高清水高原
1973年の春に高清水高原に登ったが、記憶は全く失われている。まだ記憶が残っていたころに書いたメモによると、積雪の中を登り、荒れたキャンプ場を通り、標識のあるところまで行った。雪はなく風がきつかった。日本海は見えなかった。それだけである。
ずっと気にはなっていた。もっといい季節であれば違った印象であったはずだ。「高原」という名にふさわしい景色に出会えたのではないか。それに「高清水」も見ていない。
そもそも高清水高原に行ったのは岡山に赴任していたからである。『関西ベストハイキング』(実業之日本社、1971年)の中のごく簡単な紹介記事を見て、手ごろだから行ってみる気になったのだ。
その日は国鉄のストが午前中まで続いていた(ストで交通機関が止まる時代だった)。岡山から津山までどう行ったのか憶えていない(たぶん、バスだったのだろう)。津山から乗った中鉄バスは人形峠までは行っていなかった。今でも上齋原までしか行っていない。帰りは人形峠から国鉄バスに乗れたが、この路線はもうない。
1955年に人形峠でウラン鉱が発見され、1956年に「原子燃料公社」が設立された。その後、組織変更により名称は1967年「動力炉・核燃料開発事業団」、1998年「核燃料サイクル開発機構」、2005年「独立行政法人日本原子力研究開発機構」と変遷。2015年からは「国立研究開発法人日本原子力研究開発機構 核燃料・バックエンド研究開発部門 人形峠環境技術センター」となっている。日本の原子力行政の迷走を表しているかのようだ。
ウラン景気により雇用が創出され、その職員たちが高清水高原によく遊びに行ったらしい。ウラン採掘そのものは10年ほどで終わってしまって、私が行ったころには宴の後の荒廃が始まっていたのかもしれない。
それからかなりたってから、登山ルートを調べ直してみたが、廃道化しているようだった。もはや再訪は無理とあきらめていた。ところが、「高清水高原トレイル」が2019年に開設されたことを最近知った。高清水高原までの往復なら、肺機能が減少してしまった私でも歩けそうだ。
2022年10月1日、Kと二人で行ってみた。中国道・鳥取道を経て、用瀬ICから482号線を西走、179号と合流した後、分岐して人形峠の駐車場へ。既に十台以上の車が停まっている。
この時期にしては異常に気温の高い日が続いており、その日も30℃近かった。ちぎれ雲がわずかにあるだけの快晴。最初はコンクリートの車道で、切り開かれた道筋には日陰がほとんどなく、直射日光が暑い。道脇に弘法大師像があった。やがて登山道になり、林の中に入った。すぐに湧水があった。溝のような流れが道をくぐっている。道から少し外れたところに湧水部があり、小さな石垣で囲われている。
紹介記事では登山道はウッドチップが敷かれているとのことだったが、雨に流されて残骸が残っているだけだった。下地の砂も流されて、流れ止めの丸太のはしご状の枠組みがむき出しになっている。露わになった土が水にえぐられ、歩きにくい。当然予想されたことなのに、メンテを考えていなかったのだろうか。
林の中は涼しかった。登り疲れ始めたころ、ようやく林を抜け笹原の平地に出た。三角屋根の東屋がある。コースタイムをオーバーし、四十分ほどかかった。そこから一登りで大きな柱の標識があるピーク。東部の眺望は開けているが、西部は笹と木が邪魔している。おまけにかすんでいるが、大山は見えた。日本海は見えない。三瓶山はよく分からない。大山のすぐ左にあるのが烏ヶ山だろう。
東屋に戻ってテーブルのあるベンチにすわり、道の駅「あわくらんど」で買った弁当を食べた。登ってくるときには三人の単独行者とすれ違ったが、休憩中に四組のグループが追いついてきた。紅葉シーズンにはまだ早いので週末でもこれくらいの人出なのだろう。
ところで、以前来た時に見たキャンプ場はこの東屋のある辺りだったようだ。いまはキャンプ場としては使われていない気配である。一部笹が刈り取られていたが、高原という雰囲気ではない。
日本のように多湿な気候で高原化するのは人の手が入っていることが多い。1960年ごろに高清水高原でキャンプした人のWEB上の回顧記事に、馬の放牧が行われていたことが記されてあった。
食事をすませて下山する。登ってきた五人家族とすれ違った。子供三人はまだ小さかった。あとは誰にも会わず駐車場へ着く。午後一時前、まだ早かったので蒜山と大山を回り、山陰道、鳥取道、中国道をたどって帰った。
さて、あらためて高清水高原に行ってみて、東屋のあったところだけでは、高原というにはスケールが小さすぎると思った。帰ってからWEBでいろいろ調べてみたのだが、人形峠環境技術センターの広報「にんぎょうとうげ」の第82号(平成29年3月31日発行)に、関係者の次のような回顧が載っている。「10代の頃はバイクで高清水高原のキャンプ場の清水が湧き出るところまで良く走って行った。当時の高清水高原は、津山-倉吉間の路線バスの停留所/休憩所になっており、茶店や食堂、土産物屋で繁盛していた。」同広報の他の号の昔の写真を見ると、今の人形峠原子力産業株式会社の建物・駐車場の前の道路にバス停があったようだ。道路をはさんだ向かいに茶店などがあった。
ちなみに、ウィキペディアの「人形峠」の項には「峠の西側(鳥取県側)は天神川本流の上流部の支川である加谷川の源流が迫り、急峻である。一方、東側(岡山県側)には吉井川水系の池河川があり、標高700~850メートルにかけて緩やかな高清水高原を形成している。この高原には日本原子力開発機構の人形峠環境技術センターの敷地が広がっている。」とある。
また、日本大百科全書事典(ニッポニカ)の「高清水高原」の項には「岡山県苫田郡鏡野町上齋原と鳥取県東伯郡三朝町にかけての標高800~1000メートルの高原。中国山地の高位平坦面の一部で、南東の恩原高原とともに牛の放牧場に利用されている。南西の人形峠には日本原子力研究開発機構の環境技術センターがある。高原は夏はキャンプでにぎわう。」とある。
これらと上記の回顧などを合わせ読むと、高清水高原と呼ばれていたのは、いまの人形峠(以前は「打札越」)辺りをも含む広い範囲だったと解釈できる。
高清水高原がピーク近くに限定されているように言われているのは、広い草原のどこかを代表地点として選ぶならピーク地点になるだろうということと、高原の大きな部分を原子力関連施設に占められてしまったことに原因があると思われる。
では、キャンプ場はどこにあったのだろうか。キャンプには水が必要なことを考慮すると、湧水の近くであろう。当時でもバイクでならそこまで行けたのかもしれない。
私が以前見たキャンプ場もそこだったのか。しかし、今の湧水付近は道路の末端の広場(駐車スペース)があるだけで、キャンプ場の面影は全くない。さらに、キャンプ場は木のない緩斜面で、ピークは近かったような気もする。だとすれば、やはり東屋のある辺りなのだろうか。結局、よく分からない。