井本喬作品集

背中の翼

 友也が目覚めてみると羽が生えていた。二、三日前から背中に二つの膨らみができ、むずがゆかった。痛くはないので病院へ行って一日を潰してしまうのをためらっていた。そこから小さな羽が出てきている。裂けた皮膚は血を出していない。人間が変身するという事象は多く伝えられているのでそれほど驚くことではないのかもしれない。彼はカフカの小説の主人公のことを思い出した。あの男に比べれば人間の姿を保っているだけましと考えなければならない。

 鏡で見る羽はちゃんと翼の形はしているがいかにも小さい。これでは飛べないだろう。しかし、ヒナのように細かい羽毛でおおわれているのではなく、成鳥の羽になっている。色は白。背中の筋肉に力を入れてみたが羽は動かなかった。たたんでおけばさほどかさばらない。彼はシャツを着てみた。上着を着ればなんとか誤魔化せそうだ。しばらくは秘密にしておかなければならないと何となく思った。

 出勤途上の満員電車の中では、友也は背中を乗客や車体に押し付けないように注意した。職場では椅子の背もたれに寄り掛かろうとしてはっと気づき、体を立てることを繰り返した。羽をいたわるのは疲れる。寝るときも仰向けにはなれない。横向けかうつぶせになる必要がある。そういえば鳥は仰向けにはならないな。鳥が仰向けになるのは死んだときだけだ。

 仕事をしていても羽のことが気になった。人間に生えている羽といえば天使を連想する。背中に小さな羽をつけて飛び回っている裸の子供というのが天使のイメージだが、誰かの「受胎告知」の絵に大人の天使が描かれているのを友也は思い出した。あの天使の羽は大人の体に合わせて大きかった。自分の羽もあんな風に大きくなるのだろうか。羽が大きくなったら空を飛べるようになるかもしれない。

 背中に羽があるのにいつものように仕事をしているのが不思議に思える。友也は周りの連中を見渡した。あいつらと違って自分には羽がある。羽があることで何ができるかはまだ分からないが、とにかくあいつらとは違う存在になった。羽のことをあれこれ考えるから仕事ははかどらない。

 友也は五時になるとすぐ帰った。家に帰ると裸になって、首をねじって鏡にうつる背中を見る。横を向いたり、斜になったり、長い間自分の姿に見とれていた。せっかく羽が生えているのだから、利用しない手はないな。テレビという大掛かりな見せ物小屋を使えば一儲けできそうだ。背中に羽が生えているなんて大騒ぎになる。有名人になれるし、ひょっとしたら歴史に名が残る。だが、羽が生えるというのは突飛すぎて、人々には受け入れ難いかもしれない。テレビにもあれだけインチキが出回っているから、それらと同じように見られてしまう可能性が高い。たとえ医者が保証してくれても、インチキを保証する専門家はごまんといるから、信用される保証はない。それに背中の羽など、宗教的な侮辱と取られかねない。そんなトラブルに巻き込まれるのは困る。

 食事の後、風呂に入った。湯が羽にどういう影響を及ぼすか分からないので、シャワーだけにした。鳥は水浴びをするし、水に潜って魚を取るから、濡れても大丈夫なようだ。水鳥は羽に油をぬっているようなことを聞いたことがある。石鹸は使ってもいいのだろうか。シャンプーの方がいいかもしれない。

 風呂から上がってぼんやりとテレビを見ているとき、友也はこの羽が他人にも見えるとは限らないことに気がついた。以前に精神に異常を来した友人がいたが、彼は自分の体から綿のようなものが際限なく出てくると言っていた。この羽も自分の妄想かもしれない。自分は狂っているのだろうかと彼は考えた。そうだとしても、今のところ狂気には悩ませられてはいない。不安があるといえば背中の羽のことだが、彼の立場になれば不安に思うのが当然だ。それとも、これを事実と思い込むことが正常ではないのだから、そのことで不安を抱くことは異常なのだろうか。

 翌日勤務後、友也は友人の博人を呼び出して会った。博人は大学で生物学の研究をしている。人間の変身については専門外だろうが、友也よりは詳しい知識があるはずだ。事情はあいまいにして、酒席の会話として情報を得ようとしたのだ。

「ところで、天使についてどう思う」

 たわいもない会話が一区切りついたところで、友也は唐突に切り出した。

「天使って、天使と悪魔のあの天使か」

「そう。受胎告知の絵にあるような。あんな生き物がいると思うか」

「真面目に言っているのか」

「現実にどうこう言うのじゃなくて、可能性としてだよ」

 天使はいわば架空の生物のようなものだから博人は興味を示すはずだ、という友也の目論見は当たったようだった、博人は話題に乗ってきた。

「天使は人間にハネが生えたように描かれているね。あれは鳥からの連想だろうけど、鳥のハネは人間の手に当たるはずだ。もし天使にハネがあるのなら、彼らの祖先は手足が6本あったことになる。天使は昆虫の仲間なのかな。いや、昆虫には手足のほかにハネがある」

「ハネと手足の数には関係があるのかな」

「進化的には理由があるはずだ。そもそも、天使の姿を示したのは誰なんだろう。聖書にその描写があるのだろうか。聖書の挿絵とか、教会の装飾を作る際に、適当に思いついた姿を作ったんだろうな。生物学の知識のなかった画家や彫刻家たちは、鳥のハネが我々の手に相当することを知らなかった。宗教者の指示なり示唆に従っただけかもしれないが、いずれにせよ、彼らは自然の摂理には無頓着だった」

 博人はそう言ってから少し間を空けて付け加えた。

「いや、そうとも言えないかもしれないな。西洋系のドラゴンにはハネはあるが、東洋系の竜にはハネはない。ハネがなければ空を飛べないと考えたという点では、超能的な力を想定した東洋系よりも、西洋系の方が科学的だったといえるのかもしれない」

 友也は問いかけた。

「手足が四本でハネのある生物はいないのだろうか」

「いるのかもしれないけど、知らないな。二本の足しかない生物はまずいないだろうし、八本以上の足を持つ生物はいるけれど、そういう種は少ないはずだ。足を持つことで進化的に成功した生物の足の数は、四本か六本が主といえそうだな」

「昆虫は六本足でハネがある。四本足の生物にはハネがない。鳥は二本足でハネがあるが、彼らは四本足の生物から進化した。つまり、原則的に、四本足の生物にはハネがなく、六本足の生物にはハネがある、ということになるのか。なぜだろう。それは偶然なのか、それとも、何か理由があるのだろうか」

「面白いな。ハネというものが足よりも進化的に遅く発生したと考えれば、昆虫と四本足生物の共通の祖先として、六本足でハネのない生物を想定してみることができる。その生物のうち、ハネを獲得した生物が昆虫になり、足を一対減らした生物が四本足生物になった。そう考えてみよう。ハネの利点は明白だが、足一対の喪失の理由は何だろう」

「オレたちは魚類から進化したのではなかったかな。昆虫とはもっと以前に別の道を歩んでいたことになるんじゃないかな」

「そうなんだけれども、こう考えることもできる。オレたちは陸に上がったとき、なぜ足を六本持たなかったのか。発生の系統を無視して考えるなら、昆虫が六本の足を持てたのに、オレたちが四本しか持てなかったのはなぜなのか」

 博人は真剣に考え込んだ。彼はこういうクイズもどきの問いを解くのが好きだった。やがて博人は言った。

「オレたちにはハネがなかったから、移動に足を使わざるを得ず、足を強力にする必要があった。エネルギー的には六本足は贅沢であったのかもしれないが、それ以上に、邪魔だったのだ。素早く移動するためにオレたちは走らなければならなかった。走るときは足で地面を蹴って体を進ませ、その足を空中で前に出して地面につき、また蹴るということを繰り返さなければならない。そういう動作の組み合わせを幾本かの足を使ってしなければならない。足が六本では操作が難しいんじゃないかな」

「そうか。昆虫はハネがあったから、足にそれほどの負担をかける必要がなかった。ハネがあるから足の維持にそれほどエネルギーを割く必要がなく、そして、彼らの行動にとって四本よりも六本の足の方が便利だった。六本足とハネは効率的な組み合わせなのかもしれないな」

「さっき言った六本足でハネのない仮想の生物に当てはめてみれば、ハネを獲得した種は走る必要がなかったので足が六本のままで、ハネを獲得できなかった種は走るために四本足になった、というモデル的な過程が想定できる。むろん、他の要因はたくさんあるだろう。中でも体の大きさは重要だ。それでも、足が四本と六本の違いとハネのあるなしを結び付けようとすれば、このように考えられそうだな」

「でも、四本の足とハネを持っていれば、逃げるのにも追いかけるにも便利であるはずじゃないか」

「そういう贅沢を自然は許してくれない。エネルギーを効率的に使うには、少しの無駄もゆるされない。飛ぶことと走ることが同じような有利さを与えてくれるなら、どっちかを選ばねばならない。両方を追及して過大なエネルギー負担を背負い込むことは滅亡への道なのだ」

 友也はさらに食い下がった。

「四本足でハネがないのが安定した形なら、鳥が二本足でハネがあるという姿になったのはなぜだろう」

「鳥がハネを持つことができたのは、祖先である恐竜が二本足で走ることができるようになったからではないかな。移動に前足を使う必要がなくなったために、ハネに転化する道が開けたのだ。そして、ハネで飛ぶことができるようになると、走る必要のなくなった足は形態を変えていった。それでどうだい」

「じゃあ、人間はどうなる」

「人類は直立歩行、というより直立走行するようになると、前足をモノの加工に使うようになった。いや、それは逆かもしれない。手を自由にするため二足走行するようになったのだろう。オレたちは手をハネにする気はなかったのだ」

 友也は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「そうすると、天使は贅沢な生き物ということになる。手とハネの両方を持てているのだから。彼らの翼は、神に特別にひいきにしてもらっている証なのかもしれない」

「何だい、一体それがどうしたと言うんだ」

 友也は博人に打ち明けることはできなかった。博人と別れて一人になってから、友也は自分の現状に向き合わざるをえなかった。

 いずれにしても、いつまでも隠しておくわけにはいかない。いつかは人前で裸にならずにはすませられない。温泉や公衆浴場は避けられる。プールや海水浴も我慢できる。しかし、病気になったら医者にかからねばならない。まず、誰か信頼できる人間に見てもらうのがよさそうだ。親やきょうだいには知られたくなかった。彼らは彼の悩みを受け入れるよりも、困惑し、彼を非難するように思えた。美樹がいい。どうせ彼女には裸をさらすのだ。隠しておけるものではない。

 友也が背中の羽を見せたときの美樹の示した態度は興味だった。彼女は何かトリックでもあるのではないかとさんざんいじったあげく、引き剥がそうとまでして彼に悲鳴をあげさせた。羽が取り付けられたものではなく、彼の肉体の一部だということを納得すると、彼女は笑い出した。羽が友也の妄想の産物ではないことは確かめられたが、彼女のそういう反応に彼は傷ついた。

「笑い事ではないんだぜ」

「そうだけど、おかしいわ。何で羽が生えるの」

「知るもんか」

 友也は天使の羽のことを言ってみた。美樹はそんな彼の幻想に同調しなかった。

「なぜ天使には羽があるの」

「たぶん、天国と地上を行き来するためだ。天国は空の上にある」

「でも悪魔にも羽があったはずよ」

「悪魔は堕天使だろう。あの羽は天使のときの名残じゃないかな」

「でも、天使の羽は鳥の羽のようだけど、悪魔の羽はコウモリのように皮膚そのものでしょ」

「コウモリは夜に活動するから悪いイメージがある。洞窟にすんでいるから地獄の住人と思われてしまったのだろう」

「ハトとコウモリの対照か。でも、ハトと対照されるのはタカでしょう。猛禽類は動物や鳥や魚を襲う。でも、ハトだって残酷な鳥だと聞いたことがある。鳥の羽だからといって天国の平和を表わしているわけではないわよね」

「それはそうだが」

「だいたい、天使が人間の姿をしているのはおかしいわ。彼らにも性器や肛門があって、セックスしたり排泄したりすることになる。物を食べたり子供を産んだりする必要が彼らにあるのかしら」

 美樹はそう言ってから少し考え、思いついたように言った。

「トム・リーミィの『ハリウッドの看板の下で』というのを覚えている?」

 美樹はSFマニアで、古典的な作品などもよく読んでいる。その影響で友也もSFを読むようになった。彼女から借りた本にそういう作品があったようだが、思い出せなかった。

「ある種の人間の体が実は蛹のようなものなの。背中に裂け目ができて羽が現れ、裂け目が拡がって羽に続いている物体が脱け出てきて、それが天使の姿をしていた、という内容よ」「ああ、読んだことあるな。主人公に捕らえられた男が脱皮に失敗して死んでしまうのだったな」

 馬鹿げているけれど、形としては似てなくもない。友也は不安になった。美樹は友也の気持ちを察してか、話を変えた。

「そもそも天使だからといって羽があると考えるのがおかしいのよ。天女は羽衣で飛ぶ。道具を使う。仙人は雲を使ったかしら。そういえば、魔女はほうきに乗って飛ぶのよね」

「でも、空を飛ぶには羽が必要だと考える方が科学的じゃないかな」

 美樹は考え込んだ。

「羽だからといって飛ぶことにこだわることはないわ。現にあなたの羽では飛べないんだから」

「飛べない羽が何の役に立つ」

「保温。そもそもの羽毛の役割は保温だったという説があるでしょ」

「背中だけの保温では無意味だ」

「こう考えてはどうかしら。あなたの背中に羽を生やせるとしたら、非常に高度な科学技術の持主よ。例えば、宇宙人」

「宇宙人が何のためにそんなことをする」

「実験かな。それとも人間の家畜化」

「何だそれ」

「よくあるストーリーよ。人間が動物を家畜にしたように、宇宙人が人間を家畜にする。その羽は、家畜を選ぶためにつけた印かもしれないわね。牛の耳につけるタブみたいな」

「何のために」

「ひよこをオスメスに選別するでしょ。ひよこを捕まえて、おしりのところをプッと吹いて、メスは右、オスは左の箱へ放り込む。メスは卵を産むために育てられ、オスは牛かなんぞの餌にされる。あれと同じじゃないかな。みんな集められて、上半身裸になって後ろを向かせられる。そして、羽のある奴とない奴に分けられる」

「羽があれば牛か何かの餌にされるのを免れるわけか」

「あるいは逆。羽のあるのが取り除かれる」

 美樹はだんだん興に乗ってきた。SFの知識を使うのに友也は格好の対象なのだ。友也の気持ちを無視して次々に話題を展開していく。

「映画『マトリックス』でも使われていた世界設定も考えられるわね。この世界は脳内の意識だけの虚構の世界であるけど、それは私たちには分からないというわけ。物質的構成に捕われる必要はないから、羽が生えても不思議ではない」

「誰がそんなプログラムを作るんだよ」

「単純に考えればプログラマーでしょうね。そういえば、この世界の進行を制御している存在、それが神様なんだろうけど、その存在が作業を間違えたというプロットもあるわね。フレデリック・ブラウンの『みみず天使』では、地上の事象を支配する天国の印刷機が誤植を起こし、eの文字が早い位置にきてしまって、変なことが起こってしまうの。みみずanglewormが天使虫angelwormになってしまうとか。これはあなたの場合に似ていないかしら。このバリエーションとして、神様がワープロを使うというプロットもあるわ。表意文字を使う文化ではワープロの変換間違いで同じようなことが起きる。ただし、神様が何語を使うか分からないけど」

「羽や翼では変換ミスは起こらないよ」

「打ち間違いはあるんじゃない。神様はかな入力かローマ字入力のどちらを使うのかな。調べてみようか」

 美樹はパソコンのキーボードをチェックし始めた。

「かな入力で隣のキーと打ち間違えたとしたら、『はね』は『すね』『かね』『きね』『はる』と打つつもりだったのかもしれないわ。『つばさ』の方は意味のある言葉は拾えないけど。ローマ字入力で母音を間違えたとしたら『ふね』『はな』『つぶさ』。子音の打ち間違えでキーが近いのは『ばね』『やね』『はば』『はま』。『つばさ』の方はキーが離れているけど『つらさ』ぐらいかな。二文字の間違いなら『ちぶさ』」

「背中に苦労やおっぱいがくっつくよりも、羽の方がましだ」

「『はれ』というのはどう。はれもののはれ」

「いいかげんにしろ、人のことだからと面白がっていないで真剣に考えてくれ」

「ごめんなさい。でも、こんな受け入れ難いことを真剣に考えていたら、どうにかなってしまいそうだわ。一番いいのは医者に見てもらうことでしょうけど、彼らに理解できるかしら」

 医者は言った。

「あなたの翼には骨、筋肉、血管、神経があって、あなたの体につながっている。単にあなたの背中に引っ付けられたのではなく、あなたのからだの一部になっている。ただし、鳥とはかなり違っているようだ。私はいっとき鳥に興味があって、いろいろ調べてみたことがある。鳥の骨格で特徴的なのは叉骨だ。これは鎖骨が融合したものだが、むろんあなたの鎖骨は分かれたままだ。また肋骨と胸椎が一体化し、羽ばたくための筋肉である大胸筋と小胸筋が胸骨と翼をつないでいなければならないが、それもない。第一、翼というものは前肢が発達したものだから、あなたに腕と翼の二つがあるのはおかしいわけだ。鳥には飛ぶための呼吸を支える気嚢があり、骨は軽量化のために中空になっているが、むろん、あなたにはそれは見られない。つまり、あなたの翼には飛ぶための解剖学的基礎がない。その証拠は羽にもある。揚力を得るために鳥の翼の風切羽は左右非対称になっているが、あなたの翼の羽は左右対称に近く丸みを帯びている。つまり、あなたの翼は飛ぶ機能はなくてディスプレイか擬態にすぎないのだろう」

「これを取ってしまうことはできますか」

「外科的には可能だとは思う。しかし、ホルモンなどの影響が予想される。調べてみないとはっきりしたことは言えないが。もう一つ、この変異が遺伝的なものだとしたら、あなたの子供にも受け継がれる可能性がある」

「何か治療法は考えらえますか」

「一般病院では無理だろうね。大学かどこかの研究機関に頼む必要がある。希望するなら紹介してあげてもいい」

 友也は病院を出ると駅へは向かわず、少し歩くことにした。背中の翼は進化論的問題になろうとしている。たとえ切除しても遺伝子には残るかもしれないのだ。翼が生えたことは生存にどう影響するだろうか。何の役に立ちそうもないので有利になることはないが、今の人類社会では何の機能も果さない余計なものを背負い込んだからといって不利になることもない。もし、翼があることが異性を引き付けるのであれば、遺伝子を残すチャンスが増える。そうなれば、何百年かすれば人類はみな翼を持つようになるだろう。

 しかし、と彼は考え続けた。遺伝的に優位になるには配偶者をたくさん持てる男と配偶者を持てない男がいなければならない。人類は一夫一妻制などによって大部分の男が配偶者を持ち、子孫を残すことができる。だから、翼が女性を引き付けたとしても、その遺伝子が級数的に拡大していくことはないだろう。せいぜいある一家に備わる変わった特徴とみなされるにすぎないのがオチか。

 ヴァン・ヴォクトの『スラン』では触毛が超能力者の目印だった。この翼は何かの能力の象徴のようなものなのだろうか。その能力によっては、尊重されるか排除されるか、そういう極端な境遇になるのだろうか。

 ひょっとしたら、翼は何らかの病気の症状なのかもしれない。いまのところ体調に特に変化はないのだが、体内で何かのバランスが崩れた結果が翼として現れたもので、これから進行していくのかもしれない。体全体が羽で覆われて鳥のようになってしまうというのだろうか。それとも、そういう整った変化ではなく、ガンのような奇怪な変形が起こる可能性の方が大きいだろうか。

 この翼が示す病気が感染性のものであり、しかも致死性の高い病気であったなら、どうだろうか。背中の翼は隔離ための目印になる。ハインラインの『人形つかい』の中で、背中に寄生した侵略異星人に操られる人間を見つけるために、上半身を裸にすることを義務づけるということが描かれていた。そんなことにでもなりかねない。

 コロナでさえあれだけの恐怖を引き起こしたのだ。翼が生えるというような目に見える異常は恐慌をもたらすことになるだろう。鳥人狩りといったことが行われ、翼を持った人間が焼き殺されることになってもおかしくない。

 いずれにせよ、厄介なものを、文字通り背負い込んでしまったものだ。

 スマホの電話がかかってきた。美樹からだ。

「いま、どこ」

「病院を出たとこさ」

「どうだった」

「本当の翼ではなさそうだな」

「取れそう」

「取ることはできるが、問題はあるらしい」

「どうするか決めた」

「いや。何も決めなかった」

「取っちゃえば」

「そうだな。惜しい気もするし」

「そんなのが惜しいの。邪魔になるだけでしょう」

「そのうち飛べるようになるかもしれない」

「阿呆らしい。夢みたいなこと言わないで」

「今も夢じゃないかと思っている」

「とにかく帰るんでしょう。後で会いましょう」

「分かった」

 友也は電話を切ると引き返し、駅へ向かった。翼の生えた子供が生まれるかもしれないと告げたら美樹はどうするだろう。もし彼が新種であるなら、美樹の反応で彼の種族が生き延びられるかどうかが分かるわけだ。美樹や他の娘に拒否されたら、翼のある相手を探さねばならないだろう。新種にはつらい世界だ。世界とは常にそういうものなのかもしれない。今までも無数の試みが挫折させられたのだ。そして、この翼もそういう無駄となる試みの一つにすぎないのかもしれない。

 これが自分の宿命なら、否応もない。背中の翼を自分の一部として受け入れようと友也は思った。

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