井本喬作品集

はるかな山

1 北八が岳(67年春)

 五月の連休の終わり頃、二人のKと北八が岳の縦走を試みた。天狗岳から蓼科山まで、池を巡りながらの楽なコースのはずだった。

 最初の日は黒百合平で幕営し、翌日出発前に荷物を置いて天狗岳に登った。見下ろす東斜面はまだ雪が多く、幹と枝だけの木々が黒々と雪の中にあった。天狗岳は双耳峰である。一人のKともう一つの峰である西天狗岳に行った。残ったKのとった写真を後で見ると、二人の姿が小さく写っていた。

 東天狗岳に戻って三人で休憩しているとガスが出てきた。岩つばめが僕らを狙うようにかすめる。姿は見えないが羽音だけが近づき遠ざかる。ぶつからないかと恐いくらいだ。

 この時期の山は初めてだったので、時にはひざまである深さの雪の上を進むのに難渋した。ニュウを下りた辺りで道に迷った。予定では双子池まで行くつもりだったが、白駒池に辿り着くのがやっとだった。幕営の気力はなくなり、小屋に泊まった。

 連休のために小屋を開けたが、明日からまた閉めて帰ると管理の夫婦は言った。僕らは予定を変更して、彼らの車に乗せてもらうことにした。

 次の日、小屋の人と麦草峠で落ち合うことにして僕らは先に出発した。一人のKを峠に残して雨池まで往復した。紅茶を飲もうと思ってコンロを持って行ったが、コッヘルを忘れたため役に立たなかった。

 小屋の人の車に蓼科湖のバス停まで乗せてもらい、バスに乗り換えた。その日は白樺湖のユースホステルに泊まった。

 結局、北八ヶ岳はそれきりになってしまい、蓼科山に登ったのはずっと後のことになった。

2 針の木岳(68年夏)

 後立山縦走の三日目、キレット小屋から歩き続けて、針の木岳手前の稜線上で遂に水筒の水がなくなった。疲労が注意力を低下させるのか、道に迷いかけた。次に雷雨が襲ってきた。雷雨の中を頂上をめざして急いだ。切り抜け方としては一番まずいのだろうけれど。僕が死ぬわけはない、とそのときも思った。「死」は何としても受け入れることができない、いやそれ以上に、理解することができないものだった。それは、ちょうど、自分の生は何ら特別な意味を持たぬ偶然的な事象であることがありうるのだと気づかされたときのように、どうしても信じられないことなのだ。若さが僕を傲岸にしていた。

 雷雲は去った。針の木小屋へ向かって下りていく途中で雪を食べた。小屋に着いてから缶ジュースを飲み、食事のときお茶を飲み、また缶ジュースを買って飲んだが、それだけでは渇はおさまらなかった(小屋には水道はない)。夜中にたまらなくなって、雪渓の雪を空き缶につめてきた。溶けきるのが待っておられず、少量ずつ飲んでしまう。味はよくなかった。

 翌朝、蓮華岳を少し登ってみた。陽が足もとまで照らし出すと、それまで気がつかなかった駒草の花があちこちに咲いていた。

3 蓮華温泉(70年夏)

 Kと二人での山行は、二度とも雨だった。一度目は裏銀座を途中から雲の平へ抜けたとき。烏帽子小屋を朝出たときから曇っていたが、東沢乗越でとうとう降り出した。水晶小屋への登りは篠突く雨の中。雲の平山荘へ着く頃には雨があがりガスも消えたが、周りの山々は雲に隠れて見えない。翌日も天気はあまりよくなかった。カベッケ原から太郎兵衛平への道はぬかるんでいた。

 二度目は後立山を縦走しようとして白馬岳に登ったとき。一日目も二日目も雨で、仕方なく予定を変え白馬大池の方へ下りた。稜線での風雨は激しく飛ばされそうになる。蓮華温泉で五十円出して白く濁ったお湯に入った。露天風呂にも入ってみようと、傘をさしながら登って行った。露天風呂は地面に井戸のような枠がありその中の地中にお湯があるだけで、屋根も塀も洗い場もなかった。雨があがったので周りの石の上に服を置いて入る。かわるがわる風呂に入った写真をとった。向いの山腹をガスがはい登っていった。

 再び雨が降り出してきたので、服を着て宿まで下りた。そこからバス停まで一時間ばかり歩いた(まだバスが宿まで来ていない頃で、道が工事中だった)。バスを待つ間雨は激しく降った。床が痛んだプレハブの小屋で、僕らはだいぶ待った。バスが着くと、数人の登山者が下り、僕らの来た森の中へと入っていった。

4 大台が原・大杉谷(71年初夏)

 大和上市の駅前には登山者たちがたむろしていた。バスの時刻表を見ると大台が原行きは一日二便しかなく、まだ午過ぎだが既に二便目も出てしまっていた。しかし、登山者たちが待っているのなら、バスが出るのかもしれない。僕と同じ電車で来た者たちが当惑して仲間内で相談していると、既にいた者が説明をした。一定の人数が集まれば臨時便を出してくれるらしい。増えた人数を調べてあと何人と勘定している者がいた。

 はたしてバスが出るだけの人数が集まる見込みがあるのか心もとなかったので、僕は辺りを歩いてみることにした。国鉄(まだJRではなかった)のバスの停留所があったが、大台が原へ行く便はないようだった。さらに家々を突っ切ると広い道路に出て、その向こうは川だった。仕方なく僕は元の場所に戻った。

 電車が着く度に少しずつ人数は増えていった。二人ほどあきらめて出ていった者がいて、ある娘が仲間内でののしっていた。その娘の所属しているグループと、もう一つのグループが、バス会社との交渉の中心になっていた。

 遂に人数が集まってバスが出ることになった。出発前に料金のことで食い違いが生じた。乗客たちはバス会社の条件をバス一台の総額として受け取っていたので、最低条件の人数を超過すれば頭割りで安くなると思っていたのだが、バス会社は一人当たりの額は変わらないと言う。その金額を払わなければバスは出ないので、これは致し方なかった。

 バスの中で、中心となったグループの一つが関西ペイントの連中だということが彼らの話から分かった。もう一つのグループは東レだと言っていた。すると、去る者を非難していたあの娘が、東レなら知っている、会社の前にあって、時々バーゲンをする、と言った。東レの連中は否定した。関西ペイントの前にあるのは東洋レーヨンではなく東邦レーヨンだということを僕は知っていた。そのことや、僕がライバルのペイント会社に勤めていることを告げようかと思ったが、それはやめて彼らの話を聞くだけにした。

 翌日は大台が原をひと回りした後、大杉谷へ降りた。最初は尾根道で、どんどん降りて川と合った所が最初の滝だった。大勢休憩していた。滝を見、吊り橋を渡って谷を下った。途中、バスで一緒だった連中を幾組か追い抜いたが、向こうは気づいていないようだった。

 桃の木山荘の近くで遅い昼食をした。この時間なら下まで降りきれると考えた。バスの最終便に間に合うように、時間を気にしながら歩いた。やがてダム湖のはずれに着いた。そこからバス停まで船が出ているのだが、人数が集まらないと出ないそうだ。急いだのが無駄になった。行きも帰りも人を集めて出す乗り物に当たったのがおかしくもあった。

 人数が集まって船が出た。僕らの乗ったバスが最終便だった。桃の木山荘からの道で追い抜いた数から勘定するともっと降りてくるはずだが、その人たちはどうするのだろうと思った。けれども、心配する必要はなく、途中で向こうから来る臨時便とすれちがった。バスが松阪へ着く前に日が暮れた。

5 美が原・霧が峰(71年夏)

 Iと僕の二人は美が原を横切って反対側の端に出た。山本小屋の裏の斜面が幕営地になっている。オオシラビソの林の中にバンガローがいくつかあった。場所を選んでテントを張った。テントの片側をはね上げてすわり込み、昼食の用意をした。卵が三つ割れていた。食事を済ますと夕食まですることはなかった。エアマットをふくらませて昼寝をした。帽子を顔にかぶせて陽を避けた。一時間ほどして起きてみたら、短パンなのでむき出しだった足が陽に焼けてひりひりした。

 その日の午後はそこで過ごした。歩き回る気にはなれなかった。道へ出るために斜面を登るのもおっくうだった。夕方になって食事の準備をした。肉が腐っていないかと嗅いでみたが分からないので、かまわず使った。デザートにはパイナップルの缶詰を開けた。二人では多すぎたが、残しても持ち歩くわけにはいかないので全部食べた。食器を洗って荷物を片付けテントの中に入った。暗くなってからロウソクをつけた。

 翌日、予定では歩くところを、バスで八島湿原へ行った。荷物が重すぎてバテてしまっていた。テントを張ってから湿原を一回りした。途中木陰で休んだ。足に陽が当たると陽焼けが痛むので、幹の細い影に足を無理な形にして入れた。

 三日目、車山を越して白樺湖まで歩いた。鎌倉の騎馬武者が芸を競ったというくぼみを通った。そこでひと休みして、飲み物を買って飲んだ。周りの斜面には大名たちが陣取ったという。こんな山の中で歴史に出合うのは奇妙な気がする。さらに昔、黒曜石の矢じりを使っていた人々がこの高原を歩いていた。黒い土の上に今は僕らの登山靴が跡をつける。

 車山のふもとをドライブウエイが巻いていた。東斜面はリフトの工事中で、下り切ると道の傍に大きな休憩所が建っていた。ニッコウキスゲの花盛りの中を登って行った数年前とはすっかり変わってしまっている。

 車山から白樺湖へ行く道で僕らはケンカをした。原因はたわいもないことだ。僕がバテたのにIが待ってくれなかったからだ。Iは山馴れていなかったので、体の小さい僕の方が荷を重くしていた。それを当然のこととして先を行くIに僕は腹を立てた。僕は意地になってがむしゃらに歩いた。必要なこと以外は話さなかった。

 白樺湖の対岸の幕営地まで船で渡った。テントは多かった。テントを張る前に僕は焼きとうもろこしを二本買って、仲直りの申し出のつもりで一本をIに渡した。とうもろこしを食べ終わらないうちに怪しげだった空から雨が降ってきた。びしょぬれになりながら急いでテントを張った。張ってしまうと雨はやんだ。テントの中に入って、コンロで服を乾かした。

 四日目、僕らはバスで小諸へ出、そこで別れた。和解したとはいえしこりが残り、妥協してまで行動を共にする気は二人ともなかった。Iは軽井沢へ行くと言い、僕は直江津へ出て泳ぐつもりだった。僕の列車の方が早く来た。Iはプラットホームで手を振った。

 直江津の海水浴場は駅から離れていた。重いキスリングをかついで歩いた。海は荒れていた。波が激しく打ち寄せる浜には誰もいなかった。売店でコーラを買い、引き上げられていたボートに腰かけて飲んだ。

 仕方なく、駅に戻った。そのまま大阪へ帰るのでは物足りなかったので、とりあえず金沢まで行くことにした。普通列車は律義に各駅に停まり、高校生たちを乗せたり降ろしたりした。

 金沢に着いたのは暗くなってからだった。駅の構内で、壁に寄りかかっているIを僕は見つけた。軽井沢はつまらなかったのですぐに引き上げてきたと言う。離れていた間の寂しさから、僕らは再び親友に戻り、行動を共にすることにした。僕らは夜行で大阪に帰った。

6 槍ヶ岳(72年秋)

 槍ヶ岳の頂上は天気がよくて富士山まで見えた。昨日は燕小屋を通り過ぎて西岳小屋まで一気に行ってしまったので、今日の行程は半日で済んだ。過ごす時間はたっぷりあった。山頂のメンバーは順ぐりに入れ替わっていく。僕の横では若いアベックが次から次へと菓子や果物を食べていた。彼らはよく喋り、くつろいでいていつまでも居すわる気だった。僕は肩の小屋で買った清涼飲料の缶を一つ持って来ただけで、それももう飲んでしまった。することがないので僕は降りた。日が暮れるまで小屋の前の机で本を読んだが、なかなか暗くならなかった。

 午前零時頃、ジャコビニ流星群を見るために皆と一緒に外へ出た。寒さの中で、立つ者もすわっている者も北の空を見ていた。雲が星を隠すと不安げなつぶやきが起こる。あんまり見つめるので、星が流れたのが見えたような気になり、ときどき誰かが叫び声をあげた。

 一時間後、とうとう現れなかった流星群に対して文句を言いながら皆小屋に戻った。頂上でも灯が動き、下り始めた。

7 高清水高原(73年春)

 人形峠から高清水高原までの道は雪の中だった。キャンプ場は半分雪に隠れ、便所らしき小屋が押しつぶされていた。高原には雪はなく、風がきつかった。僕はヤッケを出して着た。日本海は見えなかった。風の他はただ表示板があるだけだった。

 その日まで国鉄(まだJRではなかった)のストが続いており、午後から中止になった。おかげで帰りは人形峠で国鉄バスに乗れた。そうでなければ、来たときの逆に、中鉄バスの停留所まで歩かねばならなかったろう。バスはすいていた。津山市内に入ったときに、一人の老人が乗り込んできて、大声でストがどうのこうのとわめき続けた。車掌も運転手も僕も無視した。津山駅に着くと、その老人がカネを払わずに降りようとするのを、若い車掌が引き止めた。老人はあらがったが、車掌は無理矢理引っぱって行った。

 鉄道のダイヤは乱れていて、二時間ほど待たねばならなかった。鶴山に灯が見えたので行ってみた。何層もの石垣を登っていく道は桜がいっぱいで、その下に人もいっぱいだった。城の建物はなく、石垣だけが残っている。城の下は真っ暗で何も見えない。

 あのときの桜はきれいだった。

8 九重山(73年初夏)

 大船山は風がきつかった。風に向かうと呼吸が出来なかった。誰もいない頂上で岩の陰に入ってチョコレートを食べ水筒の水を飲んだ。降りるときにすれ違った人が、寒いでしょうと挨拶をした。僕は短パンだった。その人の後を犬がついていった。

 ミヤマキリシマの枝に足を傷つけられて大戸越に着いた。花盛りの平治山に登る。下を見ると、枯れたカヤトの草むらに寝転がっている人たちが見えた。山頂を往復した後、大戸越を下りながら振り返ると、白いカヤトとミヤマキリシマのコントラストが似合っていて、その上に空があった。寝ている人たちの姿は隠されて見えなかった。

 久住山を南側に下りた。こちら側から登ってくる人は少なかった。二人の娘さんに、後から登ってくる彼女たちの両親に伝言を頼まれた。特徴と名前を聞き、会う人ごとに気をつけた。一度それらしき人にたずねたが人違いで、遂に出合わなかった。

 登山口の道路には食堂が一軒あるだけだった。バス停は食堂から少し離れたところにあった。道路脇にすわり込み、法華院温泉の旅館で作ってもらった弁当を食べた。天気はよくてのんびりした気分だった。鳥の声がする。車はあまり通らない。食事を済ましてからジーパンとTシャツに着替えた。登山靴はサンダルに。残っていた水筒の水を棄てた。

 バスはすいていた。集まりの帰りらしい数人の坊さんが乗っていた。いずれも年寄りで、背広と和服の両方がおり、頭をそっていない者もいた。共通しているのは黒いかぶりものだけだった。バスガイドは体格がよかった。バスはあまり人を乗せも降ろしもせずに走っていった。

 竹田の街は小さかった。岡城趾は街を突っ切り、山道を大分登る。城は川にはさまれた高台にあって、石垣から崖になって川まで落ちており、高度感がある。建物は茶店の他にはなかった。

 帰りに広瀬神社と、キリシタンの隠れ家だったという岩屋に寄ってみた。岡城趾と広瀬神社とキリシタンの隠れ家という組み合わせは奇妙だが、旅人には分からない街の総体の中にしっくりと当てはまっているのだろう。

 それから列車の時間までかなり退屈した。

9 太郎兵衛平から笠が岳へ(73年夏)

 その年は大分雪が残っていた。太郎兵衛平からの道はときどき雪の中に消えていた。雪の上を歩きながら雪を食べた。食べてはいけないとは分かっていたが、誘惑には抗しきれなかった。

 黒部五郎岳のカールは雪に埋まっていた。頂上から眺めていると、先程追い抜いた人がやってきた。僕は下り口を聞いた。彼はガイドブックを見せてくれた。彼自身はピークづたいに行くつもりだと言った。

 下り口は急で土がもろかった。二人の娘が登ってきてあいさつがわりに道を聞いた。彼女らが指さしたのはカールの外壁であることを僕は注意した。雪の部分になると、どう下りていいか分からなくてまごついた。後ろ向きになり、手も使い、足場を切りながら下った。そのうち、雪が柔らかいので大丈夫だと気づき、普通に歩いた。

 三俣蓮華岳から双六岳への谷側の道は、雪渓のトラバースの連続だった。午後の陽は陰り、ガスも出てきて不気味だった。

 翌日、双六小屋から大ノマ乗越まで谷の道を選んだが、雪渓が堅く凍りついてトラバースに難渋した。靴でけって足がかりをつけて一歩一歩進まねばならなかった。四つん這いになったので、手が冷たくて仕方がなかった。道は一部崩れていた。大ノマ乗越に着くと、この道は通行禁止になっていることを表示した板に気づいた。

 抜戸岳への取りつきへの道も雪に埋まり、急傾斜の雪渓をこわごわ登らねばならなかった。足跡が頼りなく、先行している人の後をついていくと、最後にハイ松の中の岩登りをさせられてしまった。

10 山を下りる(66年秋・ 73年夏・ 74年夏)

 まだ西穂にロープウエイがなかった頃、小屋から新穂高温泉まで下りるのに、コースタイムより一時間多くかかってしまった。そのときは三人でテントをかついで上高地から登り、西穂山荘のテントサイトで幕営した。松本深志高校の生徒が独標で落雷にあう前の年の秋だった。西穂高岳まで往復した後、タカをくくって下りたのだが、なかなか着かない。後半はロープウエイの工事用らしい道だった。新穂高温泉ではテントサイトが見つからず、駐車場の隅にテントを張った。暗くなり始めた中で食事を作るのは情けなかった。冷気で虫歯が痛んだ。

 笠が岳から一人で下りたときも、小屋のアルバイトの娘さんの保証してくれたよりも三十分以上多くかかった。みんな走っていくそうだ。下りは得意ではないので走ることは出来なかった。槍見温泉の河原の露天風呂に入ると陽焼けが痛かった。小さな魚が白い腹を見せて沈んでいた。

 剣沢を下ったとき、阿曽原から欅平への断崖の水平道でもコースタイムを縮められなかった。途中に長いトンネルがあったが、懐中電灯を持ってきていなかったので手探りで進まねばならなかった。真の闇で、いくら目をこらしても何も見えない。狭いトンネルの中には水が流れていた。灯が見えたので出口かと思ったら、向こうから来た登山者のライトだった。あと五分か十分くらいと教えてくれて彼らは行ってしまった。僕はのろのろと進みながら、ちくしょうと叫んだ。声はトンネルの中に響いた。欅平は人が一杯で、黒部峡谷鉄道に乗るのに順番待ちをしなければならなかった。

11 大山(74年春)

 大山環状道路を通って桝水原まで来た。風がきつく、人は少なかった。大山には雪があった。

 旅館の食堂に入って、僕は紅茶を、Iはホットカルピスを注文した。カネを払うとき、店の主人とIが口論した。価格表と違っているとIが抗議し、主人はホットにしたからだと言う。Iがつっかかったので、主人も腹を立てて言い返す。結局カネを出して店を出ようとする僕らの背後に、こっちはもうけようとしてやってるんじゃない、お前たちみたいのは山へ来るな、という意の悪態が投げつけられる。

 Iは自分が冷静であったと説明する。ただからかってみただけさ。僕らは車に乗り込み、山を下りた。

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