井本喬作品集

再訪の山1(鹿島槍ヶ岳)

 唐松岳に登って眺めた後立山は印象深かった。40年以上前に白馬から針ノ木までたどった山々だ。もう縦走する元気はないが、どれかの山にもう一度登ってみたくなった。

 典型的な双耳峰の鹿島槍が岳は形を憶えやすい山であるが、前に登ったときの記憶は残っていない。柏原新道を使えば比較的楽に登れそうだ。日帰りする人もいるらしいが私には到底無理なので、種池小屋か冷池小屋で一泊となる。登山口の扇沢は黒部立山アルペンルートの信州側の入り口でもある。調べてみると、駐車場は柏原新道の登り口にいくつかあるようだが、現在道路工事の関係で閉鎖されていて、一番近いのは大町市営第2駐車場(無料)らしい。そこがいっぱいなら、少し離れた扇沢駅傍の駐車場になる。駐車場所を確保するためには早めに現地に着く必要があるだろう。夜のうちに駐車して、車中で仮眠することにした。

 2015年8月4日の夜、長野道を安曇野ICで下りて、信濃大町へ北上する。豊科から大町へは、山際を走る山麓線、高瀬川沿いの北アルプスパノラマロードなどの雰囲気のいい道がある。夜なので中心部の147号線を通ったが、信号が多かった。左折して扇沢へ行くことを示す標識が二つほどあったが(ショートカットの新しい道のようだ)、正当な道と思われる一番北の交差路まで行った。有名な観光地の道路にしては狭い田舎道である。やがて林の中の道になる。途中ホテルのような建物もあったが、他には何もない寂しい道だ。スノーシェッドや工事区間を通り、橋を渡った先で左下方に複数の車が見えた。駐車場のようだが入口を過ぎてしまったので、Uターンして入る。道路下の駐車場は細長くて結構広いけれど、やはり既に車がたくさんある。それでも何台分かのスペースは残っていたので適当に停めて、横になる。

 朝、起きて準備をする間に新たに二、三台の車が入って来たが、平日のゆえか満杯にはならなかった。何人か出発する人がいる。6時に出発。道路を少し戻って橋を渡ると、登山口があった。屋台のようなものがあり、中に男の人が一人いて、窓口にクリップボードにとめた登山届がいくつか並べてある。渡されたその一つに書き込んで男の人に返す。大気が不安定で急な雨や雷のおそれがあるから気をつけてとアドバイスされる。

 登山道は川から離れて尾根に取り付いている。林の中の道を登る。八ツ見ベンチという表示のある場所から、左下方に、山裾の緑の中にはめられた小さなエンブレムのような扇沢駅の駐車場が見える。まだ車は少ない。よく分からないがその上の峰が針の木のようだ。さらに登って行くと、ケルン、駅見岬、水平道、水平岬、包優岬、石ベンチ、黄金岬などの表示がある。岬というのは海に突き出た地形を言うはずだが、陸の場合にも使うのだろうか。尾根をトラバース気味に登っているので左方のみが眺望できる。赤沢岳、鳴沢岳、岩小屋沢岳という連なりだろう。針の木は隠されてしまったらしく見えない。朝には晴れていたのにもう雲がかかりだしている。雪渓が残っているえぐれた谷の上部を渡り、富士見坂、鉄砲坂と表示のある石の多い道をひと登りすると、草原の斜面の上に橙色の屋根の種池小屋が見えた。

 種池小屋はガスの中で眺望はきかない。このガスでは鹿島槍は明日登ることになるだろう。まだ9時過ぎだから冷池小屋までゆっくり行けばよい。種池小屋付近の草原には花が咲いている。コバイケイソウ、ハクサンフウロ、チングルマなど。チングルマの一部はまさにチングルマになってしまっている。

 爺が岳を越えていく。爺が岳には三つのピークがあり、登山道はすぐ下をトラバースしていて、南峰と中峰は寄り道程度で登れる(北峰への道はない)。ガスはときどき途切れるが、見えるのは近くだけで、鹿島槍も剣・立山も見えない。黒部川へ落ち込んでいく斜面は見下ろせた。種池小屋から冷池小屋へのルートはU字型になっているので、晴れていれば二つの小屋が前後に見える。

 爺が岳の南峰にはキレット小屋から来たという単独行の男の人がいた。学生の頃にたどった縦走路を再度歩いてみたかったと言っていた(同じような考えの人がいるのだ)。針の木までは行かず、今日下山するとのこと。白馬と唐松に泊ったが、八方から登ってくる人が多いのか唐松小屋が意外に混んでいたらしい。唐松小屋は水を300円取ると不満を言っていた。

 南峰と中峰のコルにコマクサが咲いていた。中峰には誰もいなかった。北峰をトラバースしながら冷池小屋へ下って行くと、また単独行の男の人に追いついた。ザックにヘルメットをつけている。普段なら黙って追い抜くのだが、先を急ぐわけでもないので、声をかけて見た。

「キレットへ行かれるのですか」

 ヘルメットを持っているから、八峰キレットや不帰の嶮を通るのだろうと見当をつけたのだ。最近は一般登山道でも岩場のあるようなコースはヘルメットを着用するようになっているのを、去年穂高へ登った時に知った。北穂小屋のテラスで休憩しているときに、大キレットから登って来た人がみなヘルメットを被っていたのである。主に落石に備えてだろう(前夜に泊った涸沢ヒュッテでは貸しヘルメットを扱っていた)。

 男の人は肯定し、だが、今日は冷池小屋泊まりと答えた。この時間なら無理すればキレット小屋まで行けそうだが、ゆっくり歩くつもりらしく、また、天候も気にしていた。私は追い抜いて先へ進んだ。下りは思ったよりも長くて、ちょっとうんざりした気分になる。ガスが薄れて下方に冷池小屋が見えた。赤岩尾根への分岐を過ぎるとコルになり、林の中を少し登り返して冷池小屋に着く(12時頃)。

 早く着き過ぎて手持無沙汰だったので(食事は持参のものですませた)、同様の客が何人か集まっている喫茶室兼談話室でコーヒーを飲んでいると、午後1時頃雨が激しく降り出した。雷も鳴った。喫茶の受付の若い女性従業員が「お客さんたち、ラッキーでしたね」と言った。降るなら午後遅くと何となく思っていたので、早い時刻からのこんな豪雨は意外だった。明日の天気も気になった。3時頃に雨がやむと、東の空いっぱいに二重の虹が出た。夕刻には西側のベランダの窓から雲の上に山並みが見えたが、教えられて立山と剣だと分かった。別山が独立峰のように見えたので同定が難しかったのだ。

 私たちが最初の客だったらしいが、登山者たちが次々に到着し、カラに近かった入口の靴箱がいつの間にか埋まっている。到着したばかりで雨具を脱いでいる人や、濡れたものを乾燥室で干している人もいる。満員というほどではないけれども賑やかになってきた。私に割り当てられた部屋には1階に7つ、ロフトのような2階に4つ蒲団があったが、一人一つでみな割り当て済みだ(混むときはもっと詰め込まれるのだろう)。夕食のときには食堂に60人ほどいて、二交代だったから、100人ぐらいは泊っているようだった。

 最近は眠れなくても気にしないようにしているので、そのせいかほどほどには寝たようだ。御来光を頂上で見るためか、早立ちの人が多く、3時頃には人の動く音がし出す。天候も考慮して、早めに行動するつもりもあるのだろう。私はゆっくりして、朝食(人数が減ったので交代制ではなく1回だけ)をすませてから、6時前に出発。荷物の一部は小屋にデポさせてもらう。

 天気はよい。前方の鹿島槍はもちろん、立山・剣、振り返れば爺が岳、種池小屋も見える。ただ、右(東)下方には雲が敷かれたようになっていて、麓は見えない。布引山を越えて南峰に取り付く。高度が上がるにつれて遠方の眺望が開ける。布引山から案外簡単に頂上に着く(7時20分)。十人ほどの人がいる。

 眺望は申し分ない。北方に五竜と白馬(唐松は五龍に隠されて見えない)、南方は針までの後立山の稜線。西方に剣・立山、立山から南は薬師と黒部源流の山々、はるかに槍・穂も見える。東方はかすんでいるがかすかに富士山が突き出ている。

 深いコルの向こうに逆光気味で暗い感じの北峰が、ここよりやや低く立っている。往復には思ったより時間がかかりそうだが、ここまで来て行かない手はない。南峰の下り出しは険しいというほどでもないのに、ちょっとビビり過ぎた(最近岩場が恐いのだ)。コルまで下がると八峰キレットへの分岐がある。そちらから登って来る人もいる。北峰には男1人女2人の一組がいて、私と入れ替わりに下りて行った。下りしなに女性の一人が「キレット小屋も見たし」と言っていたので、下をのぞくと崖に引っかかっているような小屋が確かに見えた。北峰から見る南峰は高くそびえている。

 南峰に戻るときに、昨日冷池小屋の手前で話をした男の人とすれ違った。午後からの天気が心配なので、今日はキレット小屋までにしておくとのこと。三時頃に雨との予報だったので、私も急ぐことにする。登るときは難なく頂上へ。まだまだ人がいる。すぐに下り出す(8時40分)。ガスが出始めている。冷池小屋で荷物を引き取り(荷を軽くしておいて助かった)、爺が岳の登りにかかるが、これが意外にきつかった。今日は頂上を巻いて種池小屋に下る。

 種池小屋の前で休憩していると、小屋の従業員の若い女性が、出来たピザを持って注文した人の名前を呼んでいたが、応える者がいない。価格は千円らしいが前払いのはずだ。注文したのを忘れたか、あるいは時間がないから出発してしまったのか、それにしてもおかしな話だ。休憩している人の中には生ビールを飲む人もいた。冷池小屋でも生ビールを売っていた。最近は山小屋でも生ビールが出るのだ。

 12時頃、種池小屋を出発。先行していた夫婦がいたが、女性の方に追いつく。草むらを探っているようなので何をしているのか聞くと、イワナシがあると言う。食べてみますかと皮をむいた白い小さな実を一つくれる。甘くて、確かにナシの味がする。夫の方は先に行ってしまったとのことなので、しばらく一緒に歩く。彼女たちは針の木から来た。昨日、針の木雪渓を登り、蓮華岳に寄って、ちょうど針の木小屋に戻ったときに雨にあった。予定では新越山荘まで行くつもりだったが、針の木小屋に泊った。彼女はそう話した。蓮華岳のコマクサのことを聞くと今もたくさんあるとのことだった。この山域に来たのは、夫が学生時代に登ったことがあって、再訪してみたかったかららしい。しばらく下ると夫が待っていたので、そこで二人と別れて先行する。

 爺が岳の南峰で会った人も、久しぶりに来たと、同じようなことを言っていた。私もそうなのだが、後立山は一度登ってしまうとそれきりになってしまう山なのだろうか。白馬岳を除けば知名度はあまり高くないし、信州側の山麓は交通の便がいいのでむしろスキー場としての方が知られている。山としての貫録は十分あるのだが、一般受けする魅力に乏しいのかもしれない。しかし、考えてみれば、他の山にしても、何度も登るということは、よっぽど気に入ったのでない限り、そうそうあることではない。山はたくさんあるのに登山の機会は限られているので、どうしても初めての山を優先することになる。同じ山に何度も登る余裕を持てる人は少ないだろう。だから、後立山だけが特別なのではない。長い時間がたった後にでも登りたくなるのなら、それはいい山なのだ。

 下りは長い。苦しくはないがうんざりする。前半は登って来る人とときどきすれ違った。2時近くになって、さすがにもう登って来る人はいないだろうと思っていたら、三十人程の団体と出会った。最後尾のガイドらしき人に聞いてみたら、バスが故障して遅れてしまったとのこと。無茶をするとは思ったが、ツアーの予定があるので仕方がないのだろう。

 幸い雨は降らなかった。登山口に着いたのは2時半ごろだった。

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