井本喬作品集

高取城跡

 橿原の今井町が有名だが、大阪・奈良・和歌山の境近辺には、他にも五條、御所、富田林などにも古い街並みが残っている。高取もその一つで、土佐街道沿いに昔の面影がうかがえる。高取を有名にしているのは天誅組騒動であろう。天誅組が高取城を奪おうとして失敗したのである。高取城は街の南にそびえる高取山にある。高取の街並観光に行ったときに、高取山のかなり上まで車で行けると教わり、行ってみようとしたのだが、壷阪寺から先は通行止めの表示があったので断念した。

 一年後、梅雨の晴れ間に、近くでさほどハードでない山に登ろうと思って、いろいろ候補を上げてみたときに、ふと高取城跡を思いついた。下から歩いて登るルートがハイキングコースになっている。山城がピークになっている山はいくつもあるが、中でも高取城跡の規模は大きいらしい。地元の人にとってみれば、竹田城も目じゃないと言いたいところだろう。観光振興の試みもあるようだ。

 2016年7月7日、大して時間はかからないだろうと、ゆっくり出かけて、高取に着いたのは午後1時ごろ。観光駐車場に車を停めてトレッキングシューズにはきかえる。梅雨の合間の猛暑、しかも平日だから、ナンバーから察するに停まっている数台の車のうち観光客のものは一、二台だろう。日射しはきつく、さらに湿気があるので、街なかを歩くだけでまいりそうだ。

 山の方へ向って舗装されたなだらかな坂道を行く。左手に植村家長屋門があり、高取藩筆頭家老の屋敷であったらしい。現在は町長も務めた藩主の子孫が住んでいることを、前に来た時に近くの住人に聞いた。なまこ壁の瓦の各々に四つの白い丸が漆喰でつけてあるのが特徴的だ。さらに進むと右手に俳人の阿波野青畝の生家の案内板があり、その先に荒れたような砂防公園がある。そこから山の中へ入って行くが、宗泉寺までは舗装道が続く。

 宗泉寺へあがる道から分岐して山道が始まる。杉の林の中の道だ。日陰なのは有難いが、風がなく蒸し暑い。久しぶりに汗で濡れる。七曲りの途中にベンチがあったので休憩し、遅い昼食をとる。何かこすれる音がするので見回したが、それらしい原因は見つけられない。やがて、頭上で木が音を立てているのが分かった。倒れ込んだか傾いたかした木が、寄りかかった木をときおりこすっているのだ。上方にはわずかに風があるらしい。

 再び登り出す。かなり登ってきたが、わずかに石垣が残っている他は、城跡を示すようなものは見当たらない。飛鳥への分岐に着く。ここには猿石が置かれてある。解説には、城の石垣として使おうと、飛鳥で掘り出してここまで運んだとある。石垣にしてしまうのはもったいないと誰かが判断したのだろうか。分岐の背後にかなり大きな水溜りがあり、牛ガエルが鳴いている。堀だったようだ。

 ここから一升坂が始まる。名の由来は、あまりの急坂のため、工事人夫の手間賃に米一生追加したことから、とある。どこでもそうだが、こじつけめいて、嘘っぽい。一升坂を過ぎると門の跡がいくつかあり、いよいよ城跡らしくなる。国見ぐらへの分岐があったので寄ってみる。尾根の張り出しで、下方がよく見えた。

 戻ってさらに行くと、壷阪寺への分岐に着く。その上に大手門跡があり、この辺りから本格的な石垣が現れる。二の丸下段、二の丸を経て、本丸下郭の広場へ。草が生えている中に休憩所らしいあずま屋がある。二の丸との境の長い石垣の上には太鼓ぐら、十五間多聞、新ぐらなどが建っていたらしい。

 本丸は石垣で囲われている。本丸に上がると北東の隅にさらに石垣で囲われた小さな四角い突出があり、ここが天守閣跡。北側と東側の石垣は本丸の石垣と一体となって下まで続いている。北方の見晴らしがよい。本丸はかなり広く、天守以外にも建物があり、連立式天守というものであったとのこと。

 四、五人の役人らしい作業服の男たちがいて、調査のようなことをしていた。前回高取訪問時に植村家のことを教えてくれた住民は、見晴らしをよくするために杉の木を切る計画があることも話してくれた。山は一面に杉林が覆っているが、城があった時分はどうだったのだろうか。本丸下の東斜面には巨大な杉が何本かあり、とても明治になってから生えたものとは思えない。こんな立派な杉を切ってしまうのは惜しい。

 私の後から男の人が登ってきて、さかんに写真を撮っている。私は先に下りて、壷阪寺の方への道をとった。しばらく行くと、舗装道路に出た。道路は上の方にも登っているが、通行止めの柵が置いてある。車が一台停まっている。立ち止っていると先程の男の人が私に追い付いてきたので少し話をした。その車はその人のだった。男の人はつい先に備中松山城に行ったというので、変に対抗心が起こった私は岩村城に行ったことがあると言ってしまった(大和高取城、備中松山城、美濃岩村城は日本三大山城ということになっている)。男の人は下まで車に乗ることを勧めてくれたが、歩きたかったので私は断った。私たちが話をしているときに、道の上からバンが下りてきて、通行止めの柵を動かして通り過ぎて行った。上にいた役人風の人たちが乗っていた。

 山道を下る。一度舗装道路に出るが、すぐにまた山道が続く。山道が終わる手前に五百羅漢像がある。最初に目につくのは新しく作られた石像を並べたものだが、そこから分岐した道を上がると(この道が本来の古い道らしい)、岩に彫られた五百羅漢その他の仏像が点在している。だいぶ風化している。元の分岐に戻ると、すぐに舗装道路に出た。その下に壷阪寺がある。

 舗装路でない道が見つからなかったのでそのままその道をたどった。下の方にハイキング道への入口があったので、ルートはあるのだろう。ふるさと農道を見送って、169号線に出る手前に狭い一方通行の道(たぶん古道)があったのでそちらへ折れる。途中、お里沢市の墓があり、若い大工がお堂の屋根を修理していた。駐車場に戻ったのはちょうど5時だった。どこかで休憩しようと思ったが、店はみなもう閉まっている。仕方なく車に乗って引き上げた。

 高取城は天嶮を巧みに利用した名城の印象で、難攻不落のように思え、天誅組が取り付いてもどうにもならぬような気がした。ところで、城のどこにブリキトース砲は据えられたのだろう。あまり上部だと下まで届かないのではないか。帰って調べてみると、砲は鳥ヶ峰に四門備えられたとのこと。鳥ヶ峰というのは、現在の町役場の近辺らしい。城からはかなり離れ、さらに街の外れになる。天誅組は城はおろか高取の街へもたどり着けなかったわけだ。

 天誅組は五條から中街道をたどって高取に攻め込もうとした。今は国道169号線を中街道と呼ぶようだが、県道120号線が当時のルートらしく、その辺りはJR和歌山線や近鉄吉野線も通っているので、越えやすかったのだろう。鳥ヶ峰は中街道が高取に入るところにあり、ここに陣を構えるのは至極当然である。天誅組は芸もなくぞろぞろと敵が待ち構えているところに向かったのだ。愚かとしか言いようがない。

 高取城跡が観光地として整備され、もっと多くの人が訪れることを私も望むが、好事家の興味しか引かない今のままの姿の方がいいのかとも思う。

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