井本喬作品集

災害をかすめて(平治山・韓国岳)

 九州の山で登ったことがあるのは、九重山、霧島山、屋久島の宮之浦岳である。九重山には1973年6月(日は不明)、霧島山には1985年10月7日、宮之浦岳には1982年4月28日に登った。はるか昔のことなので、もう一度登ってみたい気がずっとしていた。屋久島は遠く、また、最近は縄文杉目当ての登山者が多すぎるようなのでためらってしまうが、九重や霧島ならその気になればいつでも行ける。そう思いつつ、機会を見つけられなかった。

 今年(2016年)行くことに決めたのは、熊本地震のせいもあった。特に私に何ができるというのでもないが、行くなら今だと押されるような気持ちになったのだ。

 今年はミヤマキリシマの開花が早いらしいので、天候も見計らって、6月1日(水)の午後に出発した。山陽自動車道、東九州自動車道を経由して、大分自動車道へ(途中仮眠)。湯布院ICの辺りで災害復旧工事をしていた。

 2日(木)、朝、7時半頃に長者原に着いた。快晴である。駐車場から右方に見える星生山の一部にミヤマキリシマのピンク色が見える。正面には三俣山。二つの山の間の白っぽい硫黄山から細い噴煙が上がっている。

 前のときは、初日に大船山と平治山に登り、法華院温泉に泊まって、翌日久住山に登り、赤川温泉に下りた。ミヤマキリシマの開花時期だったはずだが、花の記憶が全く残っていない。今回は平治山往復だけにして、ゆっくりとした行程でミヤマキリシマをめでるつもり。

 雨が池越のルートで坊ガツルに入る。三俣山、久住山、大船山、平治山などに囲まれた、広々として気持ちのいい草原だ。平治山の山頂がピンクに染まっている。まだ時間が早いせいか登山者はそんなに多くない。久住山の麓の法華院温泉への広い道を行き、途中で分岐して坊ガツルキャンプ場を通り、平治山を目指す。「一人一石運動」という掲示があって小さな石が積まれてある。登山者が石を持って登り、ぬかるみに埋めるようにしているらしい。私も一つ取る。少し行くと、母親が石をいくつも抱え、小さな子供がそれに興味を示してまつわりつくのに手こずっている。母親の荷物を持った父親が傍で見ている。さらに行くと、「ここから石を置いて下さい」という表示があった。私が石を手放したのは早すぎた。

 平治山と北大船山の鞍部の大戸越に着く。十数人の登山者がたむろしている。見上げると平治山の急斜面はミヤマキリシマの花でおおわれている。その中を登って行く。登りと下りの道は別になっていて、一方通行である。ミヤマキリシマの枝が道の両側に迫っていて、すれ違うのは困難だ。登りは直登に近い。登るにつれて下方に坊ガツルが見えてくる。ピークのようなところに登りつくと、すぐ傍の平治山頂上とその北稜線が花に埋まっている。登山者が感嘆の声をあげている。

 頂上に着いたのは10時40分頃。多くの登山者がいたが、これからさらに増えていくだろう。頂上からの眺めも素晴らしい。坊ガツルを囲む山々が一望だ。北には飯田高原とその向こうの山々。由布岳の特徴的なシルエットがはるかに見える。手前の右下方に、車がたくさん並んでいるのが見えた。地図と照らし合わせると、どうやら男池の登山口のようだ。

 登山者は頂上から少し離れてあちこちで休憩し、食事をしている。私は昼食を持参していないので下ることにする。下り専用の道はすいていた。大戸越から坊ガツルへの下りでは登ってくる多くの人とすれ違う。坊ガツルまで下りてきて、法華院温泉に行く。建物は以前より立派になっているようなので、建て替えられたのだろう。食事のメニューはカレーと牛丼しかなく、カレーを頼んだ。食べてみるとレトルトのようだが、こんな山の中だから仕方あるまい。他に食堂にいたのは二人連れの男性だけだった(彼等もカレーを注文していた)。

 すがもり越のルートは地震のせいで通行が「自粛」となっている。登山道は温泉の建物の間を抜けた裏側から始まって、いくつも砂防ダムがある急傾斜の谷沿いに登って行くようだ。ちょうどそちらから下りてきた男の単独行者に、このルートが使えるか聞いてみた。彼は久住山と中岳をピストンしてきたので、すがもり越の状況は分からないと答えた。

 ところで、彼がわざわざ中岳の名を挙げたのはなぜかと不思議に思ったのだが、九州(屋久島を除く)の最高峰が中岳らしいのである。私の持っている古いガイドブック(1973年発行)には大船山が1787.1mで最高峰、久住山1786.8m、中岳1760mとなっている。ウェブで調べてみると、最初は久住山が最高峰だったが、登山者の増加で削られて大船山にその地位を譲り、次にやはり大船山が登山者の増加で削られてまた久住山に戻ったが、1980年の再測量で中岳の方が高いことが判明した、ということである。現在の標高表示は中岳1791m、久住山1786.5m、大船山1786.2mになっているようだ。

 やはり安全を考えて、帰りも雨が池越のルートにした。まだまだ登山者が来る。法華院温泉で泊まるか、坊ガツルでテントを張るのだろう。長者原の手前でタデ原湿原の木道を回ってみた。坊ガツルに劣らぬくらい広くて明るい草原だ。野鳥観察をしている人がいた。ビジターセンターにも寄ってみた。そこで男池(湧水)の紹介をしていたので、行ってみる気になった。

 男池に着いたのは5時を過ぎていたので、駐車場の車はあらかたなくなっていた。入口の店の前に車を停めた人と店の人が話していた。車の人が、朝来たら駐車場はもう一杯だったと言うと、店の人は、最近はネットでこちらばかり取り上げているからと答えていた。男池から登る人も多いのだ。男池は思っていたより小さかった。

 その日は久住高原荘に泊まった。テレビで天気予報を確認すると、明後日(4日)は雨になっている。明日(3日)は移動日にして、4日に韓国岳に登る予定だったが、雨の日の登山は避けたい。明日、できるだけ早く移動して、午後からでもいいから登ってしまうことにした。

 翌日、やまなみハイウェイを南下して阿蘇で57号線に入る。震度3の余震が起きたとラジオのニュースが伝えている。まだなかなか収まりそうにないようだ。57号線は325号線と合流する辺りが震災のため通行止めとなっていて、ミルクロード経由で迂回する。熊本ICからえびのICまで九州自動車道に乗り(一部復旧工事中)、えびの高原に着いたのは11時半頃。登山口近くは硫黄山の噴火で駐車禁止の区域があり、その外側の路側に車が並んで停めてある。あいていたスペースに車を入れる。

 雲がやや多いが、天気はよい。道路を少し行ったところに登山道の標識があり、そこから登り出す。もう降りてくる人もいる。林を抜けると北側の眺望が開ける。眼下に白っぽい硫黄山、えびの高原の建物群。登山道にはまだミヤマキリシマの花が残っている。さらに登って行くと、南方眼下に大浪池の丸いブルーが見え出した。韓国岳の火口の縁の外側を登るので、火口壁の内部はまだ見えない。

 12時50分頃、頂上の岩石帯にたどり着き、火口の内部を覗き込む。絶壁のはるか下方に底の砂泥が見える。取り囲んでそそり立つ火口壁には植物が生えて険しさを和らげている。火口壁の一部が低くなっているので、えびの高原から見ると双耳峰のように見えるわけだ。前回は火口にガス(霧)が満ち、絶壁の一部しか見えなかったのがかえって恐ろしさを感じさせたのだが、このように全てを見渡せると明るい雄大さだ。

 南の方を見てみる。今日は風がないので眼下の大浪池はさざ波さえ立っていないようだ。左方には縦走路の山々。手前から、こんもりとした獅子戸岳、巨大な火口から細い噴煙を二筋ほどあげている新燃岳、その背後にそびえる高千穂峰(中岳は新燃岳の陰になって見えない)。何という景色だろう。湿気があるのか、かすみ気味だが、この開放感。わざわざここまで来た甲斐がある。

 頂上には十数人の登山者が休憩している。私も、南方の景色を見ながら、大津町のスーパーで買ったパンを食べる。前に来たときは高千穂峰から韓国岳まで縦走したのだが、今は噴火で新燃岳の周りが立入禁止になっている。いつかまた歩いてみたい。

 もっとここにいたかったが、時間の制約があるので下山にかかる(1時半頃)。大浪池との鞍部への登山道はほとんど木の階段になっていた。元の登山道は大きな溝となり、雨が土を流し、まるで沢のようになっている。ここだけでなく、どこの登山道でもその傾向はある(九重もそうだった)。しかし、このコースは特にひどいようだ。急傾斜の直登になっているのと、火山性の土壌のせいだろう。そのため、徹底した整備が必要だったのだ。ただ、この道を利用する人は少ないようだ。

 鞍部に下りると、左が東回り、右が西回りの道になっている。どちらでもいいのだが、東回りにする。なだらかな登りで、なかなか火口壁の上に届かない。道は自然石を敷いたようになっていて、かえって歩きにくい。昔の人の作業だろうか。ようやく火口壁の上部に達したようだが、木が繁って火口の中は見えない。やがて、ところどころ岩などで林の切れ目があって、火口壁の下方に池の水面を見ることができた。やや濃い目のブルーである。

 韓国岳からの下山路のちょうど反対側の、火口壁が一番低くなっているところには、えびの高原から高千穂河原へ通じる車道からの登山道が来ている。韓国岳が真正面に見える。そこから西回りの道で池を一周する。火口壁から鞍部まで下りるのはこちらの方が短いので、大浪池に登るだけならば西回りの道を使った方がいい。

 韓国岳から下りて大浪池を一周する間、出会ったのはわずか3組だった。時間的に遅いせいだろうか。大浪池の周回路のミヤマキリシマの花は、今はもう部分的だが、最盛期にはトンネルになるのではないかと思わせるところもあった。シーズンにはもっと人が来るのかもしれない。あるいは、地震の影響があるのか。

 鞍部からえびの高原に戻る。この道はゆるやかな下りだが、いくつも沢を横切っており、その度に小さなダウン‐アップを繰り返すので、案外疲れる。やがて松林になり、つつじヶ丘のところで車道に出る。そのまま車道をたどると大きくカーブを繰り返すことになるが、林の中の歩道を使えばまっすぐに登山口に帰れる(4時50分頃)。登り始めるときにカッコウが鳴いていたが、まだ鳴き続けていた。

 えびの高原荘には前にも泊まった。あのときは登山者専用の二段ベッドの部屋だったと思う。今は立派なホテルになっていて、もちろん建て替えられたのだろう。

 翌日(4日)はやはり雨だった。帰りに益城町に寄った。地震から一か月半もたつのに、壊れた家がそのままになっている。余震がやまないので仕方がないのだろうか。

 災害は身近にある。それにぶつかるかどうかは偶然である。ときに、かするように過ぎていくこともある。私の場合、最大だったのは阪神大震災(1995年1月17日)である。家が半壊状態になった。山でいえば、西穂高独標付近の松本深志高校生落雷災害(1967年8月1日)の前年10月に西穂に登っている。また、御岳山噴火災害(2014年9月27日)の前々年9月には紅葉見物に女人堂まで登っている。これらを「かすめた」と言えるかどうか分からないが、時間的場所的に少しずれるだけで、誰にでも災害にあう可能性はあるのだ。

 九州の山の独特の美しさを思うと、早く落ち着いて、より多くの人が見に来るようになってほしいと願う。

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