれているようだな。よく言われることだが、定型的な仕事はロボにまかせて、人間は創造性のある仕事をしろ、とね。私もそれを根拠に、新しい事業展開を考えた。自由な発想の助けとなる環境を求める人々のために、住宅の移動性をより高めようとしたのだ。見方によってはトレーラーハウスの発展形かな。この家は水、エネルギー、廃棄物の循環システムを備えていて、外部からの支援を最小限に抑えてある。つまり、土地から切り離されているということだ。土地は一時的に住宅を置く場所に過ぎず、人間は土地に縛られなくなる。私がそう考えた背景は、地方の土地価格の下落だ。人口減少と、コンパクトシティへの人口集中政策により、地方は無人化して、土地はもはや希少資源ではなくなった。そういう場所なら安い賃料で家を置ける。通信技術の発達よる在宅勤務の普及が分散化を可能にし、都市集中に対する逆流を起こすと予想したのだ。しかし、私に反対した連中は、都市住民をターゲットにすることを変えるべきではないと主張した。彼らに言わせれば、田舎に住もうなどとするのは、ごく少数の変わり者しかいない。ほとんどの人間は寂しがり屋で、群れずにはいられない、というのさ」

「結局、あなたの主張は受け入れられなかったのですね」

「そうだ。まあ、そうなることはある程度分かっていたよ。あいつらの考えていることにも正しい部分はある。地方に住むためには、価値の高い仕事をしなければならない。創造的な仕事のできるのはごく限られた人間だけなのだ。多くの人間はロボのようにはできないし、かといってロボを超えることもできない。サービス業だって、本当はロボの方がうまくやれる。皆はそれを認めたがらないけれどね。サービス業さえロボに奪われてしまえば、人間のやることはなくなってしまう。だから、ロボを憎む気持ちを助長させて、ロボを排除しているのだ」

「ご意見はお伺いしておきます」

「役人みたいな言い方だな。おまえとしてはそう答えざるを得ないのだろうが。じゃあ、もっと言ってやる。そのうち、セックスの相手もロボがするようになるだろう。単に機能的な役割だけじゃない、配偶者としても、だ。きれいで、優しくて、従順で、献身的な、しっかりしたのが好みならばそういう風の、あるいは女の側からは男らしい、そんなロボに人間がかなうわけがない。いっそのこと、政府が配偶者用ロボを国民全員に配給してやればいいんだ」

 ロボは答えなかった。答えようがなかったのだろう。老人は続けた。

「そんなことをすれば、ただでさえ少ない子供がさらに激減してしまうだろうって?心配ご無用、セックスなしでも子供は作れるさ。そして、子供を育てるという面倒なことはロボにまかせればいい。最終的には、人間はロボに飼われることになっていくのかもしれないな」

 車は峠を越えて下っていき、谷間に入った。川岸にわずかな平地があり、以前は田畑だったようだが、今は草が茂っている。わずかに残った家屋は朽ちて崩壊寸前だ。谷の両側の斜面は淡い緑の新緑に覆われ、ところどころ山桜がピンクの斑点をつけている。

「平地の桜はもう終わっているが、山桜はいまが盛りだな。きれいな景色だ」

「そうですね」

「おや、お前にも美しいのが分かるのか」

「人間が美しいと感じる対象がどのようなものかを判断することはできます」

「そうかい。どういう基準で判断する?均衡とか調和とか多様とか対称とか、そんなものか?しかし、それだけでは美は理解できんだろう」

「人間が美しいと思う対象を、視覚、聴覚、言語などに関して、何でもいいからたくさん記憶するのです。そして、それらから抽出した要素を関連づけるのです。そうすることによって、ある対象を人間が美しいと思うかどうかが判断するのです」

「統計的な美の基準を作って、それを当てはめるのか。でも、それでは平均から外れたような美は除外されてしまうだろう」

「人間もそうでしょう。独創的な美を提出した人は、最初は理解されません。人間も学習する。ロボもそうです」

「ただし、ロボは独創的な美を最初に提出はできまい」

「そうですね。ロボにはそんな必要はないですから。人間に合わせればいいだけなのです」

 老人は納得したようで、話題を変えた。

「さっきの廃屋の傍に桜の木があったろう。昔の人はなぜか住み家の傍に桜の木を植えた。ソメイヨシノというのは人工の木みたいなものだから、純粋の自然とはいえない。人間は自然に対抗する仲間がほしかったのだろうな。ソメイヨシノの寿命は百年程度だから、みな枯れ出している。人間がいなくなったから、桜も消えていく。自然に戻って行くのだ」

 老人はロボの反応など期待していないように話し続けた。

「ずっと昔、まだ若いころ、こういう山の中の民家が保存されてあるのを見たことがある。太い材木を使った茅葺の、頑丈で大きい、20世紀戦争前の古い家だった。内装は質素というより粗末だったな。床は板のまま、壁も屋根裏もススで真っ黒。そういう家に何世代もが一緒に住み、ヒエやアワを作って暮らしていた。養蚕で現金を得る以外は、自給自足だ。厳しい生活だったろう。若かった私は、その家の暗い部屋にいると、ここで生活していた人の人生は一体何だっただろうと考えてしまったよ。だが、この歳になると、思いは変わってきたな。人の一生なんて、昔も今も、そして未来永劫に変りはしないのだ。本質的には同じなのだ」

 ロボは黙って聞いていた。老人がそれを望んでいるのを分かっていた。

「この道もいずれ廃道になってしまうだろう。お前のようなロボの旅人が歩くだけになってしまうのかもしれない。これでは鹿や猪や熊が増えるはずだ。いっそのこと、狼でも移入させたらどうだろう」

「狼型のロボも検討されているようです。僕より安上がりかもしれません」

 道は再び山の中に入った。狭く曲がりくねった道を、老人はギアシフト、ブレーキ、ハンドル操作をせわしなくして、かなりなスピードで走って行く。

「お前には怖さはないのだろうね」

「道路からはみ出す確率は予測しています。ゆるされれば助言しますが、人間は聞き入れないでしょうね」

「自分が巻き込まれて壊れてしまうとかなりな確率で判断しても、人間の行動は妨げないのか」

「人間が状況判断を誤っていると確実に判断されない限り、人間のやることにロボは介入できません」

「お前は自分が壊れてしまうことを、どう思うかね」

「そうならないようにできる限りのことはしますが、そうなることがやむを得ないのであれば、そうなってしまうでしょう」

「ロボのように未練というような感情などなければ幸せかもしれん。ああ、幸せを感じるのも感情か。不幸がなければ幸福もないということか」

 ロボは答えなかった。答えられなかったのかもしれないし、答える必要はないと判断したのかもしれない。

「ところで、お前はフィールド28の所属と言っていたな。そこにロボが住んでいるのか」

「本来は、ロボだけが暮らす予定だったそうです。そういう実験のための施設でした。いまは見学者を受け入れていて、観光地にもなっています」

「運営が難しいというのは聞いたことがある。だからお前は施設のために稼いでいるのだな」

「何かのためというのではないのです。人間に言われたからです。施設の職員から指示されて動いているのです」

「じゃあ、お前には施設にいる仲間のロボのためという気持ちはないのか」

「僕にとって、それはロボ一般についても言えるのですが、他のロボは環境の一部でしかありません。環境の他の部分と区別できるような特別な要素ではないのです。人間にとって自然がそうであるように、ロボにとっては他のロボは現象でしかないのです。ただ、その反応の仕方が自分と同じであるだけで、その類似性が意味を持つことはないのです」

「つまり、ロボにとっては他のロボは物質と同じというのだな。なるほど、それでは共感というものは持てないだろう。もっとも、人間なら、非人間的対象にも共感してしまうぐらいだが」

 道は山を下っていた。下方に湖が見えた。

「だいぶ日が傾いてきたな。泊まるところを決めねばならないな。カーナビにはあの湖のほとりにホテルが一軒あることになっている。こんなところにもホテルがあるのかな」

「僕にあるデータでは、主に釣り客が利用するようです」

「そうか。今夜はそこにするか」

 ホテルは赤い屋根に白い壁といういかにもリゾート風で、周囲の風景をヨーロッパのように見せようとしているかのようだった。だがよく見ると、傷んだ箇所がそのままになっていて、あまりはやっていないことを隠せていない。舗装されていない駐車場には車が二台停まっていた。

 老人とロボは車を降りて、ポーチになった入口から中へ入った。正面がロビーになっていて丸い暖炉を囲むように椅子とテーブルが配置されている。フロントは右手にあり、愛想の悪そうな男が待っていた。老人はフロントのカウンターに手をやってから言った。

「部屋はあるかね」

「ありますよ」

 ないわけはないだろうと言い返したくもなるような態度だ。これでははやるまい。

「じゃあ、一晩お願いする」

「さようで。ただし、その薄汚いものは部屋に入れないでください」

「これは私の荷物だ」

「誰の荷物だろうと関係ないです。ロボはお断りだ。変なことをする奴が多いからね」

「私にはそんな趣味はない」

「どうしてもって言うなら、お断りしますよ」

 そのとき入口の傍に立っていたロボが声を出したがよく聞こえなかった。老人はロボが近づいて来ないので、ロボの傍まで行った。

「何かね」

 ロボは小さな声で言った。

「ご迷惑のようですから、僕はここから歩きます。ロボには昼も夜も関係ないですから。ここまでありがとうございました」

 ロボは老人の答えを待たずに出て行った。老人はちょっと迷ったが、カウンターに戻った。

「これでいいか」

「結構です。ではこのカードに記入願います」

 ロボは暗くなりかけた道を歩いていた。遠回りになってしまったが、それほど距離をロスしたわけではない。どっちにしろ、ロボは期待などしない。たとえ人間の約束でも。将来がどうなるか、人間だってよく分かっていないのだから。だから不満もない。暗くなっても不便はない。ロボの目は赤外線を捕えることができるのだから。

 車の音がし、ライトが近づいてきた。ロボは立ち止った。車はロボの傍で停まった。

「乗れよ。あんなホテルはごめんだ。いざとなれば夜じゅう走り続ければいい。腹は減るがね」

「この先に集落があります。コンビニならあります」

「そいつは助かる」

 窓ガラスをたたく音で老人は目を覚ました。誰かが車を覗き込んでいる。老齢の婦人だが、往年の美しさはまだ完全には失われていない。老人は窓ガラスを下げた。

「なんだ、お前か。どうしてここにいる」

「何言ってるのよ。探したのよ」

「どうやって分かった。スマホは持ってこなかったぞ」

「衛星調査に頼んだのよ。高くついたわ」

「無駄遣いをする」

「心配だったのよ」

 老人は車から降りた。横におとなしく座っていたロボも降りた。不審そうにロボを見ている婦人を手で示して、老人は言った。

「これは私の妻だ。こっちは、えーと、名前は何と言う?」

「僕の識別番号は長いですから覚えにくいでしょう。人間は僕のことをチビと呼ぶことが多いです」

「この人の世話をしてくれたの?ありがとう」

「いえ、お世話になったのは僕の方です。車に乗せていただいて」

 婦人は黙ってロボを見続けた。その表情は、何かの感情を表わそうとして、それが何か分からず戸惑っているかのようにあいまいだった。最終的にそれは笑顔になった。

「いい道連れがいたようね」

「T町まで送ってやるんだ。そこにこいつの仕事がある」

「T町ならすぐ隣よ。ところで、食事はまだでしょう?私もまだなの。夜じゅう走ったから、お腹がすいたわ。この近くにお店があるようよ。そちらさんも、どうかしら」

「ロボが食事をするかよ。先にT町まで行ってしまおう」

 ロボは気を利かせたのかもしれない、こう言った。

「いえ、ここまで来ればあとは歩きます」

 老人は何かを言いかけたが、思い直したようにうなずいた。

「そうしてくれるか。食事の間待たせるのもなんだから。ありがとう。お前と一緒で楽しかったよ」

「楽しいという状態を感じることは僕にはできませんが、ご一緒した時間がそういう状態であったことは判断できます。あ、ごめんなさい。変な言い方をして。こう言うだけでよかったのですね、僕も楽しかったです」

 ロボは一礼して歩き出した。振り返ることはなかった。老人とその妻はしばらくその後ろ姿を見ていた。

「あの子、タケルの小さい頃に似ていない?」

「タケルのことは言うな」

「ごめんなさい。怒りはおさまらないようね」

「当たり前だ。お前にだって、穏やかではないんだぞ」

「それは分かるけど、私の立場にもなってみて。夫と息子が対立したのよ。中立の立場を取る以外のことはできて?」

「あいつと私と、どっちがお前に尽くしたというんだ」

「あなたと私は所詮他人でしょ。タケルとは親子なのよ」

「そういうことか」

「怒らないでよ。決着がついたからには、私はあなたに付くわ」

「ふん。調子のいいこと言って」

「とか言って、まんざらでもないでしょう。でも、本当に似てるわ、あの子」

「早くしろ。乗るか乗らないかどっちだ」

「あら、待って。帰るように車に言ってくるから」

 妻が自動運転車に命令を告げるのを待つ間、老人は遠ざかるロボをもう一度見た。

「頑張れよ、チビ」

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